「月夜の真珠売り」

登 場 人 物
ジャレツ――――――人探し稼業。元、竜蛇の牙と呼ばれた竜蛇大陸軍部の秘密工作員。
黒髪、黒い瞳。鷹揚で弱い者には優しいが内側は激しい。
かつて愛妻を自ら手にかけた経歴に苦しみながら生きる。
キャスケード―――白鳳人。子どもの頃、都のスラムのストリートチルドレンだった。
キツネ色の巻き毛にアクアマリンの瞳。そのケがない男も欲情するほ
どの美貌だが、本人は大の男嫌い。でもジャレツだけは別。
わがままと女グセの悪さは天下一品。甘ったれで感情的。
デニーゼ―――――湧き水の邑の貧しい少女。そばかすだらけでやせっぽち。
身体を売ろうとしてキャスケードとジャレツに出会う。
兄を湧き水の衛士にしたルナシルダを憎む。
ルナシルダ――――湧き水の村の先代邑長の五人の未亡人のうちの第一夫人。
実は地下湖一族の回し者だったが先代アルノワを愛して遺志を継ぐ
ことを決意。人間離れした美貌は真珠がもたらしたもの。
リシュダインに殺された夫を蘇生させようと願う。
アルノワ・ロンダム――――先代邑長。竜蛇皇帝リシュダインに逆らったため抹殺された。
死してなお、リシュダインと彼に魂を売ったポセイディオーン
に屈しない。
ポセイディオーン――――月夜になるとどこからともなくやってきては真珠を売り歩く
絶世の美少年。銀の髪。竪琴や横笛で人を操る。
せむしの老人―――――地下湖一族の長老。不吉な醜貌の持ち主。
しぶとく湧き水の井戸に日参しては悲劇の民を印象づける。
モイザ――――――ジャレツの竜蛇時代を知る娼館のマダム。
リシュダイン――――竜蛇の時輪皇帝。不死。ひとつの人生を終えると老体から赤ん坊と
なって生まれ変わる。そのたび背中の瘤がひとつずつ消える。
かつてジャレツの全身全霊を所有し、支配していた。湧き水の邑と
地下湖一族の対立を利用してジャレツを罠にかける。
アナリディカ――――リシュダインの密偵であったため夫に殺された。
瞼と耳たぶが緑色の神秘的な人種。

「真珠はいかが?
どんな願い事でも叶える真珠
文無しでもかまやしない
あんたの魂とひきかえさ」
第 一 章 湧き水の邑
人の世の澱とでもいうのだろうか、日没が迫るにつれて足元へ足元へと淀み溜まっていく濃密なもの。足枷のように足首にまといつき、眼の底にも沈殿して明快な視界を許さぬもの。やがてそれは眼の底から鼻腔へ、口元へと下り次第に人を呪縛してゆく。
決して苦痛をともなうものではない。脳までをそれに侵され始めると、人々はうっとりと陶酔する。現実の辛さから逃避できる一日で唯一、許された時間。血のような日輪を眺める時だけ、自分は世の中でまあまあ成功しているじゃないか、と錯覚させられる魔法めいた時刻。
やがて断末魔をあげながら、日輪が渇ききった地平線の向こうへ砂塵とともに没していく瞬間、澱の濃度は最高潮に達し――――――どこからともなくあの声が聞こえてくる。はじめはあるかなきかのかすかな響きを持ち、だんだんと耳朶に入り込み、脳の深部で澱と混ざり合い頭蓋の内側に反響するあの声。
「真珠―――――、真珠はいかが――――――男のものとも女のものとも若者とも老人とも判別しがたい不思議な声色。経典を唱えるかのような気だるい、呪術めいた韻律。
ザルに入れた小魚を秤売りするような気軽さで真珠を売っているのは、真珠色の瞳を持つ少年。この世に存在を許されるのかと神も羨むような絶世の美貌の少年である。
東の空に朧な満月。
邑人たちは熱に浮かされた者のように、または墓場から甦った死人の群れのように、その声めざして進み始める。両手を前に突き出し視線を空間に漂わせ、ただひたすら「真珠、真珠」と洩らしながら。
黄昏の薄むらさきは刻々と濃さを増し、月からしたたるトロリとした光が真珠売りの少年の頬を蜜色に染める。
「真珠、真珠はいらないかい。富を築ける真珠、冥界の恋人と逢える真珠、美貌を手に入れられる真珠、過去をやり直せる真珠、憎い人間を抹殺できる真珠、どんな真珠もありますよ。ええ、真珠はいかが、真珠は――――」
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赤茶けた大地を、二本の砂塵が西へ向かっていた。ほとんど無きに等しい道らしきものが痩せた潅木の間を縫って続いている。他に動くものといえば、聞きなれぬマシンの響きに迷惑そうな顔をする放牧の羊くらいである。
「だだだだ、いいぜ、いいぜえ、すこぶる快調、ごっきげんだぜえ!最高だぜアンジェリーダアアアア!」
二台のサンドバイクのうち、後ろを走っているキツネ髪の青年が先ほどからマシンの振動に合わせて雄叫びを上げていた。先を行くマシンがやおら停まったので、あわててブレーキをかける。
「な、なんだよ、急に」
先のバイクの男はヘルメットを取り、熱砂の風に黒髪をさらした。漆黒の皮ジャケットを着込んだ背中が鍛え抜かれた筋肉の量感を隠しきれずみなぎっている。
「キャスケード、頼むからバイクを女の名で呼ぶのはやめてくれ。そうでなくてもこの暑さで脳天が火を噴きそうだ。
いいじゃねえか、そのくらい。なあ、アンジェリーダち・や・ん」
キャスケードと呼ばれたまだ若い男は、再びエンジンを蒸かそうとしたが手ごたえがない。
「すこぶる快調が聞いて呆れるな」
黒髪の男はヘルメットを頭に戻し、自分のバイクも蒸かしてみたが、エンコが伝染したのか、アンジェリーダ同様にまぬけな音を出すばかりだ。
「こいつぁいいや」
キャスケードはキツネの尻尾のように束ねた長髪を揺さぶって大笑いした。
「くそ、あのバイク屋の親父め、ろくでもないポンコツを売りつけやがったな」
黒髪のジャレツはまだ笑い続けている相棒を尻目に、懐から古びた地図を取り出した。
「おい、笑い事じゃないぞ、キャス。一番近い邑まで百陸路はある」
「ひええ、砂漠の女神様、僕の貞操をささげますから今ここに水を湧かせてくださあい」
「キャスケード」
尚もおどける相棒をジャレツの眼が険しく捕らえた。
「お前、何か気に入らないことでもあるのか」
「何を気に入れってんだよ」
キャスケードのブルーの瞳が迎え討つ。
「年がら年中、人捜し、人捜し。ろくに自分のねぐらにも帰らねえで一生懸命捜し出したところで報酬はすずめの涙、見つけられなきゃ罵詈雑言。いつまでこんなわりにあわねえ稼業やってくつもりだよ、え?」
言いながら腰の水筒をラッパ飲みにしたが、口に入ったのは、二、三滴でしかない。
「ははあ、キャス。お前、この前の一攫千金の話に俺が反対したことをまだ怒ってるな」
「あったりめえじゃねえか、あんな美味い話を蹴るなんざ、正気の沙汰とは思えねえぜ」
「美味い話にゃ必ずウラがある。何度言ったらわかるんだ。お前はまだまだ世間知らずのヒヨッコなんだ」
「へん、いつまでたってもガキ扱いかよ」
唇を突き出して拗ねてみせる表情はまだあどけない。今年十七になったばかりのキャスケードは、十歳年上の相棒に首根っこを押さえ込まれて身動きできないのだった。
「とにかく、干物になっちまう前に邑へ急ごう」
ジャレツは逞しい肩に愛用の皮袋を乗せ、歩き始めている。置いていかれまいと、キャスケードが慌ててバイクをうち捨てて後に続く。
「で、なんて邑なのさ」
「湧き水の邑―――――だ」
「あっりがてえ。イヤというほど水が飲めるんだろうな、きっと」
ぎらつく日輪は今、やっと中天にさしかかったところである。
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「苛立っておるな、お若いの」
不意に足元から声をかけられ、キャスケードはぎくりと立ち止まった。日中かけてやっと辿りついた、湧き水の邑の細い小路でのことだ。声の方へ視線を落とし、もう一度おぞ気が若者の背を走りすぎた。
声の主の風貌があまりに異様だったからである。うずくまる姿はまるで苔むした岩のようだった。せむしの小人。頭髪は古い火傷の痕のせいかまばらで、眼は腐臭の漂う魚眼のよう。鼻は引きつれ紫色の唇からのぞくたった一本の歯は歳月を経た墓標さながらであった。
醜いだけで人を嫌悪するつもりなどさらさらないキャスケードだが、その老人は何かしら不吉な空気をまといつかせていた。
「苛立っておるな。目で判る。悪夢のせいじゃろう。いや、白昼にもしばしばお前さんを苦しめるそれを言いあててしんぜようか。お前さんの大切な人間――――――絶対に信頼を置いている大切な男が、いつか自分を捨てるんじゃないか、という懸念。それのみせる夢。ある日、その男は豪奢な馬車に乗り、追いすがるお前さんを足蹴にして去ってゆく。そんな悪夢に苦しめられておるんじゃないか?」
キャスケードの全身が凍りついた。
一言一句、その世にも醜い老人が言ったことが的を射ていたからである。
「恋しいんじゃろ、切ないんじゃろ、ひっひっひい」
一本きり残った黄色い歯を見せ、老人は地獄の軋み時計のような笑い声を洩らした。
「うるせえ、何をいきなりほざきやがる。俺は男に触れられると胃の中の物を吐き出したくなるくらい、筋金入りのノーマルでい!」
キツネが背中の毛を逆立てて交戦状態に入るようにキャスケードは身構えた。
「隠さずともよいではないか。ひっひい」
老人は不気味な笑いをひきずっていたが、やおら膝頭に顎を乗せてもうフネを漕いでいる。キャスケードの怒りはやり場を失った。
「おい、キャス。もたもたするな」
小路の向こうでジャレツが呼んでいる。
「へん、もうろくじじいが」
忌々しげに路上に唾を吐き、癇症の若者は湿気づいた小路を後にした。
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湧き水の邑は黄昏のヴァイオレットのヴェールをまとっていた。
隊商の交易ルートにあたる重要な水の補給地であるため、古くから栄えてきたであろう邑である。中央の広場に幾千年も前から湧き続け、どんな日照りの時にも枯れたことがないという古井戸がある。
邑人や旅人は、こんこんと湧きいでる清水に身も心も癒され、家畜どもも生き返る心地を味わう。早朝から夕暮れまで老いも若きも男も女も長蛇の列をつくり、順番に汲み出してはそれぞれの夕餉や湯浴みのために持ち帰る。つるべの音が途切れる暇も無い様子だ。
ジャレツとキャスケードが広場にやってきた時、ひと群れの内儀さん連中が笑いさざめきながら木桶いっぱいの水を持ち帰るところだった。
「ひゃっほう!水だ水だ!」
飛び跳ねながら走りよったキャスケードの行く手を、物々しい槍の十字がさえぎった。
「な、なんだよ。よそ者にゃ水はやれねえってんじゃねえだろうな」
刹那、彼方に見える雪を頂いた山脈の向こうに真っ赤な日輪が没した。
「これまで――――い」
衛士の野太い声が響き渡り、同時に教会の鐘が甲高く鳴った。
「これまでって・・・・」
キャスケードが茫然と眺める中、古井戸の周りを囲った鉄条網の出入り口が情け容赦なく閉じられ、石版ほどもある錠前がかけられた。衛士頭が恭しくその鍵を真紅のびろうどの上に乗せてささげもち、広場の隅に待つカササギのような老人のところへもっていく。
長い裾の民族衣装を着込んだ老人は慣れた仕草でそれを受け取ると、背後に停車させてあった四頭立ての馬車に吸い込まれた。
錠前と馬車そして古井戸の屋根には、同じく鱗に覆われた女神の紋章が刻まれている。
「おいおいおい」
キャスケードの制止など全く無視された。
「キャス」
振り向くと、相棒が耳元に囁いた。
「今聞いたところによると、あの井戸は日没から日の出まで使用禁止だそうだ」
「そんなのありかよお」

馬車が走り去った後、八人のいかめしい衛士が東西南北を隙なく固め、もう猫の子一匹鉄条網の中の古井戸に近づくこともできない。
「仕方ない。旅籠に着けば食事にありつける。それまでの辛抱だ」
きびすを返したジャレツに続こうとしたものの未練たっぷりに湧き水の井戸を振り向いたキャスケードだったが、その足が止まった。
広場の石畳を横切って、異様な集団が現れたのである。巨大な蟹の群れがやってきたのか、とさえ錯覚してしまいそうだ。
「あ、あのじじいだ」
キャスケードは刻一刻と濃くなりゆくヴァイオレットの中で眼を凝らした。先ほど小路の奥で失礼な言葉をかけてきたせむしの小人が、自分と同じ体型の人間を十数人もひきつれてきたのだった。そろいもそろって背中を岩のように丸め、ひょこひょこと跳ねてくる。
鉄条網の前まで不自由な身体を引きずってくると、先頭の老人は衛士の頭らしきひときわ大きな体躯の男を見上げた。
「お願いじゃ。水、水を汲ませて下され」
衛士は槍を持ったまま、微動だにしない。
「これ、このとおりじゃ。水を」
老人はその場に膝まづき、石畳に額をすりつけた。仲間も次々にそれにならう。
「ならん」
「他の人間には惜しげなく水を分け与えているというに、何故わしら地下湖一族だけには許されぬのか。夜、昼ともに」
「地下湖一族だけには許されぬのか。夜、昼ともに」
「地下湖一族には一滴たりとも与える水はこの湧き水の邑――――――ロンダム族長の井戸には無い」
「どうか、ルナシルダ様におとりなしを」
蟹どもは甲羅をすりつけるようにして懇願したが、衛士の態度は和らぐどころか先頭の老人を足蹴にする始末だ。
「これほどにお願いしても・・・・」
邑人たちが遠巻きに見守る中、やがてあきらめたのかせむしの小人どもはうち萎れてどこへともなく姿を消した。
一部始終を眺めて呆然としていたキャスケードの肩を、大きな掌が叩いて先を促した。
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旅籠の夕食は食事と呼べる代物ではなかった。それでも、ふたりの所持金を合わせてもこれが精一杯である。
「屋根のあるところで寝られるだけありがたいと思おうじゃないか」
薄汚い寝台がジャレツの体重にうめき声を洩らす。
「あーあ、明日から日雇い人夫でもして馬かバイクでも調達しなけりゃ都へ帰れねえってわけか」
「お前が前の宿場で稼いだ金を一晩で博打でスッてしまうからだぞ、キャス」
開け放たれた窓の外で、しきりに街娼が旅人に媚を売る色っぽい声が聞こえる。
キャスケードは寝台に倒れこみ、長身を二つに折って枕を頭に押しつけた。
「酒もねえ、女買う金もねえ。くそお、香水の匂いがぷんぷんしてきやがる。身体に毒だぜ。ジャレツ、窓を閉めてくれえ」
「ばか言え、この蒸し暑い晩に窓なんか閉められるか。ちょうどいいお仕置きだ、この邑に滞在してる間くらい女ぬきで通してみな」
「鬼!悪魔!人でなし!」
キャスケードでなくても淫靡な夢を見そうな不思議な邑、そして宵である。
さんざん寝台の上で身もだえを繰り返したキャスケードは抱きしめた枕の隙間から、そっと相棒を盗み見た。
ジャレツは寝台の上一面に愛用の銃の部品を並べ、手入れに余念が無い。慣れた手つきが、彼がきな臭い経歴を経てきたことを物語っている。ましてや銃身に竜蛇の紋章がはっきりと象嵌されていては。
キャスケードはとうの昔から、相棒が竜蛇大陸から流れてきたことを知っている。
十二の時、白鳳大陸の都スノーバードのスラムで彼に拾われた。
親の記憶は無い。生まれた家の記憶も無い。気がつくとゴミためのようなスラムの片隅で、山猫のように生きていた。腹が空けば何でもやった。スリ、かっぱらい、恐喝、詐欺。身体さえ、少年を嗜好する男たちに売った。徒党を組み、ストレートチルドレン同志の抗争にも挑んだ。
敵対するグループに捕らえられ、今度こそ五体満足ではすむまいと肝をくくったその時、見知らぬ男が救ってくれた。黒髪に黒い瞳。ひと目で白鳳人種ではないと判る精悍な風貌。それが、ジャレツとの出逢いだった。
以来、五年の歳月を共にしている。
それまで誰にも服従したことがなかったキャスケードが、すんなりジャレツに飼い慣らされたわけではない。助けられた恩などどこへやら、何度逃げ出そうとしたことか。しかし、未だに離れられないのはどういうわけだろう。キャスケードは不思議に思う。
高熱を出すたび、暖かい手で看病してくれた思い出が待ったをかけるのか。それとも、彼からもらった革細工のペンダントが呪縛となっているのだろうか。
出会う人間の殆どはキャスケードがこの素晴らしい体格の男の情人だと思い込む。いい加減、否定するのにも疲れた。いっそ、そうなれたならこのところの苛立ちもおさまるだろうに。
(そうだとも。女みたいに頼りきってりゃ、自分の生き方なんて主張しなくてもめでたく生きてゆけるのに)
だが、キャスケードのプライドがそれを許さない。いつかでかい金をものにしたい。人を使い、顎で指図できる身分になりたい。そのために、いつかはジャレツと道を分かつだろう。
(このままじゃ俺は狼の足元をちょろちょろするキツネでしかねえもんな)
しかし――――――。
キャスはもう一度ジャレツの大人びた横顔を見つめる。いざ、この男と別れて広い白鳳大陸でひとりで生き抜いていくと思うと尻込みしてしまう。
(ガキの頃の方が度胸があったじゃねえか)
かといって、全く過去を語ろうとしないジャレツから、ある日突然「あばよ」なんぞと告げられでもしたひには、と想像するだけで胸苦しくなるのだ。キャスは自分の懊悩をぴたりと言い当てた、あのせむしの老人を思い出して、キツネ色の巻き毛をかきむしった。
プライドと、甘ったれた思慕が心の中で対決を待っている。得体の知れぬこの甘美な葛藤こそが若者の特権であることを、キャスケード自身、気づく余裕は無い。
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やがて窓の外の街娼たちもすべて商談がまとまったらしく、宵の騒擾は深夜の静けさに移り変ろうとしていた。
唐突に扉が鳴った。キャスケードはのろのろと寝台を下りて扉を開けた。視線はやや下に向けられた。来客はキャスケードの胸の辺りまでしか背丈の無い少女だったのだ。
栗色の髪に無造作に野の花を差した、まだ十二、三のみすぼらしい少女は、腕にかけた籠にしおれた野の花をたくさん入れていた。
「なんだ、お前」
キャスケードは耳の穴を小指でほじりながら、怪訝そうな目を向けた。
「旦那様、この花を買って下さい」
少女はか細い手で籠の花を一本抜き取ると、カの鳴くような声で言った。
「あん?」
キャスケードは小指を顔の前に持ってきて吹き散らした。
「お嬢ちゃん、男に花を買ってくれって意味をちゃんとわかって言ってるの?」
少女はソバカスだらけの頬を赤らめて頷く。キャスケードの眼が俄然、いたずらっぽく輝き始めた。

「へええ。こいつぁ面白えや。おい、ジャレツ。このお嬢ちゃんが春を売りに来たぜ」
「よせ、キャスケード」
相棒は奥から戒めた。が、キャスケードは悪乗りして、
「で、いくら?」
「旦那様のおっしゃる分で結構です」
ますます少女の声は消え入るようだ。
「ううん、でもそのぺったんこの胸じゃなあ。俺は窒息しそうなグラマーちゃんが好きなのよん。せっかくだけどおことわり」
「よさないか」
ジャレツが立ってきて少女を見た。
「あっ。てなこと言って、あんたが買うつもりじゃねえだろうな、ジャレツ。あんた、こんなガキがいいのか?」
「ばかヤロ」
「知らなかったなあああ」
くだらないやり取りはいきなり中断された。旅籠の廊下に、どやどやと大勢の人の気配が満ち、階下から血相変えた老人が駆け上がってきたのである。他の部屋の客も、何事かと次々に扉を開ける。
「あれ、井戸の鍵を持って帰った爺さんだ」
キャスケードが洩らした通り、まさしくあの時の老人だ。鮮やかな民族衣装をひきずって、白いあごひげを蓄えている。
「ジャレツ様でいらせられまするか」
ジャレツとキャスケードは面食らって顔を見合わせた。初めて立ち寄ったこの邑で、ジャレツの名を知るものなどいるはずがなかったからである。
「確かに俺はジャレツだが」
真白き眉の下の老人の眼は興奮に輝いた。
いきなり部屋に踏み込み、窓辺へ突進するなり、いつの間に横付けされたものか、五台の馬車めがけてしわがれた声をはりあげる。
「ジャレツ様です。正真正銘、ジャレツ様がおいでになりましたぞ!」
五台の馬車のうち、四台のそれから甲高い歓声があがり、きらびやかな衣装に身をやつした夫人が飛び出してきた。侍女に長い裾を持たせたり、靴が片方脱げたりと大騒ぎしながら旅籠の入り口へと殺到し、腐り落ちそうな階段をけたたましく駆け上がってくる。
「こりゃいったい何の騒ぎ――――――」
茫然としていたキャスはたちまち、かたわらに残っていた幼い娼婦共々、肉厚な夫人に突き飛ばされてしまった。
「ジャレツ様、お会いしとうございました」
二重、いや三重あごの夫人がジャレツの首を抱いて接吻の嵐を浴びせたのを皮切りに、白粉の香をまき散らしながらやってきた女、三人が我先にと抱きつく。

旅籠の廊下は今や女難地獄さながらだ。
「やめろ、まず訳を話せ。おい、爺さん!」
老人のとりなしでようやく女たちが静まった時には、ジャレツの威厳は崩壊していた。
「申し遅れました。私は家令のオルビンと申します」
老人の話によると、この邑の長、ロンダム家の当主がひと月前、三十歳の若さで病死したという。あいにく彼にはまだ嗣子がなかった。致し方なく、跡継ぎ問題は放置されていた矢先、当主には弟がひとりあったことが判明した。幼い頃ロンダム家を襲った郎党どもがさらっていったというのである。
「で、その弟がなんで俺なんだ」
「そう申したのですよ」
「誰がだ」
「真珠売りのポセイディオーンですよ」
老人は涙さえ浮かべてありがたがっている。
「真珠売り?」
ジャレツは部屋の隅で大笑いをこらえているキャスケードと目を合わせた。
「真珠売りのポセイディオーンの言い当てたことが的中しなかったことはございません。
現に、あなたさまのお名前も」
「どうせどこかの裏のツテから小耳に入れた名を言ったんだろう。あんたたちがどう思おうと俺はロンダム家の息子なんかじゃない」
「確信がおありで?」
「白鳳の人間は皆、金髪か栗毛に碧眼だ。俺みたいな黒髪に黒い眼のはずがない」
さすがに苛立ちを抑えきれず、ジャレツは頬につけられた紅を拭いながら声を荒げた。
「あなた様のお母上は竜蛇大陸のお方でした。黒髪、黒い瞳でも不思議はございません」
なかなか頑固な老人である。説得を待ちきれぬ婦人たちが、きいきい声でわめく。
「で、この夫人方は」
「亡くなられた旦那様の五人の奥方様です。この邑では、夫が亡くなると未亡人たちは全て近親者の妻となることになっております」
「近親者ってのが、つまり」
「あなた様でございます。ジャレツ様」
ジャレツはげっそりとして相棒を見やった。
キャスケードはこみ上げる笑いを押し殺そうと苦心している。
「ジャレツ様、真珠売りの予言を聞いてからというもの、ろくに眠れませんでしたのよ」
三重あごの婦人が涙ながらに訴えた。
「私も、そのご尊顔を拝するまで心配で」
「これで、私の身分も安泰です」
「なんてご立派な殿御でしょう」
よく見れば、ジャレツよりはるか年上の女から十七、八の少女まで四人の妻の年齢はさまざまだ。うちそろってけばけばしい。
「第一夫人のルナシルダ様が、外でお待ちでございます」
老人の言葉に窓の外を見やると豪壮な馬車の前にひとりの女性が立っている。
銀の髪だ。今まさに降りそそいできた月光の中にたたずむ姿は他の女たちとは比べものにならぬほど気高く麗しい。
こんな女人が生きて物を食べ、呼吸をしているのかと疑わしく思うほどその肌は滑らかで純白で、唇だけが情熱の色をしている。キャスケードが思わず口笛を鳴らした。
「ジャレツ。あんな美女が二つ返事であんたのものになるってさ」
「そうですとも」老人は頬を紅潮させ、さらに薦める。「ささ、一刻も早く館へおいでくださいまして・・・・・」
老人が言い終わらぬうちに、ジャレツの逞しい体躯は窓框から乗り出していた。
「キャス」
「あいよ」
相棒との呼吸も一糸乱れることなく、軽やかに地上へと身をおどらせる。
「ジャ、ジャレツ様!」
「悪いな、爺さん」
ルナシルダのかたわらをすり抜け、二匹の獣はあっという間に闇の森陰へと消えた。
婦人たちの下品な叫びが夜気をつんざいてこだました。
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ふたりは邑外れの樫の根元に身を投げ出し、熱い胸郭を波打たせた。
「けっさくだ」
喘いでいたキャスケードは可笑しさがこみ上げてきた。真昼のような月光が射す地面の上で笑い転げる。
「ジャレツが当主様だってよ」
「まったく、迷惑な話だぜ」
「案外惜しかったって思ってるんじゃねえの?何せ、あの奥方の美貌だもんな」
からかいながらも、キャスケードは相棒が確かにここにいることに安堵していた。
「ところであの女の子はどうした」
ようやく呼吸を整えたジャレツがつぶやいた、その時である。
女のヒステリックな声がした。
やや離れたガス灯の根元で、穏やかならぬ騒ぎが起こっている。数人の街娼に寄ってたかって暴行を加えられているのは、先ほどの幼い娼婦ではないか。
「あの娘だ」
「やれやれ、また女がらみかよ」
キャスも相棒に続いて腰を上げる。
「よさないか」
ジャレツは女ばかりの乱闘に割って入り、ぼろきれのようにいたぶられた少女を素早く背後にかばった。
「邪魔しないでくれる、オジサン」
目を紅で隈どった女がすごむ。
「こりゃ、あたいたちの世界の事なんだ」
「どんな理由があるにせよ、一人対多数ってのは卑怯だぞ」
「だってその女、あたいたちの縄張りにひと言の断りも無しに荒らしたんだ」
「まだ子どもじゃないか。知らずにやったことだろう、大目に見てやれないか」
「オジサンこそ、あたいたちの掟を知らないらしいね。
燃えるような髪の女が刃物を取り出した。
「知らんな。教えてもらおうじゃないか」
「ジャレツ、よしとけよ。姐さん方に逆らうと恐いよお」
キャスケードの制止も効力を示さなかった。ジャレツの癇症もキャスケードに劣りはしない。ひとしきりの乱闘の後、ラメのトサカを着けた雌鶏たちをひとからげにしてしまった。
「さ、案内しろ」
「ど、どこへさ」
「決まってるじゃないか。お前たちの元締めのところだ」
街娼たちは顔色をなくした。
「そ、それだけは勘弁してえ」
「今頃、猫なで声出しても遅い。俺をオジサン呼ばわりした罰だ。さあ歩け」
ジャレツは容赦なく言った。
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濡れたような月の光さえ届かぬ露地の奥に、その私娼窟はあった。
多分、正式な免状なく営業しているのだろう、そんな胡散臭い空気が充満した館である。
もっとも各地のそんな店には行きなれているジャレツとキャスケードではある。
やっと戒めを解かれた街娼がすがりつくようにして青銅のノッカーを慣らす。まもなく出てきた小男は戸口にたたずむ大きな男の影に、ぎょっとした様子だ。
「主人に会いたい」
痛めつけられた街娼たちを、目を白黒させて眺め回した小男は無言で引っ込み、ほどなくもう一度でてきた。親指で入れと促す。
扉の内側は深海のような緑色だった。
紫煙がたゆたい、鉛色の照明のもと、部屋のあちこちで快楽を貪っているのは人間の男女に違いないが、まるで影絵でも見ているように幻想的だ。
小男が傷ついた娼婦どもを手早く連れてゆき、フロアにはジャレツたちと少女がのこされた。幼い娼婦はこれから何が始まるのか、と脅えた目をしている。
奥に曲線を持ったカウンターの向こうで、充分熟れた女が腕組みして待ちうけていた。
来客に一瞥を投げ、キセルの灰をポンと捨て、
「うちの娼婦たちを可愛がってくれたそうじゃないか」
酒と煙草でつぶれたしゃがれ声だ。
「この女の子を大勢で痛めつけていた。この世界じゃいさかいはご法度だな?」
悠々とカウンターの席に座りながら、ジャレツは最初の一撃を放った。
天井からの照明が彼の頬の輪郭をくっきり浮き上がらせる。と、マダムのどぎつい色の爪がキセルを取り落とした。
「ジャレツ・・・・!あんたジャレツじゃないかい」
紫のアイシャドーの目が見開かれる。
「モイザ?」
煙草を取り出そうとしていたジャレツの手も止まった。
「やっぱり!奇遇だねえ、こんな片田舎で再会するなんて」
女はカウンター越しにジャレツの首を抱いた。
「白鳳に渡ってきていたのか」
「そうなんだよ。竜蛇の真紅の芥子と呼ばれた踊り子も、流れ流れて娼館の女将さ」
キャスケードが察するところ、どうやら彼らは旧知の間柄のようだ。マダムの態度は打って変わった。目じりにありったけの皺を寄せてもてなし始める。
「ああ、懐かしいねえ。ここで逢えたのも何かのお導き。今夜は語り明かそうじゃないか。あれから何年経つかねえ。七年、いや八年?あの頃はあんた、毎日私たちの舞を見に来てくれたっけ。もちろん、お目当てはあの娘だけだったんだろうけど」
連射銃のように繰り出される言葉がほんの一瞬、途切れたのをキャスケードは聞き逃さなかった。だが、だが次の瞬間にはモイザはたくみに話題を転じ、
「お連れさんかい?こりゃまた黄金果実みたいなにいさんじゃないか」
「仕事の相棒だ。キャスケードという」
ジャレツはやや決まりが悪そうに紹介した。
「よろしく、うっとりするようなにいさん。ささ、モイザ姐さん特製の竜の酒をぐっとおやりな」
「やあ、モイザ」
キャスケードはグラスをかざした。
「で、なんだっけ、あんたの用事は。そうそう、うちの娼婦たちが世話をかけちまったんだったね。許してやっとくれ、ちゃんと言いきかせておくよ。そっちの嬢ちゃんに怪我させちまったようだね」
「あんたの方の縄張りで花を売っちまったらしい」ジャレツが言い添えた。「大目にみてやってくれ、何せこの若さだ」
「本当に、まだねんねだねえ」
一同の視線が幼い娼婦の上に集まった。少女はこれ以上は無理なほど縮こまっている。
「お前、名前は?」
キャスケードが隣席をすすめながら尋ねると、少女は下を向いたままかすかに唇を動かした。
「デニーゼ」
「この商売長いのか?」
少女はかぶりを振った。頬の傷が痛々しい。
「今夜が初めて」
「初店だったのか。もったいないことした」
おどけるキャスケードをジャレツが目でいさめてから、重ねて聞いた。
「そんなに金に困っているのか」
「・・・・・」
「その歳で身体を売らなきゃならんほどか」
「真珠を買うの」
ポツリとサクランボの唇が言った。
「真珠?」
ジャレツとキャスケードは口をそろえて聞き返す。少女はこくりとし、おもてをあげた。驚くほど強固な意志が眼に宿っていた。
「真珠を買うためにお金が要るの。ポセイディオーンの真珠は一個、千ペセテカもするんだもん」
「ポセイディオーン?どこかで聞いたぞ」
キャスケードはジャレツに目で問うた。
「あの家令の爺さんが言ってた真珠売りだ」
異様な沈黙が紫煙と共に漂った。
「あんた、どんな真珠が欲しいんだい」
モイザが煙を吐きながら興味深げに問う。
「媚薬の真珠」
「そんなものどうする気さ」
「あの女の夫を奪ってやるんだ」
大人たちはぎょっとして改めて少女を見た。
「あの女って・・・・」
「ロンダム家の第一夫人、ルナシルダよ」
キャスケードは危うくグラスを落とすところだった。モイザが肩をすくめて、
「だってあの女の旦那は先月死じまったじゃないか。いったい誰に媚薬の真珠を使うつもりなんだい」
「そう。番狂わせなの」
少女は肩を落としてため息を洩らした。
辛抱しきれなくなったキャスケードが吹き出したのと同時だった。デニーゼはじめ一同の視線は彼に移行した。
「あっはっは、茶番だ、茶番だ。面白え、ああ、腹が痛え」
「キャスケード」
「だってよお、ジャレツ。これが笑わずにいられますかってんだ。おい、デニーゼとか言ったな、お嬢ちゃん。媚薬の真珠とやらを使って籠絡する相手はこれ、ここにいるぜ」
ジャレツの肩を叩きながら、また大笑いする。デニーゼはきょとんと眼を丸くした。
「つまりお前が真珠代を稼ぐために初めて身売りしようとした相手こそ、新しいロンダムの当主ってわけさ」
「よせ、キャスケード。冗談がすぎるぞ」
ジャレツは顔をしかめた。
デニーゼは茫然とふたりを見つめるばかりだったが、からかわれていると思って口をつぐんでしまった。もうどんなにキャスケードが軽口をきいても砂漠の道しるべのように黙りこくったまま、爪を咬んでいる。
「ふふん」
モイザがびろうどのショールを腕までずらして、コーヒーブラウン色の胸の谷間をあらわにした。熱い視線でジャレツを射抜く。
「ロンダム家の未亡人に見初められでもしたのかい?あんたなら無理もないねえ。相変わらず研ぎ澄まされた目つき―――――酷薄さと情の熱さが共存している不思議な眼。まったく、あんたを見ていると内臓までさらけ出して舐めてほしくなっちまう」
慣れた仕草でジャレツの腕をとろうとしたが、彼の手はするりと逃れてグラスを持ち、一気にあおった。
「そっちのお嬢ちゃんへのお詫びに一夜代わってあげようと思ってさ。もちろん、お代は私がお嬢ちゃんに支払う。どう?」
「それなら俺よりこいつの方を頼む」ジャレツの親指が相棒を指した。「ひと晩でも女ッ気無しだと月に向かって吠えるんだ」
「人を月狂病みたいに」
カウンターの下でキャスケードの足が思い切り相棒の向こうずねを蹴飛ばした。
「不満か?モイザ」
「いいともさ」
モイザの熟れた舌がゆっくりボルドーの上唇を舐め上げながら若者を検分した。
**********************************************
夜は深々と更け、月の光はさえざえと家並みの瓦に真珠のように振りこぼれる。黒々と眠る民家は静まりかえっていた。
さすがに日中の暑気も遠のき、淫靡な娼館を解放された身には夜気が美味しい。
石畳を黙々と歩くジャレツの孤影の後ろを少し間をあけて、やせっぽちの少女が歩く。
さっきの乱闘でくじいたらしく、びっこをひいている。
「そら」
ジャレツが背をかがめて促した。少女は息をのんで立ちすくむ。
「家まで送ってやる。それとも俺が怖いか」
少女はかぶりをふったとたん、広い背中へ乗せられていた。革ジャケットと混じり合った香ばしい体臭は少女の肩越しに伝わった。
「デニーゼだったな」
「・・・・」
「詳しい事情は知らんが、その歳で身体を売るなんざやめとくこった。本当に結ばれた相手に逢った時に、絶対に後悔するぞ」
容貌からは想像できぬ優しい言葉がジャレツから洩れた。ややあって、少女の苦しげな声が応える。
「兄さんの仇を取るためよ」
「仇――――――?穏やかじゃないな」
話の飛躍にジャレツは唸った。この少女の言うことは真珠売りの真珠と、ロンダム家とどうかかわているのか。
「あっ」
突然、デニーゼは叫び、ふりむきかけたジャレツの口元に人差し指を立てた。
笛か、と最初は思われた。澄んではいるが悩ましい音。女の声色のような高い琴線だ。
いつの間にかジャレツたちは邑の中央広場にさしかかっていた。夕暮れに見た湧き水の井戸には、白銀の月光を浴びながら屈強な衛士が環列をなして取り囲み、人形のように動かない。目深に被った兜の奥の眼は、聞こえてくる妖しげな音律にも毛筋ほども動ずることなく、井戸を侵す者がないかと警戒を続けている。
やがて、音律が少しずつ近づいてくるのが判った。人間の声と、竪琴だかの音色がまじりあって独特の音を紡ぎ出しているのだ。
ジャレツは習性にならって反射的に小路の陰に身を隠した。
真昼のような月光の中を、ふわふわと曖昧な足取りでリズムに乗りながらやってくる者がいる。
「真珠、真珠はいかが?小ぶりの竪琴を奏でながら謳っているのは、まだ成長しきっていない、アンバランスな細身の少年だということが判った。
妖精のかしらとでも言い表わせばいいのか、肋骨の浮き出た上半身にまとっている布がひらひらと月の光に映えて美しい。
「あれが真珠売りだな」
ジャレツが問うと、うっとりと見入る背中の少女の声は別人のように蕩けていた。
「そうよ。真珠売りのポセイディオーン。どこからやってくるのか、どこの誰だか誰も知らない。判っているのは彼の売る真珠が、私たち貧しい者たちの願いを何でも叶えてくれること、ときおり洩らす予言が外れたためしの無いこと。そして―――――」
「そして?」
「彼ほど美しい人間は古今東西きっといないだろうってこと」
やがて大勢の邑人が真珠売りの後を追ってやってきた。飢えた者のように口々に「真珠、真珠とつぶやきながら、跳ね回る真珠売りの一挙一動に波のように揺れ動く。
「さあ、今夜は満月だ。お祝いに、ささやかな願いを叶える真珠を行い正しい皆さんにプレゼントしてあげようね」
少年は竪琴を背にまわすや、腰につけていたビクのような小さな籠に手をつっこみ、中天の月めがけてほうり投げた。
夥しい真珠の花が弾けた。
月光に煌きながら古井戸の屋根、衛士の兜など、てんでばらばらに雨のようにふりそそぎ、石畳に散らばってゆく。
邑人たちは眼の色を変えて殺到した。
「あっははははははは。ほんのちっぽけな真珠さ。明日一日の平穏無事だけしか効力は無いさ。それでもよけりゃ持っていきな!」
「ふたたび竪琴をかき鳴らしながら、小鬼のように跳ね回る。
ジャレツは小路の陰から視線を離せない。少年の尋常でない美貌はもちろんだが、醸しだす魅力も強烈すぎる。そしてどこかで接したような気がしてならない。どこだろう?
古井戸を衛る衛士と、真珠売りと、満月と。
おそらく一生この幻想的な光景を忘れないだろうとジャレツは思った。
刹那――――――、
「誰?そこにいるのは」
少年の顔がこちらを向いた。遠目にもわかる真珠色の瞳。ジャレツは総毛だった。
「出ておいで。真珠をあげようね」
冷や汗がこめかみを伝い落ちる。その時、喉元に冷たい感触が押しつけられた。おなじみの、刃の冷たさだ。
「お行き」
背負った少女が月の雫のような刀身を閃かせながら耳元でささやいた。
***********************************************
窓辺のレースのカーテンがそよめいた。
モイザの背中が弓のようにしなったと思うと、あられもない声を上げて全身を震わせ、シーツの上にブラウンの身を投げ出す。
「なんて坊やだい、モイザ姐さんとしたことが、つい商売を忘れちまったじゃないか」
「・・・・・・」
キャスケードはもう寝台の上に上半身を起こし、昂ぶりから冷めた視線を窓の外へ向けている。その一瞬の後に吹き出した汗が肩に光っているのが艶かしく生々しい。
「どうしたのさ」
「あいつの昔を知っている人間に会うのはあんたが初めてだ」
「ジャレツかい?」
「教えてくれ。あいつは一回だって自分の来し方を話してくれたことがねえ」
アイスブルーの眼には涙がにじみ、珊瑚色の唇を噛みしめている。モイザのなけなしの母性本能が甘美に疼いた。
「私だってよく知ってるわけじゃない。竜蛇の都で、彼は私たちが踊り子をしていた店の常連だったのさ。彼と結婚した娘は私の後輩で――――――」
キャスケードの眼が猛禽のそれに変貌した。
「あんた、今なんて言った」
「彼の女房になった娘は私と同じ踊り子でね、そりゃあ器量も気立てもいい娘で」
キャスケードの耳にモイザの言葉が虚しく反響した。思いがけない事実に横殴りにされた気分だった。
女は大きなため息をついた。
「あんた、女と寝ていても心はずっと彼のことを追いかけているんだね」
「苦しい夢を見るんだ。あいつが俺を見捨てて豪華な馬車で行っちまう夢。何度もだ」
乱暴に赤い瞼をぬぐった。
モイザは覗きこみ、
「恋?」
「そんなくだらねえもんじゃねえ」
「定命?」
「そんな仰々しいもん、くそくらえだ」
「じゃ、何さ」
「俺が俺でいるための根っこの尻尾みたいなもんを、あいつはしっかり握ってる。握られてなくちゃ俺はどこへ飛んでいくか自分でも判らねえんだ」
激情のほとばしりに気おされて、モイザは黙り込んだ。
「で、どうしたんだよ。あいつの女房は」
「踊り子をやめ、ふたりで小さな部屋を借りて暮らし始めた。端で見ていても羨ましいかぎりだったよ。それが、一年足らずで」
モイザの表情は強張った。
「一年足らずで――――――?」
「ある朝、女房の亡骸が見つかった。彼女の銃創から発見されたのはジャレツの愛用していた軍用銃の弾丸。彼の姿は忽然と消えちまった。私が知っているのはそれだけ」
血も凍る内容を、モイザは肩をすくめて締めくくった。
キャスケードは息苦しさに襲われて立ち上がった。不意に自分がどこにいて何をしていたのか、判らなくなるほどの衝撃だった。
ジャレツが竜蛇軍の人間だったことはあの愛用の銃と、今もって彼の身体にこびりついているきな臭さはっきりとものがたっている。無論、彼が少なからず人を殺してきたことをも暗黙のうちに承知していた。混沌とした大陸間の情勢、どこの大陸にも共通する治安の劣悪さからして、人殺しなど珍しい存在でも何でもない。
だが、ジャレツが己が妻を殺した経歴の持ち主だったことは、キャスケードには衝撃だった。幻滅したわけではない。
決して自分の来し方を語らなかった理由がこれだったのかと判ったとたん、彼の胸中を思うとたまらないものがこみあげてきたのだ。
祖国、竜蛇を捨ててから彼は何を思い生きてきたのだろう。キャスケードに接する時の彼はいつも暖かく、厳しい。どれだけ沢山のことを逞しい背中と態度から学んだことか。彼はキャスケードにとって父親であり、兄であり、悪友であり、もちろん最高の相棒であり――――――。
なのに自分は彼の何も見えていなかった!
キャスケードは娼婦の膝にすがりついた。
「年がら年中人捜し稼業をしていながら、依頼された行方不明の人間をじゃなく、俺はいつもそばにいるあいつの心を捜してる。見えねえ。来し方も行く末も、何を望んでいるのかも、何ひとつ見えやしねえ」
「あの男の望みかい?そうだねえ、多分」
紅い爪で幼子をなだめるようにキャスケードの滑らかな背中をたたきながら、モイザは自信ありげに言った。
「死に場所さ」

「死に場所――――――」
「殺しちまった女房に逢うために、一番自分に似つかわしい死に場所を捜しているのさ」
キャスケードは心臓に氷の杭を打ち込まれたような気がした。
レースがざわめき、遠くからかすかな音律が忍び入ってきている。モイザは若者の抱擁から身を抜き滑らせると、ブラウンの肌にシーツを巻きつけて窓辺に立った。
「ポセイディオーンの竪琴だ。ああ、今夜は満月だったねえ」
物悲しい旋律がキャスケードを新たな慟哭の渦にひきずりこんだ。
(この先、火炎地獄をのたうちまわろうと、この身を水で砕かれようと、俺はおっ死ぬその瞬間もあんたを思うだろうぜ、ジャレツ)
湧き水のごとく、穢れ無き涙は夜明けまで涸れそうにない。モイザが気だるげに洩らす。
「虚しいねえ。何を手に入れても人の心が本当に手に入るわけじゃなし、罪作りな真珠さね。それでも真珠売りは繁盛する・・・・か」
****************************************************
第 二 章 月下の誘惑
砂漠の中の邑なのに、深い霧が発生するのは豊かな湧き水のせいだろうか。その霧を割って朝日が射し初める頃、邑の広場はもう活気に満ちている。朝市の商人は作物を山積みにして声を張り上げ、放牧に出かける羊の群れがけたたましく啼き騒ぎ、湧き水の井戸には内儀さん連中がバケツを持って並びながら噂話に余念がない。喧騒の極みである。
その中で、空間を隔絶されたかのように八人の衛生たちだけが昨夜から一歩も動いていない様子で鍵が到着するのを待っている。
「ふうう」
キャスケードは広場の隅の煉瓦塀にもたれかかりながら、大きなため息をついた。二日酔いは容赦なくこめかみにハンマー打ちを繰り出してきて衰える気配もない。
あまり覚えてはいないが、どうも昨夜は醜態をさらしてしまったようだ。子どもみたいに泣きわめいたような記憶がおぼろげに残っている。目が覚めた時にはモイザはだらしなく眠りこけており、顔をあわせるのも決まりが悪くて、こっそり娼館を後にしたのだった。
「それにしても」
ジャレツが遅い。昨夜、モイザの店で別れ際に湧き水の広場で落ち合うことになっていたのに、太陽は刻々と昇っていくばかりだ。いらいらとこめかみを押さえながら周りを見回したとたん、教会の鐘が鳴り、頭の中は大パニックに陥った。
乳色の霧の中から、昨日見た四頭立ての馬車が現れて広場に到着した。邑人たちは水をうったように静まり、道を開ける。
扉が開き、ロンダム家の家令オルビン老人が恭しく真紅のびろうどに乗せた鍵を持って登場した。まっすぐ衛士頭の方へ行き、鍵を渡す。頭が鍵で古井戸を囲った鉄条網の錠前を開けると、辛抱強く見守っていた邑人たちは歓声を上げ、どっと殺到した。
突如、広場の空気がひきしまった。
立ち去りかけていた八人の衛士が一列に並び、かしゃりと槍を鳴らして直立不動の姿勢をとる。
つるべに群がっていた邑人たちもしばし手を止める。
鍵を捧げ持ったまま、オルビン老人が鶴のように首を伸ばし、告げた。
「邑長さまのご視察――――――う」
一段と豪奢な馬車がやってきた。轍の音もけたたましく、古井戸のかたわらに停車する。
御者が飛び降り、手際よく乗車口に目も綾なしき物を敷いた。それを踏んで降り立った男を見て、邑人たちがどよめいた。
オルビン老人がしわがれ声をしぼりだす。
「ロンダム家の新しい当主、湧き水の邑の全権を統べる新しい邑長、ジャレツ様である」
キャスケードはわが目を疑った。
「ジャ、ジャ、ジャレツ――――――?」
四頭立ての豪奢な馬車を背にして立つ男。まごうことなき長年の相棒、ジャレツだ。だが、こんなに美々しく海老茶の民族衣装をまとい、剛い黒髪を髪脂でとかしつけた横顔をキャスケードはかつて見たことがない。おまけに表情はこ揺るぎもなく威厳に満ちて、すっかり当主様になりきっているではないか。
八人の衛士たちが槍を持ち上げ威儀を正す様子をゆったりと歩きながら睥睨する。
「ロンダム家の、あれが行方不明になっていた弟君かい」
「なかなかどうして品といい、体格といい、立派な当主様じゃないかね」
ささやきかわす内儀さん連中の評判も上々だ。
古井戸の水量豊かな様、邑人たちの潤った表情を確認した新しい当主は、やがてオルビン老人に頷いてみせると馬車へ戻るべく、きびすを返した。
「ジャレツ!」
人垣を蹴散らしてまろび出てきた若者を、ジャレツはゆっくり振り返った。
「ははは、こ、こりゃ何かの冗談だよな。俺をからかってるんだろ、ジャレツ。な?」
弱弱しく、けれども懸命にキャスケードは言った。しかし、ジャレツの瞳には一石も投じられなかった。かまわず、馬車に乗り込もうとする。待ってくれよ。どうしたんだよ。わかんねえはずねえだろ、俺だよ、キャスだよ」
返事の代わりに、ジャレツはやおら懐からびろうどの包みを取り出し、若者の足元に放り投げた。
はみ出た尋常でない量の札束に、人垣からどよめきが洩れた。

「手切れ金だ。とっととどこへでも行くがいい」
「手、手、手切れ金だって―――――――?」
キャスケードの心臓が凍りついた。
へなへなと石畳の上にへたり込み、ぼんやりと広い背中を見やる。目に馴染んだ逞しい背中。まだキャスケードがこんなに背が伸びる前、幾度か背負われたことのある背中だ。
その背中を、馬車の扉がさえぎった。
御者が鞭を振り下ろし、車輪が動き始める。急いで駆け寄ろうとしたキャスケードは太いひずめに蹂躙されかけ、転がった。
「ジャレツ!ジャレツ――――――!」
何度も見た光景、悪夢の再現だ。
「手切れ金てのはイロにやるもんじゃねえかよ、ジャレツ――――――!」
人だかりの陰から、デニーゼが小さな肩を震わせて見つめ続けていた。
*************************************************
「終わりましたか?」
馬車に揺られながら、麗人が尋ねた。
ジャレツがうなずく。
「本当にこれであいつには指一本触れないんだろうな」
「約束は守りますわ。さあ、あなたはロンダム家の当主。くだらぬことにいつまでも関わりになられぬことです」
濃い紫のヴェールをまとったルナシルダの表情は馬車の席で向かい合っていても窺い知ることはできない。先夜、月の光に煌いていた銀髪も厚いターバンの下だ。
「あなたの義務。それは湧き水の鍵の管理。衛士たちの統率。そしてロンダム家を護りもりたてていくこと、の三つだと申し上げましたね」
「耳にタコだ」
「中でも湧き水の管理は絶対です。地下湖の一族には一滴たりとも水を与えてはなりません」
「何故だ。地下湖の一族とやらに何か怨みでもあるのか?」
「私たち湧き水の一族と彼らとは何千年も昔から敵同士なのです。詳しいことはおいおい話しましょう。当面はロンダム家の安泰を彼らに見せつけることができればよいのです」
「いきなり連行して、窮屈な生活しろってのはちと殺生だぜ」
ジャレツは脂で撫でつけた髪をかきむしった。
「ほほほ、ロンダム家で贅沢三昧させてあげようというのですよ。多少、窮屈な生活が何だというのです。気にそまぬ女まで閨に呼べとは申しません」
「第一夫人のあんたとしても、気に染まぬ男の閨に足を運ぶつもりはないようだしな」
ルナシルダのヴェールが憮然とした。
「それと」
気まずい時間が流れてから、彼女はいっそう厳しくクギを刺した。
「あの真珠売りポセイディオーンには、ゆめ近づかれませんよう」
***********************************************
暦は進み、月がやせ細った。
盛り場から小路を折れ、またいっそう細い路地を行ったところにモイザの私娼窟はある。
デニーゼが一度しか来たことのないこの店へ足を運んだのは、ひょっとして、あのマダムなら大きなお金を貸してくれるかもしれないと、わずかな望みを持ったからである。
もちろん、一度は身体を売る決心をしたからには、マダムに交換条件を言われても仕方がないと思っている。真珠の代金だけでなく、自分の食べるもの、住む所さえ無い身だった。最近まで仮住まいをしていた牛小屋の軒先は、少女の兄が帰ってこなくなると、追い出されてしまった。
今日食べる黒パンのかけらさえ、少女には買う金は無かった。しかし、そんなことはちっとも苦にならない。要は、真珠代さえあればいい。
(勇気を出して)
玄関で立ち止まって、拳を握りしめてから、いざノッカーを叩こうとした時である。
扉が開け放たれたと思うと、猛烈な勢いで何かが夕暮れの路上に放り出された。次いで、荒牛顔負けの鼻息で飛び出してきた豊満な女が路上に伸びている人間にバケツの水をお見舞いした。
「無茶もいい加減におしっ!店の娼婦たちは残らず買い上げるわ、酒は浴びるように飲んじまうわ、挙句の果てに椅子は壊すわ、ガラスは割るわ、ベッドは切り裂いちまうわ、いったいこれが狂人じゃなくて何なのさ!」
鬼神の形相のモイザだ。
ずぶぬれになったキャスケードはかまいもせずへらへら笑って泥水を泳いでいる。
「へ、へ、へ、・・・・俺は邑長様のダチ公よ。いっくらでも請求書書いてくんな。そら」
虚空に札束をばらまく。泥水に散り乱れるそれを見て、若い娼婦たちが歓声をあげて群がる。
「おやめっ!」
モイザの大喝が響いた。
「しっかりおしよ、にいさん。ジャレツがくれた金なら大事にしなきゃ。これだけありゃスノウバードの都でひと仕事の元手に充分じゃないか!」
キツネ色の髪を泥色に染まらせ、キャスケードは自嘲に唇をゆがめる。
「手切れ金だとよお。へへへ、上等じゃねえか。俺との歳月がこんな紙切れでおしまいにできると思ってやがる」
「甘ったれるのはおよし!そんなだからジャレツに愛想つかされるんだよ。もう二度とうちの店には来ておくれでない!」
扉を閉めようとするモイザを、かたわらにいた少女が慌てて引き止める。
「な、なんだいお前。ああ、この前の子?」
「マダム、マダム、あたいの一生のお願い。お金を貸して!媚薬の真珠を買うお金」
「何だって?」
突拍子のない願いにマダムは濃く隈どった目を丸くした。お願い。何年でもここで働くから!」
「お断りだよ、お嬢ちゃん。いくら私娼館でも、私のお眼鏡にかなった一級品でなければ商品にしないのが私のモットーでね」
「マダム、後生だから」
店のエントランスでもみあうふたりを、酩酊していたはずのキャスケードの目が捉えた。
豹のように鋭く飛びかかり、少女のか細い腕を爪が食い入るほど強くつかむ。
「やっと見つけたぜ」
デニーゼは反射的に逃げようとした。
「おっと、逃がすかい。一週間捜しても逢えなかったんだ」
「痛い、離してよ」
モイザが渡りに舟とばかりに、
「お嬢ちゃん、金が欲しけりゃその兄さんにお言い。懐にたんまり持ってるよ」
今度こそ激しく扉は閉じられた。
キャスケードは露地の反対側に嫌がる少女を引きずっていった。
「ちょっくら聞きたいことがあんだよ。お前、この前の夜ジャレツと一緒に帰ったよな。そん時、何があった?」
「知らない!あたいは何も」
少女の眼はおどおどと落ち着かない。何を怖がってる。何か知ってるな」
「あたいが足をくじいていたから、おぶってくれて、この辺で別れた。それだけさ」
「嘘をつけ」
キャスケードは懐から数枚の札を出し、デニーゼのソバカスの頬を叩いた。
「白状したら、これをやる。お前の身体でこれだけ稼ごうと思ったら幾晩かかるかな」
デニーゼが札に手を出そうとすると、キャスケードは素早く懐深くに隠してしまった。少女は口ごもりながら、話始めた。
「あの夜、真珠売りのポセイディオーンがやってきたんだ。素晴らしい歌声で・・・・。あたい、あの声を聞くと、頭がぼんやりしちゃって自分が何をしたのかよく思い出せなくなるの。たしか、ポセイディオーンがあの人を呼んで・・・・」
少女の言うには、ジャレツが真珠売りの方へ踏み出しかけたとき、湧き水を衛る八人の衛士が突如として動き出し、彼を取り囲んだというのである。あっというまに少女は背中からはがされ、ジャレツは拉致されてロンダム家の馬車に放り込まれたというのだ。
「きっとルナシルダの差し金だわ。ひどい女なんだから」
キャスケードはようやく少女を解放した。札を渡すのも上の空で少女から聞き出した事実を反芻する。
(ジャレツの野郎を無理やり馬車で連れて行っちまっただとお――――――?)
いくら湧き水の衛士たちがつぶぞろいの猛者どもであってもジャレツの腕っぷしの強さを知りぬいているキャスケードには信じられぬ光景である。
泥水を前髪から滴らせながら、彼は唸った。
「キャスケード」
札を数えながら、デニーゼがうって変わった不敵な表情を浮かべた。
「あんた、取り戻したいんだろ。あの人を」
「誰が!」
強がって夕空を仰ぐ若者の口元がひきつっている。
「無理しなくてもいいよ。ね、あたいにポセイディオーンの真珠を買ってくれたら、あの人を奪い返してあげる」
「なに?」
「だから、この間から言ってるでしょ。ロンダム家のルナシルダから当主を奪って、あの女を追い出してやりたいって」
頬を黄昏のヴァイオレットに染めて決意を吐く少女の言葉に、キャスケードは度肝を抜かれた。
「お前、何考えてんだ」
「ルナシルダが憎いんだよ。あたいのたったひとりの兄ちゃんをめちゃめちゃにした女」
「お前の兄貴を?」
少女はこっくりとした。
「おかげで兄ちゃんは人間でなくなっちゃった。笑いもせず泣きもせず、あたいを見ても誰だか判らない――――――木偶の坊に」
ソバカスの頬に悔し涙が伝った。
「どういうこった?」
「ルナシルダの人形にされてしまったのさ。そら、今夜もそこで忠実に勤めに励んでる」
少女の指が、路地の隙間から見える広場の井戸を――――――護りに着いている八人の衛士たちのひとりを指した。
「まさか――――――」
「右端にいるのがあたいの兄貴、ネルゴ。ううん、兄貴だったって言う方がいいかな」
目深に鉄兜をかむり、辺りにスキの無い視線を投げている衛士たちが、一人残らずあの人間離れした美しい女の操り人形にされているというのだろうか。
「まさか」
「本当よ。あの女は普通じゃない。そういう力を持った妖女なんだよ。ほら、見て」
少女はあごをしゃくった。
いつぞやのせむしで小人の老人がまたぞろ同じ体型の仲間を引き連れ、井戸へやってきたのが見えた。また湧き水をくれと懇願しているのだろう、石畳に矮くを這いつくばらせているが、衛士たちの対応も相変わらずだ。
キャスケードは路地の出口までゆき、耳をそばだてた。
「どうか、どうかルナシルダ様にお願いを」
せむしの老人が震える手を差し上げながら言った直後である。仲間たちが二、三人、横っ飛びにとんでゆき、石畳に叩きつけられた。衛士のひとりが殴り飛ばしたのだ。
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うせむしの一族たち。老人だけが恐怖に身をすくませ、逃げることができずにいる。
衛士は顔色ひとつ変えず、槍をかまえた。
「危ねえ!」
自分でも無意識のうちに、キャスケードは飛び出してせむしの老人の身体を抱きかかえていた。槍がキャスケードのブーツをかすめて石畳の隙間に突き立った。
「な、何をしやがる、無力な年寄りに!」
衛士のひとりは表情も変えず槍を抜き、何事も無かったように持ち場に戻る。
「任務だかなんだか知らねえが、たかが水の一杯や二杯けちけちすんなよな」
思わず脳天が火を噴き、抗議したキャスケードの首筋を、爬虫類の這うぞろりとした冷たい感触がした。
感情の宿らぬガラス玉の眼。まさに衛士の眼は人形のそれだったのだ。
キャスケードの腰ベルトを、せむしの老人がひっぱった。
「よすがいい。やつらに何度言うても無駄じゃ。お前さんまで巻き添えくうぞ」
「けどよお」
キャスケードは情けない顔で側に来ていたデニーゼを振り返った。
「わかったでしょ。兄貴はもうあの女の忠実な番犬でしかないんだ。うっかり夜に井戸に近づこうもんなら串刺しか煉瓦で殴られて挽肉にされちまう。普通の人間の力じゃないんだ、この湧き水番たちは」
デニーゼは哀れな兄の横顔を見つめる。
キャスケードの胸を警鐘が鳴り響き、身体の内部を縦横に駆け巡った。ジャレツもまた、あの絶世の美女に操られているのだとしたら―――――――。
悪酔いも、癇癪玉も、キャスケードの脳天で凍結した。
「デニーゼ、教えろ。どうすればジャレツを取り戻せる?」
急に態度を翻したキャスケードに、デニーゼは面食らった。
「あたいに媚薬の真珠を買うお金を貸して」
「いくらだ、これで足りるか」
ジャレツから渡された手切れ金の包みを取り出しながらせっつく。
「お若いの」
せむしの老人が白濁した眼で若者を見上げた。
「まだいたのかよ、爺さん。串刺しにされねえうちにさっさとずらかりな」
「この前にわしの言うたことが現実となってしもうたようじゃの、お若いの。大事な大事な男をルナシルダのとばりの奥深く隠されてしもうたか、気の毒にのう」
「うるせえ。爺さんにゃ関係ねえだろ」
キャスケードはいらいらと言い返した。
「時に、真珠売りに用があるようじゃが」
「それがどうしたってんだ」
「それなら月が満ちるまで待ちなされ。あれは今宵のように月が痩せた夜には決して現れぬゆえ。ひっひっひい」
キャスケードとデニーゼはそろって空を仰いだ。なるほど、今宵の月は餓死寸前の魔女のようだ。
「あのくそ忌々しい護符さえなければあんな衛士の八人やそこら、わしの敵ではないものをのう」
せむしの老人がぶつぶつと口の中でつぶやきながら、傷ついた仲間に肩をかして去ってゆく。
紫のとばりはいよいよ濃くなり、邑はまた騒擾と神秘を織り交ぜた夜を迎える。
*****************************************
ロンダム家の敷地は小さなオアシスの一領主のものとしては格段の広さを有していた。
何百年も昔から交易税を独占していたらしく、一族の暮らし向きはなかなか裕福なようだ。都や地方都市の貴族に負けぬほどの美術品や邸宅内部の趣味の高さがそれを物語る。
まず門をくぐり、砂漠のオアシス都市とは思えぬ豊かな緑の人工庭園を過ぎてから、やっと本館の玄関にたどりつく。
邑長の起居する本館の裏に第一夫人つまり正妻の住まいである碧水の館、以下、第二夫人から第五夫人まで紅水の館、黄水の館、銀水の館、翠水の館と連なる。
その背後はさらに深い森となっており、木立に囲まれて豪壮な蒼いタイルの建築物があった。ジャレツの問いに、オルビン老人がそれは歴代邑長の霊廟だと厳かに答えた。
ジャレツは本館の豪奢な一室で、今宵も暇を持て余していた。朝な夕なに運ばれてくる贅沢な食事を片づけることくらいしか役目は無さそうだった。湧き水の井戸の管理や村の議会に関するこまごまとした実務は、すべて、ルナシルダが執り行っているらしい。
実際、古井戸の鍵は彼女が厳重に保管していた。
奔放な生活をしてきたジャレツにとって退屈なのも苦痛だが、もっと苦痛なのは、第二夫人以下四人の奥方がひんぴんと艶美な文を送りつけてくることだ。その熱烈さと言ったら、ジャレツも赤面しかねないほどだった。気まぐれで一通は読んだが二度と封を切る気はない。奥方たちが直接、主人の閨室を訪ねることを許されていない習わしなのが、せめてもの救いだった。
ルナシルダだけは、沈黙を通している。
湧き水の衛士を使ってジャレツを連行した直後、冷徹な眼で獲物を検分して、相棒を追い払うよう命じたあの朝以来、会うことも許されないでいる。
夜が訪れた。
一度死んだ月が生まれ変わり、小舟の形となって浮かんでいる。
ジャレツはうたた寝からやおら身を起こすとその鋭い眼に光を宿らせた。うっとおしい丈の長い民族衣装を黒い革の上下に着替え、闇に紛れてベランダからそっと伝い下りた。
庭のあちこちに湧き水番と同じような、屈強な警護の男たちが配置されている。
ジャレツは黒豹のように忍びやかに庭を抜け、第一夫人の居館、壁水の館へ入り込んだ。
召使も眠り込んでいるのか、館の中は静寂そのものだ。女主がいるのかどうかさえ判らない。しかし、今夜こそジャレツはルナシルダから自分を強制的に連行した理由を聞き出す腹づもりだった。
寝室らしき二階の一室に近寄り、扉に耳を当てた。かすかな人声が聞き取れた。
「もう逢わないと言ったのに、どうしてまた来たりするの」
厳しい声はルナシルダのものだ。誰かと言い争っているらしい。
「誰のおかげで美しい姿を保っていられると思ってる?性根の腐りきった女め」
女とも、男とも聞こえる不思議な声が言う。ジャレツには聞き覚えのある声だ。
「性根が腐っているのはあなたよ、ポセイディオーン。あなたは地下湖の真珠を穢してしまったわ。昔はあんなに清廉な存在だったのに、人の欲望を叶えて魂を盗む恐ろしいものに変えてしまった」
「湧き水を手に入れるためには止むを得なかった事じゃないか。お前が裏切りさえしなければ、こんな回りくどい計画を建てなくてもよかったものを」
「・・・・・・」
「当初はルナシルダ、お前も賛成し――――――だからこそ、美を授ける真珠を飲み、この館の第一夫人におさまることができたくせに、今になってどうして裏切る?つい最近も、地下湖の仲間が湧き水番によって乱暴された」
「いくら湧き水を得るためでも、人の命や運命をおもちゃにすることはできないわ。そんなことを続けるなら、いっそ地下湖の一族など真珠と一緒に滅びてしまえばいい」
「よくもそんなことを!」
激しい殴打の音がした。打つならいくらでも打ちなさい。どんな仕打ちをされようと湧き水井戸の鍵と、あの男―――――ジャレツだけは渡さないわ。絶対に」
「ルナシルダ・・・・。愛しいルナシルダ。お前は心まで湧き水の一族に染まりきってしまったんだな」
高いトーンの声が涙に混じりしわがれ声となってゆく。
ジャレツがそっと扉の隙間から覗くと、銀の髪をした細身の少年が細い首をうなだれて部屋を後にするところだった。のろのろと手すりに足をかけ、軽業師のように軽やかに身を躍らせると、森陰へと跳躍して消えた。
後にはゴブラン織りのソファに嗚咽の波を繰り返す女がひとり、取り残された。
ジャレツが音もなく忍び寄った。
「驚いたな。あんたと真珠売りがそろって地下湖の回し者だったとは」
ルナシルダはひどく驚いてバネ仕掛けの人形のように飛び起きた。あらわな目鼻立ちは麗しく、泣き顔でさえかえって美しさをひきたてこそすれ、遜色を示す材料にはなりはしない。銀の髪はあふれる湧き水のように豊かに腰の辺りまで扇状に広がっている。この麗姿から、誰が彼女の出自を見破れるというのだ。ジャレツでさえ男の本能が疼く。
「先月死んだ当主も、さてはあんたが?」
「いいえ。ポセイディオーンが一族繁栄の真珠といつわって黄泉へ旅立つ真珠を飲ませたのよ。私の目を盗んで」
言葉の端々から、彼女が亡き当主を心から愛していたことが察せられた。
ジャレツはソファの端に腰掛けた。
「邑長なんか退屈で死にそうだ。いつまで猿芝居を打たせるつもりだ?行方不明の弟だなどとでっち上げもいいところだ」
「・・・・・」
「なんだか最初から妙だった。仕事の帰り道、川はせき止められて砂漠への回り道を余儀なくさせられるわ、サンドバイクはトラブるわ、まるでこの湧き水の邑に招き寄せられるようだった」
「すべてポセイディオーンの仕業よ。あなたを手に入れるための、ね」
「俺を?」
「だから、私がここにかくまったのよ」
「わからない。何故あの真珠売りが俺に用がある?」
鼻面をしかめた。気にいらないと感じた時のジャレツのくせだ。
夜風が忍び入り、庭の黒々とした森影をざわつかせた。押し殺すような声で、ルナシルダはやっと洩らした。
「来月の満月・・・・デスムーンの期日が迫ってるの」
「デスムーン?」
「その日が地下湖の水、すべて干上がってしまう限界の日。竜蛇人種の血を持つ勇者を湖へ人身御供に差し上げ、湧き水を曳いて湖を満たさなければ地下湖の真珠貝がすべて死に絶えてしまうの。だからポセイディオーンは焦っている」
「この俺を人身御供に、だと?」
ジャレツの背中が粟だった。
「あんたは自分の種族が滅んでもかまわないというのか、ルナシルダ?」
彼女は尖ったあごで毅然とうなずいた。
「もう故郷の真珠はポセイディオーンの血まみれの手で汚れてしまった。滅んだ方がいいのだわ」
「どういうことだ?」
「あなたをポセイディオーンの手にわたせばデスムーンの夜に、真珠を飲んだ人々に恐ろしいことが起こるわ」
意味ありげなルナシルダの言葉が闇に溶けた後、ぞっとするような沈黙がふたりを包んだ。
「何故、俺なんだ」
ジャレツは呻いた。
「気をつけて、ジャレツ。どんなにポセイディオーンが甘い言葉でもって近づこうと、どんなに泣き所を突かれ脅迫されようと、決して彼の手に落ちては駄目」
「俺の泣き所――――――」
思いあたる泣き所といえば、キャスケードの存在以外考えられない。あいつの欲しがっていた大金を与えたことだし、今頃はとっくにこの邑をおさらばしていることだろう。とすれば、ジャレツに弱みはなかった。この邑の神秘に満ちた災いを解き明かしたい気持ちを抑えられない。
雲が月の面をよぎったのか、光が陰った。とたんに美女は身をよじり両手で顔を覆った。
「見、見ないでジャレツ。私の本当の顔を」
ジャレツは茫然と闇の中で立ちつくした。
*******************************************
「そらよ、ぼやぼやすんな、新入り!」
靴ブラシのような髭をたくわえた大男が、またもや汚れた皿を山のようにキャスケードの前に積み上げた。
「ふええええ、こんなにい」
ケチャップまみれ、ソースまみれの皿を大車輪で洗うキャスケードの手はすでに真っ赤だ。当面の宿代を捻出するために旅籠の皿洗いを始めたのは、ジャレツから拝領した手切れ金を少しでも減らさないでおこうという涙ぐましい決心からだ。すべてはデニーゼに真珠を買うためなのだ。しいては、ジャレツを取り戻すためなのだ。しばらくの辛抱だ。
「ええ、くそ、旅籠中の皿でもナベでも持ってきやがれってんだ」
腕まくりしなおしてふと、窓の外へ目をやった彼は、やにわにエプロンを引っぱがし、調理場を飛び出した。
「うわ、おっとっと、どこへいく新入り!」
皿を追加しにきた靴ブラシが怒鳴るのが背後で聞こえたが、かまっているひまはない。待ち望んだ真珠売りらしき姿がちらりと窓の外に見えたのだ。
月は黄金色。月齢が満ちてきていた。
広場では、真珠売りから念願の真珠を買った邑人が、珠の艶を眺めては月光に透かしたり頬ずりしたりと、恍惚の花園に遊んでいる。
真珠売りの竪琴の音色が遠ざかってゆく。
「デニーゼ!デニーゼ!」
念のため、見張らせておいた少女の姿も見えない。手切れ金を全部、預けておいたのに。
うようよとゾンビのように群れる人々を押しのけ、蹴散らし、キャスケードは懸命に捜し続けた。
***************************************
デニーゼはふわりふわりと雲の上を歩くような心地で真珠売りの後をついていった。
この竪琴と彼の歌声を聞くと、頭の片隅しか覚醒している部分がなくなってしまう。なんとも尼や課で、世の中が楽しくって哀しいことなんか忘れてしまう。ちょうど夢迷いの薬にほろ酔い加減になったかのように。
先を行く真珠売りの瞳が時折、不敵な笑みを浮かべながら少女を振り返る。
「媚薬の真珠が欲しいんだって?だめだめ、それだけじゃ相手の心はおちやしない。お前のような不器量な娘ならなお更さ」
「じゃ、どうすれば?」
「美しさを得る真珠をお飲み。それから欲しい相手に媚薬の真珠を飲ませれば――――」
「本当?」
「その前にもうひとつ。どこか、静かな場所へ行こう。誰もいない、月光の降る音が聞こえる場所」
そしてふたりは邑はずれの教会の廃墟へとたどりついた。最近、デニーゼが夜露をしのいでいるところである。
「これが媚薬の真珠」代金を受け取ってから、真珠売りは一粒の灰色の真珠を少女の掌に置いた。そしてもうひとつ、薔薇色の真珠を取り出し、「これがお前を世界で最高の美女にする真珠だよ」
言いながら自分の薔薇の蕾のような唇に含む。
「で、でも二つ分も代金は持ってないわ」
真珠売りはかまわず少女を藁の上に押し倒し、唇を重ねた。真珠が少女の口に転がってきた。
「だからお前の魂で支払ってもらうのさ」
唇を肌から離さず、真珠売りは言った。
「でも、ポセイディオーン・・・・」
デニーゼは自分の声を洞窟の彼方からの声のように聞いた。手足は無幻の葉の呪縛にかかったように重い。崩れかけた礼拝堂の壁を、蜂蜜色の月光が滑り落ちた。
**********************************************
夜は更け、酒場でさえ疲れた眠りにつく頃――――――、キャスケードは廃墟に辿りついた。デニーゼが仮の宿としている場所に思い当たったのだ。
「デニーゼ」
礼拝堂には破れた屋根から濃密な月が忍び入っていた。虫がかまびすしく啼いている。
藁の上に白い背中が横たわっている。全裸だ。キャスケードは見つけたと同時に、少女に起こった残虐な出来事を解した。
「デニーゼ?」
肩を抱き起こし膝の上に乗せてみて、キャスケードはごくりと唾を飲み込んだ。
デニーゼに間違いはないが、それは彼の知るチンクシャでソバカスだらけ、肋骨が浮き出るような痩せっぽちの野良猫とは天と地ほども違った。おそらく彼が見たこともないほどの芳醇な匂いを発散させた美女――――――白絹のような肌にはシミひとつなく、はりのある乳房は水密桃、濃い睫毛は通った鼻筋に影を落とし、唇といったらルビーを蕩けさせたようだ。しなやかなブラウンの髪は滝のように若者の腕に巻きついて渦巻いている。
「デニーゼ・・・・」
しかしこの美しさと背中合わせに存在する禍々しさとでもいう臭いを、キャスケードは敏感に嗅いだ。どこかで嗅いだ臭いだ。
不意に、背中にそれに似たものを察知した。放置されたパイプオルガンの上で、小鬼の眼が真珠色に光ってこっちを見ていた。
「貴様だな、真珠売り。デニーゼを踏みにじりやがったのは」
気を失ったままのデニーゼを静かに置いて身体に藁をかけ、癇癪持ちの若者は立ち上がった。
「くっくっく」崩れ落ちた壁の影から、不気味な笑い声が響いた。「媚薬の真珠を欲しいというから、それでは足りぬと美を得る真珠を授けたまでさ」
「で、味見までしたってわけか」
「くっくっく、何をムキになっている、綺麗なにいさん。お前はその娘を愛しているわけではなかろうに」
「だからって、だまってられるか。このペテン師ガキ」
キャスケードはキバをむいた。癇癪玉が破裂寸前だ。
「お前の愛する者を知ってるよ。あの竜蛇大陸の男だろ。血の最後の一滴、魂の髄までむさぼり食らいたいほどあの男が恋しくてどうしようもないんだ」
「黙れ!お前みてえな魔物にはそんなよこしまで汚れた発想しかできねえだろうが、俺とジャレツはそんな関係じゃねえ!俺とあいつの絆は――――――キ、ジュ、ナは――――――」
真珠色の眼が真っ向から射抜いてくる。キャスケードはろれつが廻らなくなってくるのを感じた。変だ。こいつの眼を見ているうちに――――――。
手足から力が抜けてゆく。頭の中に靄がかかったようだ。いつしか真珠売りは竪琴をかき鳴らしていた。銀髪の短い巻き毛の頭部をひょいと傾げ、気だるい音律を奏でるさまは、まるで妖精のようだ。
「こいつは・・・・」
キャスケードは懸命に睡魔に似た誘惑と戦った。足を踏ん張り瞼がふさぐのに逆らい、歯を食いしばる。
真珠売りポセイディオーンはやおらパイプオルガンから立ち上がり、ひと跳びの跳躍でキャスケードの面前へと着地した。竪琴をくるりと背中へ回し、頬ずりするほど間近に若者の顔を両手で引き寄せ濃密な視線で舐めまわす。
肩までしかない背丈の少年にこうべを捕らえられ、キャスケードは身じろぎもならない。
「妬けるくらい綺麗な顔をしているねえ、にいさん。生まれつきそんなに綺麗なの?あの竜蛇の男が手放さないのもわかる気がする」
「何を、寝言、ほざき、やがる」
キャスケードは真珠売りの光沢のある顔にツバを吐きつけた。
「顔は綺麗でもその根性ではね」真珠売りは相手を睨みつけながら顔面をぬぐった。「せっかくあの男をルナシルダから奪い返す方法を教えてやろうというのにさ」
「お前、どうして、そのことを」
真珠売りは少女のような笑い声を発した。
「何でもお見通しさ、狙った獲物のことは。よくお聞き、にいさん。ジャレツを取り戻したかったら、いくらあんな女の子を美女にしたって無駄だよ。彼の心を捉えるのはとうの昔に冥府へ旅立った妻ひとりさ」
「――――――――!」
「お前、どうしてそこまで、と聞きたい顔だね。何でもお見通しだと言ったろう?」
キャスケードの脳裏で、モイザが言った言葉が甦った。
―――――――――死に場所を捜しているのさ、自分が殺しちまった女房に逢うために。
「これをごらん」
真珠売りの小さな可愛い唇から、ひと粒の真珠が吐き出された。月光を受け、てのひらに転がされるそれは、蜂蜜色に輝いている。
「冥府の女の魂が、これを飲んだ者の身体に降りる。言わば、これは冥婚を叶える真珠なのさ」
「冥婚を、叶える、真珠。目をそらしたくてもそらせない。キャスケード自身、真珠から魅入られているような気がした。
「これを飲めば、愛しい男に抱いてもらえるよ、にいさん。夢のような真珠だろう?さあ、遠慮はいらない、お飲み」
再び真珠売りの愛らしい唇はそれを含み、キャスケードの唇に近づける。
「よ・・・・せ」
脂汗がキャスケードの額に浮かび、がたがたと歯が鳴った。かすかに冷たい唇が触れる。
―――――――と、その瞬間、乱暴な足音がして、巨漢がなだれ込んできた。真珠売りは数しゃくも離れた祭壇に、キツネのように跳びすさった。
「ちいっ、もう少しのところを!」
巨漢たちは湧き水の井戸の衛士だった。彼ら八人は巨大な身体とも思えぬ敏捷さで槍を繰り出し、真珠売りを何度も跳び下がらせた。祭壇の燭台が次々に壊され、朽ちた卍字架が折られたが、槍は野ウサギより素早く逃げ回る少年を貫くことができない。
少年もまた、衛士の攻撃に眉間を寄せていた。彼らの兜に象嵌されているロンダムの紋章が彼を畏怖させているらしい。
ついに少年はあきらめた。
廃墟の壁をひと跳びにして、肥え太った月を背景にシルエットを浮かび上がらせると、唐突に消えた。
「待ちやがれ!」
気力の戻ったキャスケードが追おうとしたが、壁の向こう側には気配さえなかった。
八人の衛士たちは整然と並び、広場へ引き返してゆく。キャスケードはぞくりとして振り向いた。卍字架の陰に、長身の女が立っていた。月の光を受けた面は見覚えのある美貌だ。
「ルナシルダ・・・・」
「さっさと立ち去りなさい、若者よ。金輪際、ジャレツのことは忘れなさい。どんな手を使おうとジャレツは渡しません。また真珠売りの毒牙にかけられないうちに遠くへ行っておしまいなさい」
女は強硬な口調で言い渡すと、きびすを返し、衛士たちの列の最後に連なった。
「何故ジャレツなんだあ?」
キャスケードの問いが廃墟に虚しく響いた。
***********************************
デニーゼが目を覚ました時、清潔な朝日が小さな部屋に満ちていた。寝台に身を起こすと、男物のシャツを着せられていることに気づいて身をすくめる。
窓辺でホットミルクの湯気に頬をなぶらせていたキャスケードが気づいた。桟にマグカップを置き、少女の枕元へ腰掛ける。
「俺が住み込んでる旅籠の屋根裏部屋だ」
「あたい・・・・」デニーゼは両頬を抑えた。「か、鏡を見せて」
キャスケードが手渡した、折れたバックミラーを覗き込んだ少女は肩を落とした。
「変ってない。あたい美人になってない」
「どうやら、あの真珠の効力は月が出ている間だけらしいぜ。朝になるまでお前、ドキドキするほどイカす女だったぞ」
「ほ、本当?」
デニーゼの脳裏に真珠売りの言った言葉が甦ってきた。そして、彼から受けた仕打ちの記憶も――――――。
「あたい、あたい・・・・」

キャスケードはデニーゼの小さな肩を強く抱きしめた。
「あの野郎、ひどい奴だな。ルナシルダって女もタチが悪いが、真珠売りのガキはもっと悪い。邑のやつらは皆、騙されてんだ」
デニーゼは細い喉を震わせて泣いた。
「泣くな、デニーゼ。泣いたら負けだ。あんな真珠売り、堂々と見返してやりな。こんなことぐらいでちっとも傷ついてねえって見せつけてやりな」
「キャスケード・・・・」
「お前、そのままの方がいい。変だな、昨夜の美人のお前より、ソバカスだらけの今の方がよっぽどいいや」
本心だった。妖艶なタイプが好みのキャスケードとしては至極不思議なことだが。不思議といえば、この状況で、キスのひとつもしようと思わない自分も不思議極まりない。
「月が出たら、あたい、また顔が・・・」
デニーゼは握りしめたままだった左手を解放した。艶も形も完璧な真円真珠があった。
媚薬の真珠である。
「いわれてみりゃ確かにあいつにはそんなもん、効き目があるとは思えねえな」
――――――――彼の心を捉えるのは、とうの昔に冥府に旅立った妻、ただひとり。
真珠売りの少年が言ったあの言葉がキャスケードの胸を去ろうとしなかった。
第 三 章 地下湖一族の怨嗟
「―――――――というわけで、湧き水の一族と地下湖の一族との確執は千年の長きに渡り続いてきたのでございます」
家令のオルビン老人の、一刻を優に越える講釈が終わった時、ジャレツは支えていた掌から危うくあごを落とすところだった。
カササギのような老人は誇らしげに白いひげを撫で、ロンダム家の書斎を見回した。カビ臭い部屋の壁はすべて書架であり、南の一面だけに大きな窓が設けてある。書斎というような生やさしい規模ではない。図書室と呼ぶべき書物の所蔵量だった。
竜蛇大陸と、白鳳大陸の文明の進行程度は二百年以上も差があると言われている。
かつて竜蛇大陸の軍部で最先端の教育を受け、コンピュータを駆使することに慣れきってしまっているジャレツにとって、この気の遠くなる膨大な書物の中から目的のものを捜しだすよりも、古参の老人に昔語りをしてもらう方が、はるかに能率的だった。
かたよった意見を除けば、の話ではあるが。
「ありがとう。大体わかったよ」
ジャレツは思い切り伸びをして椅子から立ち上がった。
「お安い御用でございます。新しい当主様として、当家の歴史を知ろうとなされることは誠にもって喜ばしいことでございます。先代のお兄上、アルノワ様もことのほかこのご書斎を愛しておられ―――――――」
「つまり、この邑の始まりは千年に渡るロンダムと地下湖の一族とやらの争いの末、砂漠の南に連なるガダナ山脈の雪解け水の使用権をロンダムが勝ち取り、井戸を掘り、邑を開いたというわけだな」
「左様でございます」
「以来、地下湖の一族はいまだに岩山地帯で原始的な半地下生活を営んでいるんだな」
ジャレツは窓の外、彼方に屏風のように立ちふさがるガダナ山脈の青い雄姿に見入った。万年雪を頂いた頂上部がなんとも気高く美しく、実は一木一草もない裾野も眼に優しい。
「何故、地下湖の一族は湧き水に固執する?湖の水ではだめなのか」
「その地下湖がじわりじわりと涸れてきているそうなのですよ」
「湧き水の水量は充分すぎるほどだろう。分けてやればいいじゃないか」
「とんでもございませぬ」
叫んだ老人の剣幕にジャレツはたじろいだ。
「武勇の誉れ高いロンダム家の歴史に泥がつきます。よろしいですか、ジャレツ様。千年もの間、小癪な地下湖の一族は隙あらば湧き水を奪おうと窺っているのでございますよ。水の希少なこの砂漠地帯では強者のみが生き残り、弱者は滅びるのです。隊商や旅人は別として、邪な考えを持つよそ者には水は一滴もやれませぬ」
「ほう?」ジャレツは木目の艶美しいテーブルに腰掛けてさぐりを入れる。「よそ者にしては真珠売りはずいぶん破格の扱いなようだ」
「真珠売りでございますか、あれはこの邑に吉兆を呼ぶ者にございます。現に、あなた様が来られることを予言いたしましたゆえ、ロンダム家は存続の危機をまぬがれました」
とたんに老人の態度は和らぐ。
「爺さん。あいつから何の真珠を買った?」
「十年若返るという真珠で――――あわわ」
老人は咳払いをしてから、ありがたい小僧です。邑の者は真珠欲しさに仕事に精を出すし、邑が活気づきました」
真珠売りが地下湖一族の者とも知らず、すっかり洗脳されているらしい。
「それにしても妙だな」
ジャレツは神妙な顔でさらに探りを入れる。
「何がでございましょう」
「なんでまた、真珠売りは連日盛況なんだ。そんなに邑人は願いがあるのか。願い事があるということは、日々の生活に不満があるということじゃないのか。確か、ロンダム家は湧き水の井戸を掘った時から理想的な社会を築き、邑人から厚く崇拝されてきたと言ったな、オルビン爺さん?」
老人の白い眉の下の目が見開かれた。
「仰せの通りでございます」
「そうかな。本当は湧き水を独占して邑人たちを思いのまま支配してきたんじゃないのかな?それで、積もり積もった邑人の不満が真珠売りの真珠を買いに走らせるのじゃ――――――」
「お言葉が過ぎましょう」
凛とした声が背後から飛んできた。
ルナシルダが深い紫のヴェールをまとった姿で静かに入ってくると、テーブルをはさんで新しい夫と対峙した。
オルビン老人はそっと席を立って退出した。
ジャレツの鋭い眼光が麗しい女を射抜く。
「あながちでたらめを言ったわけではない。邑人が熱心に信仰していたという卍十字教会はロンダムが打ち壊して信仰を差し止めたということだし、元来、信仰がはびこる事自体、貧困と病気と邑の行政への不信が原因ではないかな。身売り、娼婦も数が多いようだし、治安も良いとは言えないようだ。強盗、窃盗、殺人、強姦、詐欺なども――――――」
ルナシルダが緊張する気配がたちのぼった。
「そこまでこの書斎でお調べになったの?」
「なんせ退屈なもんで、巷に出て見てきた方が早かったがな」
「なんてことを。あれほど勝手に出歩いてはいけないと申し上げてあるのに」
「あいにく首に鎖を着けられるのはあまり好きじゃないんでな」
「デスムーンの日が過ぎるまで、決して外へでてはなりません。言うことがお聞きになれないのなら、あの仕事仲間だったとかいう少年がどうなっても知り―――――――」
言い終わる前に、ルナシルダは背後の書架に叩きつけられていた。喉元をヴェールごと強靭な手が抑えこみ、呼吸すらできない。
「キャスケードに害を加えたりしたら命は無いものと思え」
漆黒の瞳に燃え上がっている炎は尋常の暑さではない。
ルナシルダは喘いだ。苦しさより男の瞳に恐怖した。
「・・・・わかったわ、離して」
「まだだ。あんたは俺に湧き水の管理を任せると言ったが、一向に鍵を渡さないな。どこにあるんだ?」
ルナシルダは黙秘を通そうとしたが、男の指は容赦なく締めつけてくる。
白い手が躊躇いがちに懐へ入り、男の中指ほどもある大きな鍵を取り出して渡した。
「よし」
ジャレツはようやく女を解放した。その場に座り込んだルナシルダは咳き込みながらも悔しそうに相手を睨みつけた。
「野蛮人・・・・!あなたが竜蛇人でさえなければこんな無礼は許したりしないものを」
「湧き水の衛士たちの力はこんなもんじゃなかったぞ。どうやってどうやって彼らをあんな戦闘機械人間にした?」
ルナシルダは唇をかみしめた。

「その鍵をどうする気?」
「コップ一杯の水をもらいに行くのさ」
ほうり投げた鍵をつかみ、ポケットにしまいこみながらジャレツは図書室を後にした。
************************************
毛布一枚と鍋、羊の皮袋に満タンの飲料水。それらをやっとロバの背にくくりつけたところへ、少女がエプロン姿のまま、旅籠の裏口から飛び出してきた。
「キャスケード、どうしたの!」
若者はかまわずロバにまたがった。
「どうしたもクソも、みんな面倒になっちまったんだよ。こんな辛気臭え邑おさらばさ」
「あの人を取り戻すんじゃなかったの?」
「もう知るもんか、あんなやつ。女に骨抜きにされて屋敷の奥でぶくぶく太っちまえだ。
やめだ、やめだ。あばよ、デニーゼ。お前はこの旅籠で真面目に働きな」
キツネ色の髪の束をぽんと背中へ投げて行こうとする。
キャスケードはここのところ立て続けに襲い来る悩みに辟易していた。ジャレツに逢って聞きたい事が山積みだ。
竜蛇の都で女房を手にかけたというのは本当か?だとしたら、何故。そして、今もその女房に逢いたいのか?冥界から呼んででも?逢いたいのか。大事なのか―――――――俺よりも?
しかし、いざジャレツの前に立つとそれらの質問は胸の奥深くしまいこまれたままになるに違いない。勇気がないのも一因だが、口に出してはいけないことだと判っていた。でも、尋ねたい。キャスケードはこの懊悩に耐え切れなくなったのだった。
デニーゼの拳が握りしめられた。
「意気地なし。ほんとはびびっちまったんでしょ。見てらっしゃい、あたいはひとりでもやるからね。きっと兄ちゃんの仇を討ってやるんだ。センザイイチグウのチャンスがきたって教えてあげようと思ったのに、なにさ」
キャスケードはあわててロバの手綱をひっぱって馬首をくるりと返した。

「ま、待てデニーゼ。センザイイチグウのチャンスって何だ?」
「逃げ出す人にはカンケイないでしょ」
「意地悪言うなよお」
もみあうふたりへ、裏口から料理長のカミナリが飛んできた。
「こらあ、皿洗いとメイド!そんなとこであぶら売ってるヒマがあったらさっさと食堂へ行かんか!客だぞ!」
「は、はいい!」
ふたりが先を争って持ち場へ駆けていった後、取り残されたロバが長閑に啼いた。
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ロンダム家の第三夫人プリスは何かストレスがたまると、異常に食欲が増すタイプだ。そんな時、邑の旅籠街にあるヨロズ万歳館のランチ食べ放題を利用することにしている。
先月、思いがけなく夫の急死に見舞われた時もそうだったし、何かあるたびヤケ食いを繰り返しているので、そうでなくても三段バラはもともとなのに、体重は増える一方である。
最近の悩みは、ようやく婚家の行方不明だった跡継ぎが見つかり、追い出されなくてもよくなったと胸をなでおろしはしたものの、その新しい夫から一向にお呼びがかからないことだ。朝な夕なに文を送りつけたのに、返事は無しのつぶてときた。いっそ閨で待ち伏せしたいのはやまやまだが、はしたなくてそれもできない。しかし、召使から小耳に入れたところによると、あの男は第一夫人のルナシルダとは何度か逢っているらしいではないか。
(どうせ、あの女と比べりゃ私なんか!)
―――――――で、ヤケ食いである。
今日は、ランチ食べ放題どころではすまなさそうだ。昼間からボトルを開け、そのまま晩餐になだれこみ、明日の明け方まで食べ、飲み、思い切りうさを晴らそうという趣向だ。
「ああ、あの女か。最初の夜、押しかけてきて俺をあの三段バラでぶっ飛ばした女だ」
キャスケードは物陰から女の食べっぷりを見て、口元に手を当てた。
「あれがセンザイイチグウなのかよ」
「そうよ」デニーゼがソバカスだらけの頬を紅潮させてキャスケードの耳元でささやいた。「夕方にはぐでんぐでんらしいわ。そしたらあんたが二階の部屋へ誘って身ぐるみはいじゃって。あの紫の喪服をあたいが着て、あの女になりすまして馬車に乗り込むからさ」
「ロンダム家へ潜入する気か?」
「もちろんよ、あきらめないって言ったでしょ。幸い侍女もひとりも連れて来ちゃいないし、夕闇にまぎれて馬車に乗っちゃえば御者だってわかんないわよ」
「待て。俺も乗っていく」
「だってあんたはあの女の相手を」
「冗談いうな。この歳で圧死したくねえよ」
「勝手にしなさいよ。あたいは行くから」
近頃のデニーゼは勇ましい。夜になると、美女に変身するようになってからは特にそうだ。キャスケードはしぶしぶ共謀を承知した。
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窓から忍び入る満月の視線を感じたのか、プリスは飛び起きた。
時刻は真夜中の真鍮の刻。旅籠の一室に下着姿でのびたタコみたいに眠り込んでいた。
夢のようなことが起こってしまった。
ほろ酔いかげんになった宵の頃、ちらちらとこちらを若い給仕が見つめることに気がついた。なんとまあ、綺麗な子だろう。鼈甲色の巻き毛と生意気そうな鼻、アイスブルーの瞳は甘えん坊だ。胸のネクタイも初々しい姿で近寄ってくると、翡翠蜜酒を注ぐふりをして、そっと耳打ちしてきた。
「マダム、休憩されるのでしたら二階の部屋へお連れいたしますが」
それから後は完全に頭に血が昇ってしまった。言われるままにフォークを置き、給仕に支えられて階段を上り、部屋へ入る頃には彼の胸にもたれかかっていた。
「マダム、ご窮屈でしたらその喪服をお脱ぎになって横になられては」
その後続いた秘めやかな出来事は、プリスを地上天国へと導いた。決めた。週一回はヨロズ万歳館のランチ食べ放題に来よう。安心して薄紅色の追憶にひたると、プリスは再びベッドへと沈んだ。
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「まったく見下げ果てた節操の無さね」
デニーゼは紫のヴェールの奥から向かいの青年を睨みつけた。月光を受けた少女は真珠の恩恵を受けた美貌だ。
「お前が言いだしっぺだろ。人にやな役目させといてよく言うぜ」
キャスケードが唇を尖らせ、車窓の景色に視線を投げた。月が昇って容貌が変ると、この少女と話しにくくて仕方がない。
「やな役目だかどうだか」
「ははん、妬いてるんだろ。お前」
「ばかなこと言ってないで、見取り図でもしっかり頭に入れておきなさいよ。ロンダム家は広いんだってさ」
デニーゼは周到に見取り図まで用意していた。どうやら、新しい当主に媚薬の真珠を飲ませて籠絡し、ルナシルダを追い出すという計画はけなげながら本気らしい。
「あいにくだけどよ、デニーゼ。ジャレツはお前になんか見向きもしねえだろうぜ」
「媚薬の真珠を飲ませても?」
「多分な」
媚薬の真珠なんかで冥界の女房の面影まで消し去れるとは、思えない。沈うつなキャスケードに、デニーゼは小首を傾げて覗き込む。
「あんた、ジャレツに会うつもり?キャス」
「あたぼうよ」
会って、何を言うんだろう。
――――――いつまでそんな茶番に首つっこんでんだ―――――――ってか?それとも、そんなに死に場所求めてなげやりになってんのかって?
キャスケードは暗澹とした淵に沈みこんだ。
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酩酊している御者は、馬車に奥様だけでなく若い男まで乗り込んでいることに一向に気づきもせず、車輪にもたれて眠り込んでしまった。
召使が出てくるまでに、キャスケードとデニーゼは急いで馬車を降り、庭の木立へと紛れ込んだ。本館の方へと手を取り合って走り出す。途中、屈強な見張り番があちこちに配置されていたが彼らは不思議にも彫刻のように動かなかった。
キャスケードは気にいらぬ気配をかすかに感じた。
「ここだ」
白亜の巨大な建物が黒々とした森に囲まれて建っていた。邑長の巨漢である。
キャスケードが先に一階のテラスつたいに二階へよじ登り、手を伸ばして軽装となっているデニーゼをひっぱりあげる。
二階のガラス戸は開け放たれていた。灯火も何も無い。ただ、月の光だけがテラスの床を氷の面のようにきらめかせている。
「部屋を間違えたかな。見取り図では・・・・」
キャスケードが見取り図を取り出そうとした時、音もなくテラスに人影が立った。若いふたりは素早く柱の陰に隠れた。
月光を全身に浴びて立ったのは、ルナシルダだった。鉱石さながらの冷たい美しさは相変わらずだ。
「ジャレツ、どこ?」
彼女もジャレツを捜しているらしい。
「あの鍵を返して。あの鍵に湧き水の一族と地下湖の一族の運命がかかっているのよ。
後生だから返して」
人の気配を感じて彼女は言葉をのみこんだ。
キャスケードとデニーゼがゆっくりと彼女の前に立った。
「あなたがた・・・・」
「ジャレツはどこだ。出せ」
キャスケードは言い放った。
「彼はいない。どこへ行ったのでしょう」
ルナシルダはうろたえていた。
「隠すと承知しないよ。あんたの腹黒さはよっくわかってるんだからねっ」
一歩踏み出してデニーゼが言った時である。
彼女とキャスケードは急に全身をがんじがらめにされて身動きできなくなった。
両手両足におもりが着けられたようだ。ぶらさがるおもりが、なんと醜い小人であることに気づいて、ふたりは総毛だった。悲鳴をあげようとした口も、見開いた目も、素早く小人の小さいねっとりとした掌がふさぎ、ふたりは完全に身体の自由を失った。それぞれの身体に小人が鈴なりになって不気味な笑い声を洩らしていた。
ルナシルダも驚愕したようだった。
「ポセイディオーン、どうやって入ってきたの」
「酔っぱらいの御者が門を開けっ放しにしておいてくれてね。お陰でロンダム家の紋章を拝まなくてもすんだというわけさ」
真珠売りの声が捕らわれのふたりの背後から聞こえてきた。
「竜蛇の男をいただこうとやってきたら、彼は不在だったけど思いがけない収穫があった。この綺麗なにいさんを生け捕れれば、竜蛇の男をもらったも同じだからね」
くぐもった笑い声がさも愉快そうだ。
「そうはさせないわ」
ルナシルダは素早く口笛を吹いた。庭のあちこちから、庭番の男どもが集まってくる気配がする。
「あの男をつなぎとめておきたかったら、彼の一番の泣き所を押さえておくべきだったねえ、ルナシルダ」
真珠売りが合図をすると、キャスケードを捕らえている小人たちがいっせいに人質もろともテラスから跳躍した。
同時にデニーゼも解放され、彼女にまとわりついていた小人たちも、庭へ飛び降りる。
「さよなら、ルナシルダ」
投げキッスを寄越すなり、真珠売りは宙に舞った。真円の蜂蜜色の月がそのシルエットを浮かび上がらせた。
「キャスケード!」
デニーゼがテラスから乗り出した時、すでに小人たちはせむしの背を珠のように転がして、森へ溶けていくところだった。目を見張る、すばしこさ。甲冑を鳴らして駆けてきた庭番たちでさえとても追いつくことができない。
「キャスケード――――――!」
デニーゼの絶叫が月夜の森を突き抜けた。
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石畳が爬虫類の鱗のように濡れて見える。
深夜、邑の広場を訪れるものは痩せさらばえたイヌくらいしかいない。日中、あれほど水を汲み出す邑人、旅人や家畜でにぎわうこの広場も、月光の洗礼を受けている間は化石の町のようだ。
警護を努める八人の衛士たちはその一部と化して、微動だにしない。
衛士頭が鉄兜をやや傾げた。
煉瓦造りの商館の脇から接近してくる男を認めたのだ。
男は衛士たちに勝るとも劣らぬ体格の持ち主である。先日、彼らが馬車へ無理やり放りこんだ新しいご主人だった。
「お勤めご苦労」
ジャレツは例の鍵を眼前にぶらさげて近づいてきた。
「先日の丁寧なおもてなしに礼を言うぜ。おかげで毎日、豪華な食事と目を火傷しそうな美女に囲まれて邑長生活を満喫させてもらってる」
衛士たちがじろりと見やる。
「美酒にも飽きた。水を一杯欲しいんだが」
言いながら石版ほどもある錠前に鍵を突っ込もうとすると、目の前に槍が交差された。
「どうして。俺は邑長なんだぜ。ほら、鍵も持ってる」
槍は退けられない。
「いくら邑長でも、夜間は絶対使用禁止ってわけか。そう固いこと言いっこ無し」
言うなり、ジャレツの身体は衛士かしらの肩を蹴って鉄条網の向こうへ跳ね上がった。着地してしまえば井戸はさえぎるものなく目の前にある。背後では、鉄条網の向こうで衛士たちが恐慌をきたしていた。おそらく鉄条網を乗り越えて彼らの防衛線を突破した者は初めてなのだろう。普段は自分たちが護っている錠前を引きちぎろうと躍起になっている。
ジャレツは苦笑を残し、井戸に近づいた。
「ジャレツ!」
小鳥のさえずりみたいなか弱い声がその足を制止させた。振り返ると、鉄条網にはりついて見目艶やかな少女が胸を押さえて喘いでいる。
「ジャレツ、よかった、やっぱりここだった。あたいだよ、デニーゼ」
「デニーゼだと?あのソバカスだらけのデニーゼだと?」
槍で鉄条網を破ろうとしている衛士たちに油断なく視線をやりながら、ジャレツは少女の変貌に眼を白黒させた。
「そんなことよりジャレツ、キャスケードが大変なんだよ。変な小人によってたかって連れて行かれちゃったんだよ」
「キャスケード?あいつまだこの邑にもたもたしてたのか」
「ジャレツ、キャスケードを助けて!」
衛士のひとりがこうるさい少女に槍を向けてきた。デニーゼは悲鳴をあげて鉄条網に顔を伏せる。刹那、轟音がつきぬけ、鉄条網は鋭く断ち切られていた。ジャレツの銃が不思議な火を閃かせたのだった。
「今だ、デニーゼ。亀裂を抜けて来い!」
「だって、そっちへ入っちゃったら袋のネズミに・・・・」
「いいから来い!」
衛士は執拗に闖入者の少女めがけ、槍を繰り出してきた。デニーゼが決死の勢いでそれを避けながら衛士の股の下を抜けてくるのと、別の槍がジャレツに襲いかかるのはほぼ同時だ。
が、槍の突き立った場所にジャレツの姿は無い。胸に飛び込んできた少女を受け止め、もろともに井戸のつるべをつかんで桶に跳び乗っている。
猛烈な勢いで巻き上がるつるべは反対側の桶で、追ってきた衛士のあごをしたたか打った。
衛士のうめき声が井戸の奥深くに反響した。
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桶が止まった空間に、少女と共にジャレツは振り子のようにぶらさがった。

四角い空間がはるか頭上にあり、衛士の慌てふためく気配や怒号が聞こえてくる。
闇の中で少女のかぐわしい吐息がジャレツの頬をくすぐった。
「デニーゼ、頼むからこの前みたいにナイフを突きつけないでくれよ」
「あたいがいつ、そんなことしたのよ」
「やれやれ」
ジャレツはつるべの綱をつかんだまま、ため息をついた。
「さて、どうやって降りようか」
「降りるだって?あたい、泳げないよ」
デニーゼが心細そうな声を出した時、唐突にふたりの頭上から月光が降りそそいだ。支えをなくしたふたりは再び落下してゆく。
衛士たちが天蓋ごと、つるべの滑車を取り払ったらしい。滑車は唸りを上げてふたりの横をかすめて落ちた。
「きゃああっ」
水飛沫があがり、心臓が跳びあがるほど冷たい水にのみこまれ――――――、とデニーゼが覚悟したのは錯覚だった。強靭な脚で幾度か壁にバウンドしたジャレツの腕に守られて、少女は無傷で井戸の底に着地していた。
滑車と桶が派手に砕け散っていた。
「ジャレツ。水が、水がないよ」
「思った通りだ」
ジャレツはやおら立ち上がった。
踏みしめた井戸の底はひたひたと濡れてはいるが、昼間の水量はまるでない。
「夜の間、井戸が使えないわけがわかっただろう」
「う、うん」
どうやら衛士たちは追ってこないようだ。井戸底の空間は横穴となって続いている。
「行こう」
「やだ。怖いよそんな真っ暗な穴」
「面倒だが、キャスケードを助けなきゃならんだろう。まったく世話を焼かせるやつだ」
「だって」
一向におじけず進んでいこうとするジャレツの後に、少女は仕方なく続いた。坑内はジャレツが背をかがめてやっと通れる高さだ。足首までの嵩の水がたまらなく不快だった。
デニーゼはすすりあげた。
「怖いのか」
「さっき、鉄条網を破る時、あたいを槍で突こうとしたの、兄ちゃんなの。ルナシルダのせいであたいのことなんか忘れちゃったんだ。それが情けなくて悔しくて」
明かりが灯った。ジャレツがライターを点けたのだ。小さな空間に、デニーゼの涙顔が浮かび上がった。
「泣くな。せっかくの別嬪が台無しだぞ。その顔はまさか」
「真珠売りから美人になる真珠を買ったの。あんたがキャスに渡した手切れ金で」
「―――――――」
ジャレツは歩みを止めるなり、
「真珠を飲んだのか?」
少女の肩をつかんで揺さぶった。そのただならぬ激しさに、デニーゼは驚いた。
「キャスケードのやつもか」
「ううん、彼は飲んでない。真珠売りが飲ませようとしたけれど、間一髪」
「真珠売りがいったいあいつに何の真珠を」
「冥婚を、叶える真珠。確かそう言ってた」
「冥婚を――――――叶える―――――――」
繰り返すジャレツの形相はますます険しくなってゆく。悪魔が宿ったかのような禍々しい相が額にたち現れ、たぎりあふれてゆく。
「ジャレツ――――――」
デニーゼが思わず半ベソをかきかけた時、その不吉な気配は彼から雲散霧消し、普段の温厚な表情が返ってきた。
「急ごう。夜明けまでに地上へ出なければ水が満ちてくるぞ」
デニーゼの手を引いて、再びどこまで続くとも判らない暗い穴を進み始める。
(この人にはキャスが言ったとおり真珠なんか効きやしない)
握られた手の暖かさは偽物じゃない、と確信してもこの人はただ者ではないということが判る。デニーゼは左手の中にある媚薬の真珠をそっと握りしめた。
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まるで人の腸の中を歩いているようだった。
ライターの仄かな明かりだけを頼りに、湿った石造りの空洞を歩み続ける。
何時間歩いたか、感覚は失われつつある。恐怖感はないが、苛立ちがジャレツの心に影を落としている。足首までだった水位は着実に増し、すでに脛の中ほど辺りにまで達している。
ふと背後を振り返ると、足元からの冷えに唇の色をなくした少女が疲れきった視線を寄越してくる。
何度目かに振り返った時、ジャレツは総身に水を浴びたように感じて立ち止まった。
デニーゼの顔が、ふと甘にがい面影に重なったのだ。
(・・・・・のよ)
言葉さえ、甦る。

(<竜のあぎと>に報告を続けるのが私の務め。一生、あなたの側でね、ジャレツ)
純粋に愛だけだと信じていた、一途な瞳。真摯な唇から、幾度、甘く熱い喘ぎを洩らさせたことか。幾度、絹の肌を枕に情熱をたぎらせたことか―――――。
酒場の踊り子だったにもかかわらず、彼女は高潔な精神の持ち主だと信じた。間違ってはいなかった。が、それは愛する者へのそれではなく、竜蛇皇帝に対する忠誠だったのだ。
それを知った時、ジャレツは初めて皇帝を憎んだ。彼女を始末することが竜蛇皇帝を裏切ることだと、冷静に考え―――――銃爪を引いた。
同時に心は厚い氷に閉ざされた。二度と、溶けることはあるまいと思った。
――――――――あれから何年も経ったような気がする。
「・・・・・ツ」
「ジャレツ、どうかしたの」
知らぬまに顔面を覆っていた指の隙間から見ると、デニーゼが心配そうに見上げていた。
「アナリディカ・・・・いや、デニーゼ」
追憶をふりはらい、少女の手を取った。
「すまん。つい暗闇の虜になってしまった」
「何か、おしゃべりしようよ。そうだ、キャスケードの悪口ならネタは沢山あるよ」
ひた寄せる溺死の恐怖を充分感じているだろうに、相手を勇気づけようとする少女の心が健気だ。
ジャレツは足取りもしっかりと歩みを再開した。
「ジャレツは竜蛇大陸の人なんでしょ」デニーゼが無邪気に尋ねてきた。
「竜蛇ってすごく文明が進んでるんですってね。都のリシュダインには地下や空中に乗り物が行きかってて、高い建築物が林みたいに立ってるって旅の人から聞いたわ。夜になるとそれらが星みたいに光を灯して銀河みたいなんですってね。あたい、行ってみたいな」
「お前みたいな若い娘が憧れるところじゃないぞ」
ジャレツは捨てた祖国の残像を引き出す。
皇帝が大陸民の生活のすべてを掌握していた。食料、住居、教育、産業、その他すべてだ。最近では結婚、出生に至るまで皇帝直轄の機関が統制をとり初めてらしいと風の頼りに聞く。竜蛇大陸、数億の人々は人間ではなく、時輪皇帝リシュダイン二十三世の持ち駒でしかない。かつてはジャレツもそのひとつだった。
一介の秘密工作員でありながら、皇帝リシュダインの面前に上がることを許された、数少ない持ち駒のひとつだった。
<竜のあぎと>。
それが彼を育て、皇帝への絶対忠誠を植えつけた機関の通俗名である。
後に、白鳳大陸で拾うことになるキャスケードと同じく、彼もまた大都会の片隅でドブネズミのように這い回る元、奴隷の浮浪児でしかなかった。
<竜のあぎと>から目をつけられ、その訓練機関に放り込まれて以来、疑うことを知らぬ皇帝への忠誠が彼の中でつちかわれていった。魂の奥深くから腐臭が漂い出しても、自覚がなかった。
とどまることを知らぬ近隣大陸への侵攻と、皇帝の処す膨大な数の粛清を、聖義と考えていたのがその証拠である。
時輪皇帝リシュダインはそれでも満足せず、忠実なしもべに妻という枷さえはめ、彼女に夫の一挙手一投足を監視させたのだった。
ジャレツ自身の、暗黒の時代だった。
「あの大陸は人間を最もさげすむバケモノに変えてしまう。恐ろしいところだ。決してあこがれたりするな、デニーゼ」
少女は不思議そうにジャレツを見上げた。
「俺も、すんでのところで魂を邪悪な竜に噛み砕かれてしまうところだった。かろうじてそれをまぬがれたのは―――――――キャスケードのおかげだ」
デニーゼの肩をつかむジャレツの手に力が入った。
「癇癪もちのくせに根性なし。ケンカっぱやいくせに腕っぷしはさっぱり。女たらしのくせにおそらく恋など知らない。数字にゃ弱い、大陸共通語のアルファベットも書けない。あの顔以外に取り柄といえば、口の悪さしかない。どうしようもないやつだ、キャスってやつは。それでも、俺はあいつに救われた」
ジャレツは遠い目をした。穏やかな底に、熱い思いが渦巻いている。
「俺があいつを救ったんじゃない。俺があいつに救われたんだ。キャスケード・・・・あの脳天気に逢っていなければ、俺はとっくの昔にスラム街でのたれ死にしていただろう。
「キャスケードもきっと同じだと思うよ」デニーゼも胸の熱い塊を飲み下した。「キャスケードはほんとにジャレツのことが好きで好きでしようがないんだ。あんたがロンダム家に行っちまってから、どんなに落ちこんでいたか、どんなにカラ元気出してたか――――――あたい、よっくわかったもん」
「デニーゼ」
肩に乗せていた手を伸ばし少女の頬を優しく撫でる。この少女がキャスケードを慕っているらしいことがジャレツの心に明かりを灯した。
「あたいのあこがれてた真珠売りのポセイディオーンはあんな綺麗な顔をして、悪魔の化身だった。あたいが酷い目にあわされた時、キャスケードはそれは優しくしてくれたんだよ」
「ほう。あいつにしては上出来だな」
「ちっとも悪口になってないね」少女はあふれてきた涙を笑顔で隠し、また沈んだ。
「キャスケード、無事でいるかな。まさか殺されたりしてないよね」
行く手に仄かな明るさが見えてきた。どうやら出口が近いらしい。そして水の流れ落ちる音。
「大丈夫だ。やつらの狙いは俺だからな。キャスケードは俺をおびき出すための餌でしかないはずだ」
ますます確かに近づいてくる、明るさと水音に向かいながら、ジャレツは言った。
曲がり角の向こうに傾斜した滝が現れた。高さは優に二階家を超えるだろうか。足元の水位はジャレツの膝を超えてきた。滝の水量がみるみる間に増し、水嵩を上げていることがわかった。滝の脇に、螺旋状の石造りの階段があったのは天のたすけと思わなければならない。ジャレツは少女を先に押し上げ、水で滑りやすくなっている螺旋階段を登った。
滝はすり鉢状の斜面となっており、落ち行く水はすべて、今までジャレツたちが通ってきた横穴の水路へと流れこむ造りになっていた。邑の古井戸へと水は急いでいるのだ。
辺りはすでにしらしらと明けかかっていた。黄金を縫いこんだ空があけぼの色に輝いている。
螺旋階段を昇り切ると、滝の最上部へたどり着き、デニーゼをひっぱり上げた。
たちまち、眼前に赤茶けた大地が開ける。等身大の石像がぽつねんと立っていた。
鱗に覆われた女人像が肩にかつぎ持つ壷から清らかな水が無尽蔵に湧き出ている。
女人像がロンダムの紋章と同一だということは、一目瞭然だ。
「これが湧き水の源・・・・」
ジャレツとデニーゼは身を寄せあって茫然と眺めた。
彼方に目を移せば地平線の果てに湧き水の邑の家並みが遠く並び、反対側にはガダナ山脈の青い背骨が望まれる。山脈の山裾に広がる岩山地帯の地下に、地下湖の一族の居住地があると聞く。
「デニーゼ。お前は邑へ戻れ。ここから先は危険だ」
「いや。あたいもキャスを助けに行きたい」
「俺を手に入れれば、やつらはキャスケードを解放する。いいから待ってろ」
ジャレツは曙光を受けてまろやかに輝く山裾を鋭く睨んだ。
「ひっひっひい」
突如、清廉な水音を不気味な笑い声が乱した。すり鉢状の対岸に、せむしで小人の老人が立っていた。
「その通り。よく自分の立場をわきまえているようじゃの、竜蛇の男よ」
紫色の歯ぐきに一本残った黄色い歯が、さも愉快そうにぷらぷらと揺れている。
「爺さん、あんたも真珠売りの仲間だったんだね。キャスケードを返しなさいよ、あんたの命の恩人でしょッ」
ジャレツより先に、デニーゼが気丈に怒鳴りつけた。
「ひっひ、威勢のいい嬢ちゃんよの。じゃから言うておるじゃろう。その立派な体躯の男さえ我らの地下湖に赴けば、あの若いのは返してしんぜると」
「いったい俺に何をさせようというんだ」
ジャレツが挑戦的に問うた。
「ひっひ、古来より、真珠に竜はつきものでの。竜蛇の男よ。真珠は我ら地下湖の大切な産物なのじゃ。月は貝に命の雫を落とし、月が満ち、真珠も満ちる。竜は真珠をむさぼり食らい、空を翔る―――――――月が満ちる、月が満ちる、竜の影を飲み込んで――――――」
叙事詩の一節をそらんじるかのように、老人が陶然と吟じるのをジャレツは断ち切った。
「どうでもいい、キャスケードを返すのなら言ってやる。邑人にもいっさい手は出すな」
「ジャレツ!」
デニーゼがすがりついてかぶりをふる。ジャレツは頷きかえし、そのソバカスだらけの頬を軽く弾いた。夜明けと同時に、彼女は本来の幼い容貌へと戻っていた。
ジャレツが対岸の方へと歩き出そうとすると、老人の抜け目の無い声が飛んできた。
「おっと、その前に、最初の仕事じゃ」
「仕事?」
「お前さんの持っている湧き水の鍵を、あの石像の胸の飾り穴に差し込んでもらわねばなるまいて」
ジャレツは懐にある鍵を意識した。
「何をさせるつもりだ」
「知れたことじゃ。地下湖に湧き水をいただくまでのこと。いや、あの若いのを血祭りに上げてもかまわんというなら無理強いはせぬがのう」
「くそっ」
砂漠の岩陰のあちこちから小人たちが湧き出てきたと思うと、素早くジャレツたち獲物に群がり、彼の革ジャケットの内側を沢山の醜い手がまさぐった。
ひとりが鍵を探り当て、大将首を取ったかのように嬉々として高くかざした。
「おお、見つかったか。さ、さ、はよう」
鍵を持った若い男の小人がひょこひょこと飛び跳ねながら浅瀬を渡り、石像に近寄った。しかし、石像に登る事はおろか、触れることもできない。老人が地団太踏む。
「ううむ、忌々しい石像めが。ロンダムの始祖めが我らの最も忌み嫌う女神像を湧出源に拝しおって」
鍵を持った男はおじけて水の中にうずくまってしまった。
「やはり無理か」老人は肩を落とし、改めてジャレツにその白濁した目の焦点を当てた。
「さ、竜蛇の男。お前さんがやるのじゃ」
別の緑がかった髪の小人が、鍵を仲間から取り上げ、ジャレツに握らせた。有無を言わせない態度だ。
ジャレツは逡巡した。
老人の言う通りにすれば、おそらく邑の井戸は干上がってしまうにちがいない。
ルナシルダが肌身離さず守り続けていた鍵が急に重く感じられる。ジャレツの掌にすっぽりとおさまるちっぽけな存在だが、邑の運命がその鍵にかかっていた。
同時に、鍵は邑の運命だけでなくジャレツにとってキャスケードの命をも左右する力を持っている。
心が決まらない。
邑人をとるか、キャスケードをとるか。
湧出地を見極めようとしたばかりに、軽率な行動をとってしまった自分が、呪わしくてどうしようもない。
(許せ、キャスケード)
銃で撃ち焼いてしまおう。そう決めた。
鍵を放り投げた瞬間、激しくぶつかってきた者にジャレツは思わずよろめいて、片足を踏み外した。
デニーゼだった。
「いや!キャスケードを見殺しにしないで」
叫ぶや、鍵をつかんで女人像へよじ登る。
「待て、デニーゼ!」
危うく滝つぼへ転落をまぬがれたジャレツが叫んだ時には遅かった。鍵は、デニーゼの手で女人の胸の飾り穴にしっかりと差しこまれていたのだった。
「うほほほ、いやったあ!いひひひひ!」
老人が発情したカエルさながらに飛び跳ねた。地平の彼方に真っ赤な日輪が顔を出したと同時―――――――、
地の底から、不気味な地鳴りが立ち昇った。続いて大地をどよもす振動がやってきた。
デニーゼの目の前で、飾り穴から亀裂が生じた。それは次の瞬間、女人の喉を駆け上り、端正な口元を、鼻梁を、眉間を断ち割った。枝分かれした亀裂は稲妻の速さで全身を奔り
。―――――――、壷を真っ二つにした。
「きゃああああ!」
デニーゼは倒れゆく女人像から転げ落ちた。
湧き出る水は間欠泉の勢いで噴き上げた。
亀裂はまだ生き物のようにうねり、大地を突き抜けてゆく。
女人像のあった位置から順に、亀裂は幅を広げ、大地の地下に眠っていた巨大な空洞を露わにした。空洞は噴き上げる水をまるごとのみこみ、新たな瀑布の舌を自身の内部へ導きいれる。
「これは・・・・」
ジャレツはすり鉢状の斜面にしがみついたまま、大地の変貌に釘付けにされていた。
視界の隅を、少女が新たな瀑布へと吸いこまれていった。
「デニーゼ―――――――!」
少女を死なせるわけにはいかない。ジャレツはまるで一匹の竜にでもなったように、噴出する水の中に身をおどらせ、自身も大瀑布の口腔へと飲み込まれていった。
「いっひっひっひ、うほほほほほほほ」
せむしの老人が仲間と一緒に神楽に浮かれたように跳びはね、全身で歓喜していた。
「やったぞよ、やったぞよ。ついにあの封印の女神像を壊すことができたぞ。これで、湧き水はわれらの地下湖へと注がれる。我らを虐げ、蔑み続けてきた湧き水の邑のやからなど渇き死んでしまえ。一滴たりとも返してやるものか。ほっほっほ」
地平線の産道が日輪の卵を産み落とした。
デスムーン、滅びの月の夜は刻々と迫っていた。
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第 四 章 滅びの月
「まだ見つからないのですか」
苛々とまくしたてる女主人を前に、庭番の衛士どもがうなだれていた。何人もの衛士が昨夜、忽然と姿を消した邑長の捜索に投入されていたが、未だその消息は知れない。
ルナシルダは明けてゆく窓の外の空を睨みつけて、紫のヴェールで顔を隠した。オルビン老人が血相変えて飛び込んできたのはちょうどその時である。
「奥様、一大事にございます。邑の井戸が」
涸れた、というのだ。夜明けと共に、いつもは満々と水を湛えているなずの井戸が、空だという。すでに広場には水を求める邑人たちがあふれかえり、口々に水を寄越せとがなりたてているというのだ。
湧き水番の衛士たちは、井戸を警護することのみを頭に植えつけられており、かつてないこの状況にどう対処すればいいのか判らず、右往左往するばかりだというではないか。
(涸れた、ですって)
湧き水が涸れるはずはない。つまり、それは源の水の流れが変ったということだ。
またも急使が飛びこんできた。
「湧き水の源、女神像が何者かによって破壊されました!水は地下空洞へと流れ落ちています。すごい勢いです!」
(やはり)
ルナシルダのヴェールの内側のこめかみを、冷たい汗が伝い落ちた。
鍵を取り上げて、憎憎しげにポケットにしまいこんだ男の顔が脳裏をよぎる。
(ジャレツ・・・・・!)
あの男の仕業にちがいない。あの男が鍵を使って、湧き水の源を破壊したのだ。だが、どうやって?女神像は無防備に砂漠の中に建てられてはいるが、普通、旅人や牧人が見かけても見えるはずはない。何故なら、女神像はロンダム家の始祖が施した強力な結界で隠されていたからだ。
女神像を発見するためには、ただ一ヶ所、井戸の中から水路を通って行かなければ不可能なはずだった。あの男、なんということをしてくれたのだ、よりによってデスムーンが迫っている時に。
地下湖の一族の真珠を死滅させるために、手荒い真似までしてロンダム家に邑長として監禁したというのに、彼自身が地下湖に水を与えてしまうとは。
突如、鉢の大群のような唸りが近づいてきて、ルナシルダははっと息をのんだ。
同時に派手な衣装をひらつかせて、四人の女たちが部屋へ駆け込んできたと思うと、ルナシルダの膝をかき抱くように周りにかしずいた。
「ルナシルダさま、暴徒が押し寄せてまいりました」
「助けてください、私、まだ死にとうはございません」
第二夫人以下奥方たちの必死の嘆願だった。
ルナシルダは彼女らに何の返事も与えず、窓の外へ目を向けた。はるか正門の向こうに黒蟻のような人の津波が見えた。
「こちらへ、奥様」
オルビン老人がルナシルダのみをうながして脱出をはかろうとする。他の夫人たちは置いてゆかれてなるものかの一念で泣きすがった。が、屈強なしもべたちの阻止を破ることはできなかった。
「水を寄越せ!」
「鍵を寄越せ!」
「邑長は我々に死ねというのか!」
「ロンダムの圧政にはもう我慢ならん」
暴徒の群れの罵詈が響き渡る。
水の管理を長年に渡りつかさどってきた邑長家に不満が鬱積しているのだった。今日の水涸れは反乱のきっかけにすぎない。
「水をエサに、どれだけ庶民から甘い汁を吸えば気がすむのだ」
「どれだけ庶民の自由を奪えば気がすむのだ。どれだけ税を取り上げれば・・・・」
「宗教は全て禁止される、娘を人買いの隊商に泣く泣く売らねば食べてゆけぬ。身体や女房を売るものはまだましだ。盗みや物乞いをさえいとうていては生きてゆけぬ。あれもこれもすべてはロンダムのせいだ」
手に手にナタや包丁、あらゆる武器となりうる物を持ち出して、商人も農民も牧人も地位ある男も、はした女も、叫びながら門の外にひしめいている。
「だから我らは真珠売りを待つのだ。幻想と知りつつ、淡い夢を抱いて」
「真珠売りよ!我々に勇気を」
「ポセイディオーンよ、我々に勇気を」
門が軋んだ。
破られるのは時間の問題だろう。
ルナシルダは壁水の館を出て、人工庭園のしたたるような緑の中を、獣のように走った。
「ルナシルダさまあ!」
背後でオルビン老人が喘ぎながら呼ぶ声がしたが、彼女の耳には届かない。ひたすら彼女の目指すのは、庭園の奥にある歴代邑長の廟だった。
豪壮な青いタイルの廟は、うっそうと繁る木立の中に眠っていた。
「あなた!アルノワ!」
重い扉の鍵穴にもどかしげに差しこむ鍵は、湧き水の源、女神像の胸に差し入れられたものの合鍵である。
扉の内側は階段が地下へと続いている。十数段も降りると、死者の部屋がある。
ルナシルダは震える手で壁の燭台に火を灯した。とたんに、柩も、祈りの台も、壁、柱、天井、床に至るまでが白く目映く輝き始める。それらは全て真珠質でできていた。
「あなた!」
ルナシルダは渾身の力をふりしぼって柩の蓋を押し上げた。
先代邑長、アルノワは安らかに眠っていた。
ロンダムの血を証明する高貴な、生前そのままの端正な顔で、青年邑長は愛する妻に抱き起こされた。
ルナシルダの顔面のヴェールの裾から、涙が伝い落ちた。
「あの竜蛇の男さえ勝手な行動をしなければ、ポセイディオーンを死に追いやって、冥婚の真珠を得てあなたに飲ませてさし上げられるところでしたのに、残念でなりません」
死者は頬に妻の涙を受けて眠り続ける。
「ああ、デスムーンは今夜。たった一度、一度の機会だったものを」
ルナシルダは遺体にすがって泣き崩れた。オルビン老人がようやく柩室に到着した。
「奥様、お逃げください、暴徒が、暴徒が」
ひきつった叫びもすぐに猛り狂った怒号にかき消される。門を突き破った邑人がロンダムの庭奥深くまでなだれこんできたのだ。
「お早く」
老人の必死の説得も彼女には効かない。
暴徒の先鋒が駆け込んできた。
老人を突き飛ばし、ルナシルダの身体を遺体から引きはがす。
紫の喪服が引き裂かれた。暴徒はもはや狂気に猛っていた。激しい昂ぶりに、ルナシルダはポセイディオーンの悪意を感じ取った。
短い時間での邑人たちの急激な変貌。それはポセイディオーンが彼らに飲ませた真珠の効力に間違いなかった。
真珠はポセイディオーンの意志をして邑人たちを支配しているのだ。邑人たちの体内の真珠が水に飢えて怒り狂っているのだ。
ルナシルダは暴虐の嵐にたたきこまれた。暴徒の憤怒は邑長の亡骸にさえ向けられた。
「やめて!アルノワの神聖な眠りを妨げないで!」
「何が神聖な眠りだ」
「我々を苦しめておきながら」
ルナシルダの抵抗は暴徒のたぎった心にいっそう油を注いだ。
数十人もの暴徒から殴る蹴るの嵐にさらされたあげく、ルナシルダは喪服を裂かれ、全裸にされようとしていた。
最後の薄布を取り去った暴徒は、息をのんだ。怒号に満ちていた死者の部屋は、一瞬、静まり返った。
ひとりの農夫の手から、クワが落ちた。
神々しいまでの真珠の輝きの肌を想像していた暴徒たちは、慄然とするしかなかった。
先ほどまで紫の喪服をまとい、男たちに翻弄されていたルナシルダの身体は、せむしであるばかりか、醜いかさぶたに覆われた、小人の老婆だったのである。
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夜明けの井戸涸れに端を発したぼうどうは、砂漠の焼けつくような一日がのろのろと過ぎてもおさまる気配はなく、狂気の徒と化した邑人の群れは次々と商店を荒らし、旅人を襲い、湧き水の衛士をも群がる蟻の勢いでついにはひとり残らず打ち倒した。
先代邑長アルノワの麗しい亡骸は廟から引きずり出され、油をかけて燃やされた。
ようやく、落日が断末魔をあげながら地平の彼方へ没し、急激に魔の跳梁する闇が訪れる頃―――――――、闇に魂を売った邑人たちが呼び寄せるかのように、月が昇った。この日、邑で流された夥しい血の色そのままに、禍々しい血の色に染まった、満月が―――――――。
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「しっかりしろ、デニーゼ!」
やっとの思いで岩肌がむき出しの岸に這い上がったジャレツは、祈る思いで少女の唇に息を吹き込み、額を接して生気を送り込んだ。
冷たい流れは少女の体温を容赦なく奪いとっていた。
「死ぬな!もう一度、キャスのやつに会うんだろ!」
激流の吠え声が無上にもジャレツの声をかき消す。地表の裂け目から月明かりがさす中、全身ずぶぬれでの救命の奮闘が続いた。
やがて――――――少女の眉間がかすかにしかめられ、胸が上下した。
「デニーゼ・・・・」
それも束の間、デニーゼは唐突に意志の無い眼光を発して身を起こした。まるでマリオネットのぎこちなさだ。
いきなり、少女の手はジャレツの首を捕らえて締めつけてきた。
「デ・・・・」
その人並み外れた握力にジャレツは驚愕した。
相手を思って反撃できぬことを見透かしたように、細い指は容赦なく食い込んでくる。
苦しさに気が遠くなりかけた―――――――その時、落雷のような衝撃がふたりを襲い、弾き飛ばした。
何事か。
ジャレツは咳き込みながら急いで少女を見やった。
デニーゼの面差しが変っていた。
月が出る時の、あまやかな美女の顔ではない。もっと神々しく、冷たい印象は、まさしくルナシルダだった。
「ジャレツ!」
彼女は駆け寄り、ジャレツを助け起こした。
「ルナシルダ――――――?」
「危ないところでした。この少女は真珠を飲んだため、ポセイディオーンの意のままに動いていたのです」
「何故あんたがデニーゼに入り込んでる」
ジャレツは思わず後じさりした。
「私の身体はさっき滅びてしまいました」
その言葉はもっとジャレツを後じらせた。
「邑人が水を求めて暴動を起こしたのです。湧き水の井戸が涸れてしまったために」
「――――――――!」
あの湧出源の女神像を破壊したために?
ジャレツは衝撃を抑えきれなかった。
「邑人たちは――――――――真珠を飲んだ邑人たちは水を求めて暴徒と化し、家々ばかりでなくロンダム家へもなだれこんで屋敷に火を放ち、廟から恐れ多くも先代アルノワの亡骸を引き出して迫害し、私を嬲り殺しにしました」
冷静な唇から聞くに耐えぬ事実が語られた。たった一日で、豊かで平和だった邑がそのような凄惨な有様になろうとは、物事に動じにくいジャレツも茫然として視線を宙に浮かせた。
「そんな――――――信じられん」
「では邑へ帰り、あなたの目で確かめればいいではありませんか。あなたの犯した罪、あなたの愚かさを思い知ればいいのだわ。あれほど私がポセイディオーンの策略にはまってはならぬと忠告したものを」
ルナシルダの魂を宿した少女の眼から憤怒の炎が溶け、涙となってあふれた。
「俺の罪だというのか?」
「あなたさえ鍵を持ち出さなければこんなことにはならなかったわ」
ジャレツは改めて女に向き直った。鋭い眼光がよみがえってきていた。
「――――――にしては、あんたはやけにやすやすと鍵をよこしたな、ルナシルダ」
「!」
少女の顔色がいっそう青味を帯びた。
「俺は最初から不思議に思っていた。あんたは長い間、なぜポセイディオーンの跳梁を許していた?邑人たちが真珠を飲み、やつの操り人形となるのをわかっていながら、なぜ見て見ぬふりをしていたんだ?」
激流の轟音が沈黙を埋めていった。
「ぬ・・・盗人猛々しいとはあなたのことを言うのだわ、ジャレツ!」ルナシルダは反撃した。「湧き水の涸れたのが、あなたのせいでなくて誰のせいだというの?誰が美しい邑の家並みを、ロンダム家の広大な庭園を、屋敷を廟を、私のアルノワを、めちゃめちゃにしてしまったのよ!全てはあなたの軽率さ、あなたのその自分の罪を人になすりつける狡さが招いたことよ!」
少女の額を冷たい汗が満たし、握りしめられた拳が小刻みに震えた。
「何を恐れている」
冷静に、ジャレツは問い返した。
「な、何を言ってるの。話をそらそうとしても無駄よ!」
「何を恐れている、ルナシルダ」
ジャレツは繰り返した。
「何も恐れてなど・・・・」
「いや、脅えている。ある脅威があんたを苦しめているんだ。あんたはそのためにポセイディオーンの跳梁を黙認し、そうしながらも先代アルノワが護ってきた湧き水を護り通そうと懸命だった。ある脅威と、亡き夫の意志を継ぐことの板ばさみになっていた――――――違うか?」
「ジャ、ジャレツ」
図星を指された彼女は瞬きさえできない。
「何故それを、という顔だな。俺も、あんたを苦しめている脅威をよく知っているのさ」
苦笑いと得意顔がジャレツの面に同居していた。
「せむしの老人が吟じていた叙事詩を聞いて、やっと気がついたんだ。竜は真珠をむさぼり食らい、空を翔る――――――。月が満ちる、月が満ちる、竜の影を飲みこんで――――――。竜の影を――――――か。ロンダム、つまり竜蛇・・・・か。なるほどな、どうして今までわからなかったんだろう。油断していた。ロンダムの始祖は竜蛇と何かの縁があるらしいな」
「・・・・・・・」
亡者は口をつぐんでいた。
「それにしても、まさかこんな遠く離れた大陸の奥まで彼の人の意志が飛来するとは」
竜蛇の男は皮肉な笑みを見せた。
「彼の人の要望は、俺をデスムーンの夜に地下湖の人身御供に差し出すこと―――――――だな?ルナシルダ」
「その通りよ」
「彼の人―――――時輪皇帝リシュダインのお望みになりそうなことだ。きっとポセイディオーンにもお達しが行っていることだろう。対立する二つの種族の弱みにつけ込んで、俺を双方から挟み討ちにする――――――――さも彼の人のやりそうな手口だ」
ジャレツは懐かしさをかみしめるかのように遠い眼をした。
時輪皇帝リシュダインの執念深さが今さらながら焼ゴテとなって心臓に押しつけられた。彼は決して自分を裏切った人間を許しはしない。自分が手塩にかけ、寵愛した人間であればあるほど、その憎悪は苛烈だった。
竜蛇、数百年の過去の歴史をひもといてみても、それは事実だ。
外見は少年でありながら、時輪皇帝リシュダイン二十三世は竜蛇の時の輪を繰り返し、めぐる車輪のごとく二十三回目の人生を生きている不死の竜蛇族、皇帝だ。
ひとつの人生を終えるたび、隆起した背中のコブがひとつずつ消えてゆく。そうして朽ちた老体からサナギを破るように赤子として生まれ変る。
ジャレツが仕えた頃の皇帝はまだ十二、三の少年皇帝だった。
だが、見かけは初々しくともその魂は千年生きた魔女と変りはしない。嫉妬深く残忍、疑い深く、冷酷無比、傲慢、それでいて幼稚。非常に自己中心的だ。鷹揚慈悲深く温和などという言葉ほど彼から遠いものはない。
それらはしかし、彼の元を去らねば気づかなかったことだ。洗脳されていた目には、彼こそが至高の存在と映っていた。
彼の怨みの執拗ささえ、皇帝の器には頼もしい気質だと取り巻きは褒めそやした。
ジャレツは改めてそれを肝に命じた。
幾千里逃げようと、海を渡り異なる大陸へ身を隠そうと追跡はやみはしない。
リシュダインの禍々しい微笑と爬虫類さながらの三日月型の瞳孔はつねに身近に息づいているのだ。
所詮、彼の掌から逃げおおせるなど、不可能なのか――――――。
ジャレツは喉の餓えを覚えた。
ルナシルダがやにわに彼の足元にくずおれ、激しく泣き出した。
「アルノワは・・・・アルノワはあくまであの脅威を拒絶したわ。竜蛇の男がもし現れても地下湖の人身御供に差し出すことはできないと。そんなことをすれば、呪われた真珠は爆発的に産出されるようになり、邑人はおろか遠国にまで被害が広がる。そう言って拒否し続けたために、無理やり冥界へ旅立つ真珠をポセイディオーンに飲まされ抹殺された」
「そうだったのか」
「ポセイディオーンは完全に脅威のしもべ。真珠に呪われた力を授けたのもあの脅威よ」
ジャレツの内部で真珠売りの少年と、少年皇帝リシュダインのイメージが静かに重なった。ルナシルダは続けた。
「脅威は、ポセイディオーンの口を通してたった一度のチャンスを与えたの。冥婚を叶える真珠をデスムーンの夜に死者に飲ませれば、死者は蘇る―――――――だから、アルノワを蘇らせたければ、竜蛇の男を差し出せ――――――と」
「だが、あんたは俺を護ろうとしたな」
「脅威に屈して蘇らせてもアルノワは決して喜ばないわ。だから、地下湖一族に湧き水を与えず、ポセイディオーンに真珠との交換を持ちかけるつもりだった」
ルナシルダはまた涙にむせて首を垂れた。
「その―――――――冥婚を叶える真珠というのは――――――」
ジャレツは途方も無くその真珠の名に暗い響きを感じた。同時に、魅惑的な何かを。
「冥界に旅立ってしまった愛しい人と、結ばれる真珠。デスムーンの夜に亡骸、あるいは生きた人に飲ませると、死者が蘇ると言われている・・・・」
「冥界に旅立ってしまった・・・愛しい・・・・」
夢に酔うようにジャレツはその名を辿った。
「でも、すべては夜明けの夢!私もアルノワも肉体を失ってしまった・・・・。現世ではもう二度と結ばれないのだわ」
ルナシルダの、魂が引き裂かれるような慟哭が激流の音に混じって消えてゆく。
唐突に少女はくずおれた。
急いで受け止めたジャレツの腕の中から、いつものソバカスだらけの少女が見上げた。
「もう大丈夫だ、苦しい思いをしたな」
「ジャレツ、早くキャスを助けに行こう」
デニーゼは震えながらも気丈に言った。
**************************************
蜂蜜色とオレンジ色。こがね色と夕焼け色。が、混じりあい、モザイク模様にきらめき、キャスケードの視界にあふれていた。生命を謳歌する温かくて華やかな色の海。意識を取り戻して最初に視界に満ちた情景だ。
(何だ、これ)
身体も頭の芯も、鉛の塊を抱え込んだようだ。生れ落ちてから今まで突っ走りっぱなしだったツケでもまわってきたのかと思うような、内側からの気だるさが手足の指先までをも寝食していた。
目だけが、華やかな色に癒されて心地よい。
やがて身体が揺れていることに気がついた。それと、かすかな軋みの音。音の方へ目を向けると、細身の少年が華奢な手足を使って舟を操っていた。
「てめえ・・・・ッ」
それが誰か判った瞬間、キャスケードは跳ね起きてありもしない背中の毛を逆立てた。
「おっと、急に動いちゃ転覆するよ」
真珠売りポセイディオーンは甘い視線と声をよこしてきた。
慌ててバランスを取りながら、キャスケードは初めて自分がいる場所に気づいた。
湖上に浮かぶ小舟の上。
湖面はあのきららかなオレンジと黄金に輝いている。夕焼けが映っているのかと思ったが、すぐに違うことに気づく。湖面から徐々に視線を上げてゆくと、湖全体がパイの中のシチューさながらドーム型の岩盤にすっぽりと包まれていることが判った。しかも、ドームの真上はぽっかりと天井が抜け、満月が婉然と濃密な光を滴らせている。
湖面は、それを反射した色らしく、ドーム内側の鍾乳石がまたそれを反射して明るい。
そして――――――。
「う・・・わ」
キャスケードの背筋を悪寒とも快感ともつかぬ感覚が奔りぬけた。
湖のおもて一面に無数の二枚貝が浮かび上がり、親鳥からエサをねだるように頭上からの月光の雫を一滴でも多く受け止めようと、惜しげもなくその内側を晒しているではないか。
まるで意志を持つ者のように、貪欲に。
「きれいでしょう」
背後から甘い吐息がキャスケードのキツネ髪をすり抜けてうなじにかかった。
「滅びの月だなんて、誰が言ったのかしら。今夜こそ真珠たちにとっては新しい息吹を得る再生の夜、豊穣の夜なのに」
声色が媚びて、先夜の高慢な態度とは違う。
「ここはどこだ」
「地下湖一族の大切な湖だよ」少年は誇らしげに湖を見渡した。ほら、見て。死にかかっていた母貝たちが湧き水を得て元気になり、真珠を宿すことができそうだ。僕たちの地下湖は涸れずにすんだんだよ」
右手に視線を投げると、新鮮な水が地下水路から渦を巻きながら豊かに注ぎ込んでいた。
「僕たちの地下湖だと?てめえ、せむしの小人たちの仲間だったのか?」
キャスケードは歯の間から声を押し出した。
湖の湖面には夥しいせむしの一族が、男も女も老いも若きも蟹の大群さながらに群れながらこちらに注目している。
「ごめんよ。騙すつもりはなかったんだ。手荒に連れて来てしまったことも謝る。しかたなかったのさ、だって―――――――」
上目遣いに見つめられ、キャスケードはたじろいだ。真珠色の瞳が艶かしすぎる。
「だってにいさんたら、あの男のことばかりムキになって憎らしいったらないんだから」
「な、なんだあ?」
少年はさらにすりよった。
「そんなにあの男が好きなら、にいさんができる精一杯のことをしてあげたらどう?」
「何だと?」
「前も言ったでしょう、彼の心を捉えるのは冥府へ旅立った妻だけだって。逢わせてやりなよ。にいさんが決心すりゃ実現するんだ」
ポセイディオーンは唇の奥から蜂蜜色の真円真珠を取り出した。
いつぞやの真珠だ。パールオレンジの唇にくわえられている様はなんとも妖艶だ。
ジャレツは死んだ妻に逢いたがっている。それは呪文のようにキャスケードの心に繰り返された。彼の手にかかって死んだ妻は、きっとキャスケードの知らぬジャレツの来し方、行く末、真の思いを知っていたに違いない。それに比べて、何も知らない話してもらえない自分が哀しかった。
真珠売りの術中に落ちたとも知らず、キャスケードはうち萎れた。
「お前、何だって俺にそんなことさせてえんだ?何か得することでもあんのかよ」
「僕はにいさんに幸せになってほしいだけ。僕の純真な思いさ。愛しているなら相手の幸せを願うのが当然でしょ」
おぞ気が走るほどのキザな言葉を少年はさらりと口にし、執拗に覗きこむ。
「にいさんも決心しなよ。それとも、竜蛇の男が冥界に旅立っちゃってもいいの?」
瞬間、少年の喉元を押さえこんだキャスケードの手は、獰猛に大粒の真珠を奪い取った。
「この性悪ガキ、イカサマだったらただじゃおかねえからな」
「いいとも。にいさんの好きにして」
少年の哄笑が鍾乳石に反響した。
キャスケードは真珠を手のひらに転がした。こんなもので死者の魂を呼び込めるのか。ジャレツの女房に身体を明け渡すのか?今ひとつふんぎることができない。
その女と一体になった時、ジャレツと彼女の過去がどっと脳裏に流れてくるんだろうか。
「でもよ」ポツリと洩らす。「考えてみりゃあいつが来るわけねえ。俺はとっくの昔に手切れ金渡されてんだぜ」
「いや―――――――来る」
少年はきっぱりと言い切った。
「彼はその真珠の効力を知ってしまった。ひきつけられて、来ずにはいられない」
「ふん、どーせ俺なんか、真珠一個にも劣るチンピラだもんな」
「にいさん、あんた竜蛇の男の心がわかってないねえ」
「るせえっ!」
キャスケードは激昂した。今いちばん触れられたくない傷口だ。
真珠売りは微笑みながら、薄いキトンの裾をひるがえして舟底に腰を下ろした。
キャスケードもふくれツラでごろりと舟底に横になった。胸がかっかと熱い。さっきまで思いつめていた自分が馬鹿らしく思えた。
そうとも。あいつが来るわけない。だが、心の片隅で期待している自分を意識する。
夜は深々と更けた。
中天に輝く月の光が丸型の天井から射しこみ、湖上に浮かぶ無数の真珠貝はいよいよ餓えた雛鳥さながらに月光に食らいついている。
岸辺で見守るせむしの一族は異様な音律を吟じながら身体を揺らす。
「いつまでこうしてりゃいいんだ。来やしねえよ、ジャレツのやつは。俺は邑へ帰るぜ」
焦れたキャスケードが何度目か叫んだ。
「邑?今、邑へ帰ってどうしようというの」
真珠売りは遠見でもするように目を閉じ、
「湧き水の邑は一日で崩壊してしまったよ。今も燃え続けている。人々はゾンビみたいにもっと壊す物を求めて徘徊しているよ」
「なんだとっ?」
キャスケードは飛び起きた。
「じゃ、ジャレツとデニーゼはどうなった」
「さあ?」真珠売りは尖った肩先をすくめ、「竜蛇の男は心配ないとして、小娘は多分もう」
「なんだとお」キャスケードは相手を睨みすえながら立ち上がった。「いったいどういうわけだ。どうして邑が急に、そんな」
「地下湖に湧き水をいただいたからさ!」真珠色の目がさも愉快そうに三日月型にたわめられた。「井戸は涸れて大騒ぎ。今まで僕たちには一滴も与えず独占していた罰さ。いい気味!ふふふ」
「さては、てめえの陰謀か」
「ご名答、にいさん。その通り邑を破壊したのは真珠を飲んだ人たちだけさ」
「それで真珠を売り歩いてたんだなっ」
「魂をいただくと言ったでしょ」
キャスケードは全身が粟立つのを感じた。
細い胴をくねらせ、ポセイディオーンは笑い続けている。
「だから、にいさんもお飲みよ。僕が気持ちよくなるよう、支配してあげる。にいさんが飲みさえすれば、にいさんも僕も、竜蛇の男も幸せになれるんだ」
「ぬかせ!」
キャスケードはやにわに握った真珠を湖面へ捨てようと拳をふりあげた。
「できるの?」真珠売りの甲高いひと声がその拳を凍りつかせる。「竜蛇の男の願いを叶えてやらないの?」
その時――――――。突然、なめした皮を思わせる、男の低い声が岩盤内に満ちた。
「来たぞ。真珠売りのポセイディオーンとやら。俺に用があるそうだな」
真珠売りとキャスケードは急いで頭上を仰いだ。ドームにぽっかり空いた天井の淵に、月の光輪を背負った人影がある。
(ジャレツ―――――――)
人影は身を躍らせて湖へ飛び込み、真珠貝をかきわけて舟へ泳ぎ着いた。湖水をはじく厚い胸板もあらわなまま男は両者を見つめた。
*******************************
凄惨を極めた邑の暴動は夜に入っても衰えを知らない。
真珠を飲んだ人々はポセイディオーンの意のままに邑の家々を襲い、火を放った。真珠を飲んでいないひとにぎりの人々は着の身着のまま逃げ惑い、運のいい者は砂漠へ脱出したが、老人や子ども、病人たちは逃げる術を知らぬまま、狂人と化した暴徒に血祭りにあげられた。
もはや暴徒の標的は誰でもよかった。
暴徒同士が殺し合いを始めるのは時間の問題にちがいない。
漆黒のびろうどに散りばめられた宝石さながらの星空を、血の色の炎が燃え上がり、焦がした。
どす黒い阿鼻叫喚が邑の大通りをつきぬけ、小路をかけめぐり、広場に満ちた。
殺戮にも飽きて、酩酊している不届き者もある。男は、よだれを垂らして鼻唄を歌いながら、凄惨な現場を千鳥足で歩いていた。
「燃えちまえ、燃えちまえ。湧き水の邑から湧き水が無くなりましたってえ?へへ、バカ言っちゃいけねえや」
髭面に虚ろな眼。昨日まで勤勉実直だったにちがいない職人風の男である。
「毎日酒が飲める真珠を下さいなってか。へ、へ、へ・・・・」
すでに全焼し、黒くこげた柱ばかりが残っている一角に男はやってきた。
炎は遠く、月の光のさえざえとした蜂蜜色がやっと見分けられる場所である。
黒く焦げた小山が道の真ん中にできている。そこは、昼間、暴徒たちが廟から引きずり出したロンダム家の先代アルノワ・ロンダムの遺体を燃やした場所だった。
手に持っていた酒のボトルをラッパ飲みした職人は、ふと泥酔した目を小山に向けた。
「ああ?」
濡れた頬をぬぐいながら、じっと見てみる。
何かが光ったような気がした。
恐る恐る近寄ってみた。
不意に小山の一角が崩れ、紫の炎の塊が起き出した!かろうじて人型をしている。片方だけ焼け残った眼が、ぎろりと職人を捉えた。
「ぎえええええええ!」
職人はボトルを放り出し、こけつまろびつ後も見ずににげてゆく。紫の炎に包まれた人体は、大きく深呼吸するように胸を膨らませ、周囲を見渡すと、やがて一方向をめざして歩み始めた。ゆっくり、それでも炭かすのようになってしまった身体は一歩進むごとにぼろぼろと崩壊してゆく。
アルノワの亡骸は、亡き妻を求めていた。
妻、ルナシルダが嬲り殺された果てに、燃やされた場所は邑の中央、涸れてしまった井戸のある広場だった。
妻の遺骸は無残に黒こげとなって夜風に吹き散らされようとしていた。
アルノワは焼け残った片方の眼で妻だった物体を見下ろした。そしてやおらしゃがみこみ、妻の身体を抱き上げた。
その夜、紫の炎をまといつかせながら、砂漠へと必死の行軍をしていった一対の亡骸を見た暴徒は、恐怖のあまり腰を抜かしてしまった。狂気も一気に消し飛ぶほどの戦慄を、暴徒は味わった。
銀河が地平線に流れ落ちる先を、アルノワは目指した。足は砂を踏むたび、焦げ落ちた。手は、肩は、頬の肉は夜風に吹き散らされ、それでも彼は妻を抱いたまま、黙々と歩いた。
やがて―――――――、
轟々と滝の音が近づいてきた。
砂漠に、唐突に現れた地下空洞へ流れ落ちる湧き水である。女神像のあった地点から、大人が数人がかりで囲うほどの水の柱が生えている。
アルノワの身体にまといつく炎はもはや、あちこちの関節でちろちろと燃える程度に衰えていた。
彼は妻が握りしめていた小さな物を手からそっと抜いた。それは湧き水の井戸の鍵だった。
水の柱を見上げる。
ながくながく見つめ―――――――ようやく意を決したのか、握っていた鍵を水の湧き出し口めがけ、投げつけた。
水の柱は一瞬にして数百倍もの太さに拡大する。夜の砂漠に、巨大瀑布が出現した。
アルノワはそれを見届けると、わが身を水の柱に融合させるかのように、抱きかかえた妻もろともに流れに身を投げた――――――――。
************************************
「ジャレツ!」
「キャスケード!このバカ野郎!」
ジャレツが、危機を承知で来てくれた!
信じられない感激に、喜びいさんで歩み寄ろうとしたキャスケードは、いきなり叱り飛ばされて途方にくれた。
「誰のために大金をせしめてやったと思ってるんだ、さっさととんずらしないから変なのに捕まるんだぞ、このトンマ!」
「え?じゃ、あの手切れ金てのは・・・・・」
「お前、一攫千金に憧れてたろうがっ」
「俺、あ、あんたと引き換えに大金なんか欲しかねえよ!」
必死で言い返すキャスケードの顔が涙で崩れる。胸の熱いかたまりがやけに苦しい。俺は捨てられちゃいなかったんだ!
「世話を焼かせやがる」
小さい少年をなだめるように、ジャレツはびしょぬれの肩にキャスケードの頭を抱き寄せた。
「怒らないであげてよ。彼のおかげであんたに来てもらえたんだから」
ふたりの背後から、透き通ったトーンの声がした。
「やっと逢えたね、竜蛇の牙と言われた男」
ジャレツはやおら向き直った。真珠売りポセイディオーンとやら。さっさとキャスケードを解放しろ。それを見届けたら俺を煮るなり焼くなり好きにしてもかまわん。確か、皇帝は血を見ぬ方法をお好みだったが」
「皇帝?何のことだ」
少年の真珠色の瞳がにわかに剣を帯びる。
「とぼけるには貴様の放つ<気影>は竜蛇の匂いそのものだぞ。さてはおまえ自身、魂を皇帝リシュダインに売り渡したらしいな」
「・・・・・・・・」
少年は唇を引き結んだまま、相手を睨みつける。
「さあ、どうする?俺の肉は硬くてすすめられんが」
「あんたの、その厚い胸郭の奥にある魂、つまり燃え滾る真っ赤な心臓をいただこう。さぞ真珠たちは舌鼓をうつだろうな」
「なんだと?聞いてねえぞ、そんなこと!」
キャスケードが横合いから叫んだ。ジャレツは彼を制して一歩前に出た。
「よかろう。だが、引き換えに邑人たちの支配を解き、邑を平穏に戻せ。湧き水をわかちあえ」
「わかった」狡猾そうな笑みが少年の口角をかすめた。「さすが竜蛇の牙。潔いことだ」
「ジャレツ!」キャスケードが必死の面持ちで相棒の逞しい腕に食らいついた。
「嘘だろ?なんでこんなガキのいうこと聞いてやるんだよ!縁もゆかりもねえ邑人なんかのためになんで犠牲になんなきゃならねえんだよお!」
「キャス・・・」
ジャレツの漆黒の瞳がきかん気の弟分を優しく見つめる。
「そんなに・・・そんなに死にてえのかよ?あんたが、あんたがいなくなっちまうなんて考えられねえ。足元の地面がなくなっちまうみてえだよ。空が溶けちまうみてえだよ。世界が壊れちまうよ!」
涙まみれ、ハナまみれ、よだれまみれの説得だ。普段のナルシストぶりからは想像出来ない恰好悪さだが、ジャレツを失うかどうかの瀬戸際に、キャスケードはなりふりかまってはいられなかった。
「キャス、落ち着け」
「いやだ!いやだ!いやだ!俺をひとりぽっちにしないでくれえ。弱虫、腰抜け、ふやけ○×△!何とでも言え。俺はあんたがいなくっちゃ駄目なんだよお」
首を抱き、額をつき合わせて訴える。もはや半狂乱のキャスケードの脳裏をチラと浮かんだ言葉。
―――――――自分が殺した女房に逢うために、死に場所を捜しているのさ。
モイザが言った通りだ。ジャレツは死に場所を求めてるんだ!そして今見つけたんだ!
絶望的な結論はキャスケードの昂ぶりに拍車をかけた。
「いやだああああ」
「聞け、キャス!」
ジャレツのびんたがキャスケードの頬で弾けた。尖った肩をがっしりとつかみ、
「邑の湧き水の流れを変えてしまったのは俺のせいだ。責任をとらねばならんのだ」
が、ジャレツの言葉はキャスケードの暴走に油を注いでしまった。
「そんなに死に急ぎたいのかよ。そんなに」
取り乱してもその先は声を出すのを躊躇う。
(そんなに死んだ女房に逢いてえのかよ!なら、俺が今すぐ逢わせてやっから!)
ふたりを見つめる真珠売りの目が、しめたとばかりに細められた。
キャスケードの震える手は持ち上がり口元へあてがわれた。そのまま滑らかな喉を見せて背中をそらせ、ゆっくりと膝が折られる。
ひと筋の涙が頬を伝った。
ジャレツは彼の異常に気づいた。
「おい、何を口に入れた?」

ジャレツの眼前でキャスケードの上体はゆっくりと舟底に転がった。舟は衝撃で大きく揺れた。
「キャスケード!」
「にいさんが飲んだのは冥婚を叶える真珠――――――死せる者と愛を交わすことのできる真珠さ」
背後からポセイディオーンの声が被さった。
「なに――――――――」
ジャレツはキャスケードの身体を抱え起こしながら、獲物を狙う獣の視線で少年を振り返った。
「しかも、今夜はデスムーン。それを飲んだ者は霊魂ばかりでなく肉体まで死者にのっとられ、死者として復活する。つまり、お前が手にかけた妻が蘇るのだよ」
ジャレツの目もとの相が変りつつある。
「どう?嬉しい?竜蛇の牙。お前の見張り番と知り、かっとなって思わず殺してしまったものの、お前は妻を熱愛していたものね」
くっくっくと含み笑いをする少年は殺しても飽き足りないほど憎らしげだ。
「そのことを・・・・そのことをキャスケードに喋ったのか」
「いや、にいさんは知ってたんじゃない?」
真珠売りの哄笑がドーム型の岩盤内に響き渡る。ジャレツの怒声がそれをさえぎった。
「真珠売りポセイディオーン!いや、時輪皇帝リシュダイン!俺は貴様の手先だったアナリディカを殺したことを後悔していない。未練がましく思い出すこともない。もし――――――もし、彼女が蘇生しても、何度でもこの手で地獄へたたきこんでやる」
「う・・・・・」
真珠売りは相手の気迫に度肝を抜かれ、蒼ざめて艪にしがみついた。
「キャス!キャス!飲み込むんじゃない、キャス!」
頬を叩かれてもキャスケードの眼は閉じられたままだ。
「バカ野郎、お前を亡者に渡してたまるか」
言い捨てるなり、ジャレツは無我夢中で自分の唇をキャスケードの血の気の失せたそれに深く重ねていた。
祈りをこめて――――――。
第 五 章 怒りの洪水
青紫の雪嶺を見せて横たわるガダナ山脈。
遠い昔、その大氷河から溶け出す、涸れることのない豊かな水脈を捜し当てた二つの種族がこれを争った。
長い闘争の果てに勝ち取ったのは、後に湧き水の一族と呼ばれるロンダムの始祖を長とする一族だった。
ロンダムは遠い祖先に、三つの大海の果てにあるという竜蛇大陸からの移民を持つと言われていた。古くから伝わる鱗を持った女神の紋章がその証拠である。
ロンダムは水を独占し、決してせむしの一族に与えようとはしなかったばかりか、邑を築いてからも、邑人に厳しい制限を課せた。
日没から夜明けまでは井戸の使用を禁じ、ひとりにつき一日甕一杯と決めた。
また、旅人からは高額の通行税、水の使用税を徴収し、それをほとんどすべてロンダムの収入とし、決して邑人に富裕な者をつくらないようにした。
全ては水をめぐり、再び戦乱を起こさないための策だった。
一方、戦いに敗れたせむしの一族は荒涼とした岩山地帯の地下に湖を見つけ、それを命の糧として住みついた。
だが、湖の水質はガダナ山脈からの湧き水とは比較にならないほど悪く、一族には流行病が絶えなかった。一族の湧き水を求める気持ちは薄らぐどころかいや増すばかりだった。
地下湖には、実は湖底が無く竜蛇大陸とつながっているという伝説があった。
竜蛇大陸からの移民は、この湖から上陸してやってきたという伝説であったし、また満月の夜、竜蛇大陸からやってくるという大竜も、湖から現れドーム型の天井から飛び立ち砂漠の空を回遊しては湖を通って自分の棲みかに帰るのだ、岩盤にぽっかり空いた巨大な天井穴は、そのために空いたのだと言われていた。
ある日、漁に出ていたせむしの一族のひとりがサファイヤブルーの湖面にひらひらと大きな貝が浮いているのを見つけた。
拾い上げてみて男は驚いた。見たこともない球状の美しい白いものが貝肉のひだの内側で眠っていたのだ。
これは伝説に聞く、竜蛇に棲む大竜の涙か卵か、はたまた魂か。
せむし一族の集落は大騒ぎになった。
それが真珠というものだと、そして満月の月光を受けてそれが貝に宿ることを、一族は後になって知った。
それを皮切りにひとつ、またひとつと真珠は発見され、装飾品として売り歩くようになると、一族の貴重な収入源となっていった。
そしてその魔法のような効力に気がついたのは、ポセイディオーンという名の古老だった。
気がついたというより、呼び寄せたというべきか。集落の衆さえしかとは知らない。古老は満月になると姿を消し、湖から現れる大竜と葦のくさむらの陰で話を交わしておるそうな。真珠の不思議な効力―――――――それを飲んだ者は何でも望みが叶う―――――――という効力は何を隠そう竜から授けられたのだ―――――――そんな風聞が流れた。
そうしたある日、湖の水が減り始めた。
それも濁りながら急激に。夥しい数の真珠貝が毎日死んでゆく。このままでは一族の飲み水もなくなってしまう。
古老はわらにもすがる思いで竜に窺いをたてた。それが、一族の魂を時輪皇帝リシュダインに捧げることになろうとは考えてもみずに―――――――。
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湖上がざわめいた。
せむしの衆の身体がいっそう激しいリズムに乗ってゆく。月が狂ったように輝きを増し、ドーム内は真昼の砂漠さながらの目映さだ。
真珠売りの少年が腰紐にはさんでいた横笛を唇にあてがい、透き通った音色が流れ出す。
今や、デスムーン絶頂の瞬間が訪れた。
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舌に乗せたとたん、それは刺すような熱さを発した。瞬時に視界は暗闇と化した。
猛毒をこの真珠は持っているのかもしれないという疑念が頭をかすめた。もとより亡者に身体を明け渡すつもりだ、覚悟はできている。だからキャスケードは懸命にこの強烈な熱さを我慢した。
(亡者よ、早いとここの俺に降りてくれ!ジャレツ、あんたが望むなら亡者にこの身体くれてやってもいいぜ。俺みてえなチンピラが何かの役に立つなら上出来ってもんじゃねえか。今まで俺みてえなのの面倒みながら相棒やっててくれてありがとよ、ジャレツ)
(口ン中が火の海だ。唐辛子とタバスコとマスタードとワサビをしこたまぶっこンだカレーをほおばったみてえだ!舌も歯も溶けちまうかな。ほっぺたに穴が空いてあごが溶け落ちちまうだろうな。鼻の奥から眼の奥を通って、脳天まで突き抜けやがるぜ、この真珠の熱さは!)
(もう駄目だ、熱くて熱くて何も考えられねえ・・・・!)
音を上げかけた時、力強い腕が彼を包み込んだ。と思うと、次には暖かい唇がふわりと彼の唇を覆った。
キャスケードは弱弱しく抗った。
(誰だ、何しやがる。せっかく俺様がジャレツのために―――――――)
くちづけのスペシャリストを自称するキャスケードも形無しだった。重なった唇は真珠から滲み出る熱い毒液を丹念に吸い取ってゆく。
(ジャ、ジャレツ?)
キャスケードは深い闇の中でその匂いに気づいて慌てた。
「急ぐなって!俺はまだキャスだよ、あんたの女房は憑依してねえってば!」
だが、痛いほどの熱さは急激に退いていき、全身が心地よく癒されていく。肢体を支配していた血走った気迫が取り除かれていく。魂が和らいでいく。
ほどなく五感が蕩けた。
(こんなキス、俺にゃできねえや)
男に触れられただけで拒絶反応を起こすはずなのに、ジャレツになら全てを許せる。
(俺が怖いのは死ぬことじゃねえ。あんたに嫌われ、見捨てられるこった・・・・)
限りなく優しい。暖かい。子宮の中でさえこうまで安らげないだろう。
そして懐かしい。少年の頃から、高熱を出すたび、彼の施してくれた癒しの術と同じだ。今まで何度この術に救われ、癒されたことだろう。
同時に思う。今、この瞬間、ジャレツの奥底に燃え滾る魂を掌中にしているのは自分だと。もう、彼の来し方、行く末などどうでもいい。
おそらく過去、彼の全霊を支配していた竜蛇の皇帝や、彼を通りすぎていっただろうあまたの女たち、そして妻――――――――それらを羨望する必要などどこにもありはしない。
(今、あんたの真髄を鷲づかみにして味わってるのは俺なんだ)
(ジャレツ――――――)
―――――――でも、今は!
キャスケードはあまやかな陶酔から心をもぎ離した。
(違うって!あんたが真珠を飲んでどうするんだよ、ジャレツ!)
*************************************
りゅうりゅうと流れていた音色が止む。
真珠売りの少年が横笛を唇から離したのだ。その真珠色の瞳の鏡に、竜蛇の男と若者の姿が映っている。
少年の白い額には、じんわりと苛立ちの汗が浮かんでいた。
相棒に亡き妻を逢わせてやるため、死を覚悟して真珠を飲んだ若者。そうはさせじと懸命に若い相棒を抱擁する竜蛇の男。すべては少年の思惑通りにことが運ばれている。
なのに、この腹立たしさは何だ。
「妬けちまうねえ」
茶化して口走ってはみたものの、もちろん嫉妬などではない。もやもやとした消化不良の苦しさが心の奥底から湧き上がる。
人は、貪婪な欲望を持った生き物だ。それを持たぬ者は人とは言えぬ。
それが、真珠売りポセイディオーンの固定観念だった。だからこそ、人の醜い欲望を利用しそれを叶える真珠を売り歩いた。逆に驚かされるほどの盛況ぶりだった。
富を貪りたい者、名声を得たい者。
病を治したい者、寿命を延ばしたい者。
淫靡な夢に浸りたい者、死者を蘇らせたい者、自虐心を満たしたい者、子宝に恵まれたい者、憎い人間を呪い殺したい者。
眠りたい者、満腹したい者、欲しい、欲しい、望み、願い、・・・したい、したい・・・。
人間の数のいったい何千倍、何万倍の欲望がこの世には満ちていることか。
真珠売りの狙いは的を射すぎていた。
エゴイスティックな生き物め、自らの欲望に飲まれて滅びるがいい。
何度、せせら笑ってやったことだろう。
だが――――――――。
互いのために捨て身になった青年たちを目の当たりにして、真珠売りは嘲笑を浮かべることができない。
何かが違う。決して聖者でも徳の高い僧でもない、薄汚れた野良犬のような野放図な男たちのどこに、こうまで互いを思いやり、自らの命をなげうつ精神が隠されているのか。
今まで自己の欲望のためだけに生きてきた真珠売りには、どうしても判らない。
やたら汗が噴きだし、呼吸が荒くなった。
こんなやっかいな混乱には我慢できない!苛立ちが頂点に達し―――――――、
少年は思い切りつま先で舟の先端を蹴った。身の丈ほども飛びあがり、宙で一回転する。そして、着地ざま――――――――思い切り体重をかける。
ゴンドラ型の舟はシーソーのように波の上に跳ね、派手な水飛沫をあげて転覆した。
ジャレツとキャスケードは共に湖に投げ出された。
「キャス!」
意識のない相棒が離れそうになるのを急いで引き寄せ、ジャレツは湖面に浮き上がった。
腹を見せて波間を漂う舟の先端に、真珠売りの痩身は凛として立っている。
「くっくっく・・・・今だ、真珠ども」
真珠売りの赤い舌がのぞき、唇を一巡した。
それを合図に、ジャレツたちの周囲に浮かぶ真珠貝が狂犬のように獰猛に身体にまとわりついてきた。
無防備な肩や胸、手足、顔面にも容赦なく張りついてくる。泳ぎを妨げられた。呼吸さえままならない。キャスケードの身体にも無数の貝が食いついている。もがけばもがくほど貝は磁石のように次から次へと仲間を呼び寄せる。食肉魚さながらの凶暴さ、貪欲さだ。生贄の脈打つ真っ赤な心臓へ、彼らは舌なめずりして迫ってくる。
黄金の湖面は不吉な水音に満たされた。
見つめる真珠売りの形相が変る。真珠色の瞳の中心に、爬虫類そのものの三日月型の瞳孔が現れ、貴公子然とした可憐な口元が頬へ深く裂ける。
「邪烈・・・・。竜蛇の牙と呼ばれた、余のかつての忠実であったしもべ・・・・。今こそ余を裏切ったことを後悔するがよい。冥界から蘇った妻に抱かれ、無数の真珠貝に全身をむしばまれ、地獄の痛苦の中で死んでゆくがよい。
深遠な呪いの声が少年から発せられた。
ジャレツの苦しげな顔が波間に見え隠れし、キャスケードの赤い髪も浮きつ沈みつし―――――――。
そして―――――――やがて水飛沫は徐々に静まる。もう何ひとつ浮かんではこない。
「おや、お前たち。あの男の血の最後の一滴まで飲み干してしまったのかい?
真珠売りの表情は元の傲慢な少年のものに立ち返っている。
湖面の最後の泡が消えた。ひとかけらの気配すらも泡とともに消え去った。
元通り、無邪気な貝がぱくぱくと群れるばかりだ。
真珠売りが手を叩いた。
「ふっふっふ、さぞ満腹したろうねえ。これでお前たちは万能の力を備えた真珠になれるんだよ。やった、ついにやった、湧き水も真珠も手に入れた、にっくき邑は滅ぼせた、これで地下湖一族の安泰は永遠だ!」
どんどんつくつく、でんでれでんでれ・・・・
岸辺では、せむしの衆が火を焚き、その周りを輪になって踊り始めた。
************************************
「キャス、お願い、目を開けてえ!」
少女がソバカスだらけの顔をくしゃくしゃにして胸の上に被さってきた。意識を取り戻したキャスケードは、ぼんやりと碧い宝石の瞳をしばたたいた。
冷たい泥の上に横たわっているのが判った。水がひた寄せる汀らしいが、周囲は背の高い葦に覆われた窪地だ。
「デニ・・・?」
「よかった、死んだかと思った」
「デニ、ゼ、お前こそ」
キャスの泥まみれの手が少女の背に乗る。
デニーゼの涙がキャスケードの頬に落ちた。
と、その表情が凍りついた。バネが弾けたように身を起こす。
「デニーゼ、俺、男か?」
頓狂に尋ねた。
「な、何言ってンの、キャス。女も羨む美しさだけど、男に決ってんじゃない」
「本当か?本当に女になってねえか?」
「バカ、ほら!」
デニーゼは乱暴に手をつかんで平坦な胸板に持っていった。キャスケードは呆けたように何度も胸をさわり首を傾げる。
「それでもわかんなけりゃ―――――――」
真っ赤になったデニーゼが第二の場所へ彼の手を持っていこうとした時、彼は叫んだ。
「あ、あれからどのくらいたったんだ?俺はなんでこんなところへ。確か、舟の上で真珠を飲んで――――――俺はあいつの女房を宿らせるつもりで――――――なのに、女になってねえ!真珠が効いてねえ!ジャレツ!ジャレツはどうしたんだ!」
立ち上がって葦の向こうの様子を見ようとする。少女は慌てて引きとめた。
「デニーゼ!お前、見てたんだろ。ジャレツは?どうしたんだよ!」
「・・・・・・・・」
「何とか言えよお!」
少女はうなだれて首を振るばかりだ。
「そ、んな・・・・!せっかく俺がこの世で死んだ女房に逢わせてやろうと・・・・。あんたが望むなら、この身体を亡者にくれてやってもいいと思ったのに、人の好意を無にしやがってえ・・・・!」
汀にひざまづき、若者は号泣した。拳で湖面を砕き、天を仰ぎ、世界を呪った。
*********************************
どんどんつくつくでんでれでん!
焚き火をぐるりとして十個の篝火。
月を仰いではひれ伏し拝む者、踊りと歌に興じる者。せむしの一族は勝利と、竜蛇の勇者を人身御供にできた喜びにひたっていた。
転覆した舟を器用にも操って、岸辺に戻ってきたポセイディオーンを迎え、宴はいっそう盛り上がる。真珠売りは満足げに一族を見渡し、軽快な笛を披露し始める。
「我らの舐めた辛酸は報われた!にっくき湧き水のやつらは操り人形となって自らの邑を滅ぼした!あれもこれも、すべては偉大なる時輪皇帝リシュダインさまの御恩恵。我が地下湖の真の支配者、聖なる竜蛇の御心の賜物!皆の衆、時輪皇帝リシュダインさまをあがめたてまつれ!竜蛇の治世に誉れあれ!」
火が、踊る一族の影を岩に映す。
山車が出された。
神楽が舞われた。
夥しい真珠が浜上げされ、その場で連珠にされて奉納された。
どんどんつくつくでんでれでん、どんどん、
真珠酒も振舞われ、一族は有頂天だ。
******************************::::
その様子を、背後の岩陰からそっと窺う鋭い眼がある。
憎しみの焔が碧い瞳の中で爆ぜている。
「このまんま誰がすますかよ。ジャレツの仇をとってやら」
キャスケードは鼻息荒くかたわらのデニーゼに宣言した。
「そんなこと言ったって、武器も何にも無いじゃないの」
「るせえ。あんなガキ、くびり殺すにゃ草の茎一本で充分だぜ」
相当な剣幕だが、デニーゼも食い下がる。
「やめてよ。今度こそ殺されちゃう」
「お前、悔しかねえのか、デニーゼ。あれほど兄貴の仇を取るんだって言ってたじゃねえか。お前の兄貴は真珠売りのガキとルナシルダのもめごとに巻き込まれた犠牲者なんだぜ。お前だってあのガキに辱められて、はらわたの煮えくり返る思いだっただろ。だから、俺が仇を討ってやるってんじゃねえか」
激情を吐くキャスケードに、少女は懸命にかぶりを振った。
「いいの!もういいの、仇なんて。それよりあたいはあんたをこれ以上危険な目にあわせたくないの!」
「デニーゼ・・・・」
いきなり首を抱いてすがりついてきた少女に、キャスケードは少なからず面食らった。
「お願い、もうやめて!」
キャスケードの胸が不協和音を唱えて痛んだ。すがりつかれるなんて、初めての経験だ。無心に慕ってくる少女が哀れで、可愛い。しかし―――――――。
「デニーゼ、許せ。俺、やっぱ、ジャレツの仇とらねえでオトコ名のれねえよ」
キャスケードの眼は地獄の業火の熱さで獲物に戻された。
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「長老様もどうぞ、おひとつ」
若いせむしの男がポセイディオーンに盃を持ってきた。すでに顔面を紅潮させて千鳥足だ。
「おお、リボウスか」
ポセイディオーンは立ったまま注がれる酒を受け、一気に飲み干した。華奢な身体つきに似合わぬ威風堂々とした態度には、少年らしさなど微塵もない。
「おめでとう存じます。最高のデスムーンとなりましたな。これで一族は水に不自由なく暮らせます。虐げる者もいなくなった。これもみんなポセイディオーン様のおかげでございます」
「あれほど反対したお前の言葉とも思えぬな」
ポセイディオーンの目に皮肉っぽく見据えられた若者は、うへえ、と決り悪げに首をひっこめた。
「そ、そいつをおっしゃらねえでくだせえよ。オイラたちに先見の明ってもんがなかったんでさ」
「そうとも、あの時、時輪皇帝リシュダインさまと組みしておかなかったら、今日の勝利はありえなかったのだぞ」
「へへえ」
若者は平伏して下がった。
ポセイディオーンの口元に、歳ふりた者だけが持つ、いやらしい打算的な表情が浮かぶ。
岩陰に腰を下ろし、喜び狂う一族のお祭騒ぎを眺めながら、再び盃を口へ運ぼうとした、その時である。
不意に喉元を締めつけられ、真珠酒が飛沫を散らした。
「ぐううっ」
キツネ色の長い髪が視界の隅に揺らめいた。
「よくもジャレツを沈めてくれたな、この極悪ガキ」
キャスケードが少年の首にまわした葦の茎を力いっぱい締めつけていた。
「俺からあいつを取り上げるやつは許さねえ。てめえも苦しみぬいて地獄に落ちやがれ」
「ふ・・・・」
真珠売りの洩らした微笑は、癇癪持ちの襲撃者の神経を逆なでするに充分だった。
「こいつ、何が可笑しいっ」
真珠売りの細い親指が立てられ、何かを示している。指の先を辿ったキャスケードは舌打ちしてゆっくりと少年を解放した。
岩の向こうに、せむしの男たちによってたかって捕らえられているデニーゼの姿が目にとびこんできたのだ。
「くそおおおっ」
たちまちキャスケードの身体にもせむしたちが酒臭い息を吐きながら群がり、手足の自由を奪った。
「ふん」
真珠売りは銀色の前髪をはらいのけ、キャスケードの胸の高さからあごを突き出して見上げた。
「真珠たちの口には合わなかったとこをみると、見かけによらず不味いらしいね、にいさん。おかげで命拾いできたってわけ?
「ほざけ、魔界の外道ガキ」
キャスケードは呪いをこめて悪態をつく。
「口が悪いとロクな死に方しないよ。冥婚を叶える真珠さえ無駄にしてしまってもったいないったらありゃしない。まあ、僕にはどうでもいいことだけどさ」
「ジャレツを返せ!俺の大事な相棒を。世界中どこを捜しても他にゃいねえ俺の、かけがえねえ師匠、兄貴分、俺の手綱の持ち主を返しやがれ――――――!」
野生のオオカミ顔負けに暴れるが、鈴なりにぶら下がるせむしどもの呪縛は鋼鉄なみだ。
「ちょうど良かった、竜の牙を捧げた後のデザートとしてふたりとも奉納しよう。湖の主、聖竜も若い人間なら少しくらい不味くても喜んでくださるだろう」
「勝手にきめるんじゃねえええ!うぐっ」
ついに猿ぐつわをされた。
数十人ものせむしの老若男女によって、キャスケードとデニーゼは船着場へ運ばれる。
待っていたのは、祭り船だった。一族の奇異な形、原色の飾りがけばけばしく着けられ湖への奉納を待ち構えている。
ふたりは抵抗虚しく帆柱へ縛りつけられた。
どんつくどんつく、でれでれどんつく!
囃子に加えひときわドラがけたたましく鳴り渡り、もやい綱が解かれる。いよいよ出航だ。
満足げにその様子を見守っていた真珠売りの顔がふと翳りを帯びた。
嗜虐に酔っていた目が少しずつ険しくなり、薄笑いを浮かべていた唇が真一文字に引き結ばれる。
「長老様・・・・?」
側にいた一族の男が怪訝に覗きこむ。
異変は、その瞬間、他の者にも判った。
「水が!」
「長老様、水が増えて・・・・」
「これじゃあ増えすぎです、わしらの集落まで水がついてしまいますぞ」
一族はいちどきに酔いをどこへやら飛ばし、口々に叫んだ。
水位が増していた。
はるか砂漠の湧出源からあふれた水は、涸れかけた地下湖の水を補うばかりか、度を越して増水し続けているらしい。
真珠売りの額に冷や汗が浮かぶ。
「こんな、こんなはずは」
しかし、目に見えて水は嵩を増してゆく。すでに先ほどまで水面の上にあった船着場の板場は水の中に没し、人々はくるぶしまで水に侵されている。ほどなくふくらはぎにまで達しそうだ。
湖面を覆うように無数に浮かぶ真珠貝も、心なしか動揺しているようだ。
「落ち着くがよい、真珠貝ども。竜蛇の男を食らったではないか。お前たちは不死身だ」
横笛を取り出して貝のざわめきを鎮めようとした真珠売りは、頭上に目をやり、凍りついた。手が震え、足元の水に笛が落ちた。
「長老様、月が!月が!」
一族の指差す頭上の月は高山に咲く青芥子のような、さえざえとした蒼だったのだ。
「蒼い・・・・月・・・・」
不吉な色だ。吉兆とは思えない。
身体中の細胞がそれを感じ取って収縮いるのがわかった。水はひた寄せる。
湖面に風が起こった。
篝火が吹き消され、地下湖の周辺は青灰色に沈んだ。
増水する湖面を呼び、扇動するように、風はますます荒れ狂い、真珠貝さえ宙にひらひらと飛び散らした。
「皆の衆、岩場へ上がれ!」
真珠売りの緊迫した指図に弾かれたように、一族は蟹のような背中を転がして、我先にと少しでも高い場所へと逃げ始める。
キャスケードとデニーゼの戒めが緩んだ。逃げ惑う小人に突き倒されそうになる少女を、キャスケードは間一髪ささえる。
「あ、あれは!」
少女が震えながら、若者の懐から叫んだ。
退却を始めていた真珠売りも電撃に撃たれたかのように足を踏ん張り、沖を見つめた。
湖面が異常に盛り上がり、渦が起こったことがわかった。渦は急激に水のすり鉢を作り出す。
青い渦の底に、人間が見えた。
まるで地を踏むようにしっかりと仁王立ちだ。肩幅の素晴らしい、浅黒い膚もあらわな厚い胸板と逞しい脚。
「ジャレツ―――――――?」
口走ったものの、キャスケードは確信が持てない。
顔立ちや髪の色はジャレツだがどこか違う。
突如、激しい水音をも上回る轟音が起こった。目映い光の帯が渦の底から発せられ、岩場へ叩きつけられていた。
後には光が静まり、少年の銀色の残像が残される。
渦の底から男の銃が火を噴いたのだった。キャスケードはそれに見覚えがあった。
「あれはジャレツの銃―――――――?」
とすると、湖底から銃を発した男はやはりジャレツ。―――――――?
男はこちらへ歩いてくる。不気味にも水の表面を歩んでくるのを見たキャスケードとデニーゼは背にぞっとするものを感じ、いっそう身を寄せ合った。
水際までやってきた男の目はアクアマリンの透けたブルーで、明らかに面立ちはジャレツには無い高貴さを湛えている。
<我はアルノワ・ロンダム。黄泉の国より、デスムーンの今夜、真珠の力を借り竜蛇の男の肉体に降霊した>
言うなり、足元の水へ乱暴に銃を投げ捨てた。キャスケードは恐る恐るそれを拾い上げた。相棒の愛用銃に間違いない。
「アルノワ・ロンダムだって?なんでジャレツの女房じゃねえんだ?」
酸素不足の熱帯魚みたいに幾度か口をぱくつかせてから、やっと声を絞り出した。
だがロンダムは何も答えず、穏やかな視線を若者たちに落としただけだった。
次の瞬間、岩場にそれを転じた時には険しい色となっている。
<ポセイディオーンの息の根を止めるために――――――な>
少年は海草のように岩場に張りついて、尚も生きていた。
キャスケードとデニーゼは、思わず恐怖にごくりと喉を鳴らした。
少年の焼け焦げた背中に異様なこぶの連なりが見える。爬虫類の鱗に覆われた金色の瘤だ。それは生き物のようにうごめき、背中の皮膚を突き破るように成長しようとしていた。
「ロンダムの死にぞこないめが・・・・」
真珠色の瞳は反抗の色を失ってはいない。
そればかりか、血生臭い三日月型の瞳孔がまたも脈打ちはじめる。
「竜蛇からの移民の末裔でありながら、時輪皇帝リシュダイン様にまつろわず、湧き水を欲しいがままにしたやつばらめが」
<お前こそ、湧き水欲しさに罪も無き人々を呪われた真珠の毒牙にかけた罪、思い知るがよい!>
湧き水をめぐり、千年の長きに渡り敵対してきた両者の間に火花が散らされた。
水は増水を続けていた。
キャスケードとデニーゼの手を引いて高い岩場へと逃れ始めた。ふたりは振り返りつつ目撃した。
ロンダムの神々しいばかりの腕が中天を指して鋭く持ち上げられ、同時に真珠売りが牙を剥き出して鱗の浮き出た身体をくねらせたのを―――――――!
水の柱が生えた。ドリル状に渦巻きながら、ドームの天井から見下ろす月めがけて、何本もの柱がロンダムを取り巻いて生えてゆく。
無数の真珠貝が木の葉のように渦に翻弄され、流れに散らされる。阿鼻叫喚と共に、せむしの一族が流されてゆく。
氷河色の水の柱に混じって、黄金色の鱗の身体がよじれては、中心に立つロンダムに撒きつこうとしていた。
キャスケードはデニーゼの小さな身体を引きずるようにして、岩を登った。無我夢中で何も考えられなかった。水のあぎとから逃れることだけが頭の中を駆け巡る。
デニーゼの小さな手が氷のように冷たい。
彼女の苦しげな呼吸づかいが自分のそれと重なり合って、鼓膜に反響した。
水の柱はついには地上へ噴出し、砂漠へあふれ出た。邪悪な蹂躙者となって竜の背のようにのたうち暴れまわりつつ、渇ききった砂だけの世界を奔り、塗りつぶしてゆく。
轟音が逆巻き、碧い月だけがこの大地の恐慌を冷たい視線で見下ろしていた。
********************************
唐突に静寂が訪れた。
少なくとも、キャスケードにはそう思えた。
気がつくと、海を眺めていた。
猛獣の咆哮を思わせた天変地異が嘘のように鎮まり、氷河色の大海原がのっぺりと広がっていた。空には夜明けの気配がある。さえざえと碧かった月はやわらかい蜂蜜色となって傾き、水平線近くに金の粉を振り落としている。
ここが、ほんの先ほどまで砂漠だったと、全能の神でさえ信じはすまい。
見回すと三百六十度の海。
岩山の頂上だったところが岩礁さながら点在しているだけだ。
キャスケードの立っているのは、そうしたほんのちっぽけな岩場のひとつだった。
その上に、彼とデニーゼ、そしてほんのひとにぎりのせむしどもが呆然と取り残されていた。
果たしてあの激しい戦いは終わったのか?どちらが勝ち残ったのか――――――。
「キャス・・・・」
デニーゼが背後から声をかけ、キャスケードは自分の手にジャレツの銃が握り締められていることを知った。
「ジャレツ・・・・・。どこいっちまったんだ、ジャレツ――――――――――!」
若者は身をふたつに折って吠えた。
絶叫は水の上に虚しく拡散した。
背後で、せむし一族の母子がすすり泣く声が聞こえた。わずか数人の彼らは膝を抱いてしゃがみこんでいた。
「キャス!」
デニーゼが緊迫した声で告げた。
急いで振り返ったキャスケードの目に、小さな舟が一そう浮かんでいるのが映った。
舟は淡い月の光を受けて、生まれたばかりの海に頼りなげに漂っている。
そこに立つ人影がふたつ。
「ジャレツ・・・・!」
そしてもうひとりは――――――。
幻のようなアメジスト色の身体は、ルナシルダに違いない。
ルナシルダが冥界から夫、アルノワ・ロンダムを迎えにきたのだ。つまり、ジャレツの肉体に宿った夫を。
ふたりは遠目にも燃えるような視線を絡ませ、水平線へ漕ぎ出そうとしているではないか。
「キャス、ジャレツが連れていかれちゃう」
「わかってら、わかってるけど、どうやって引き止めりゃいいんだ、くそ」
湿った髪をかきむしっても焦るばかりだ。
デニーゼはとっさに固く閉ざしていた左の拳を見下ろした。ジャレツと一緒に地下水道を歩いていた時から握りしめていた左手だ。
冬を越した蕾の開花のように震えながら開くと、手のひらに大きな真円真珠が現れた。キャスケードの手切れ金と引き換えに、真珠売りから買った媚薬の真珠だ。
「もしかして」
少女の心に閃光が射した。
キャスケードに告げようとした、刹那。
視界の隅に、何かが起き上がるのが見えた。岩陰から、真珠売りポセイディオーンが笛を口にあてがい、キャスケードを狙っている。それが武器だと、少女の直感が叫んだ。
「危ないっ!」
少女の身体に突然体当たりされ、キャスケードは危うく海に落ちかけた。
「デニーゼ?」
くず折れた少女の背中に真珠針が刺さっている。キャスケードの瞳に激情が燃え上がった。本能に任せてジャレツの銃を構え、真珠売りを狙い撃つ。
なんという帯状の光の蛇。発砲音が水の上をこだまし、少年は岩礁に沈んだ。キャスケード自身、その威力に腰を抜かした。
「おのれ、白鳳の若者を真珠針の毒で、道連れにしてやろうと思うたものを」
すでに精力を使い果たした真珠売りは鱗の浮き出た全身を喘がせ、瀕死の状態だった。懸命に水の上へ目をやる。
一対の男女を乗せて、舟はすべり行こうとしている。
「ロンダムの幽霊であろうと、竜蛇の男であろうと許すものか。私からルナシルダを奪い去って行く者。憎んでも憎みきれない者」
呪詛を吐き散らしながら、少年の真珠色の瞳は輝きをなくした。
たちまち少年の長い手足は縮み、細い身体はずんぐりと石を背負ったように盛り上がり、顔は皺が刻まれて醜く老いてゆく。
「真珠売りはあのせむしの爺さんだったのか」
キャスケードは息を飲んだ。
わずかばかりの一族が長老に取りすがって泣き崩れる。しかし、キャスケードに対し仇を討とうとするような気力が残っている者は誰も無かった。
「デニーゼ、しっかりしな!」
我に返ったキャスケードは土気色の顔になってゆく少女を支え起こした。すぐに真珠針を抜こうとしたが、弱弱しい手が引き止めた。
「駄目。毒に触れたらあんたまで」
ソバカスだらけのあどけない顔が哀しげに微笑む。
「だからってこのまま見てろってのかよ」
「いいんだ、きっと兄ちゃんも水に流されて、悲しむ人なんかいないもん、あたいには」
「何言いやがる、俺が泣くぞ!」
キャスケードは精一杯怒鳴った。

「ありがと。優しいね、キャス。短い間だったけど、あんたと旅籠の屋根裏部屋に暮らして一緒に働けて、楽しかったよ・・・・・。キスの一回もしてくれなかったのは残念だったけどね・・・・」
少女は力なく咳き込み、どす黒い血を吐いた。キャスケードは慌てて自分の袖でぬぐってやった。成す術を知らぬ自分がもどかしい。
「お別れだね、キャス」
「バッカヤロ。お前、こんなペタンコ胸のまま死んじまうつもりかよ。俺が感服つかまつるぐれえのグラマー女になるんじゃなかったのかよ、だらしねえぞ!」
少女はかすかに首を振り、左手を持ち上げた。
「これ・・・・」
血の滲んだてのひらに、燦然と輝く真珠。
「こいつぁ?」
「媚薬の真珠。これを使えばきっとジャレツの魂が帰ってくるよ」
「こんなもんであいつを奪い返せるのか」
キャスケードは胡散臭げに真珠を眺め回しながら鼻面をしかめた。
「できるわ。彼の心臓にその真珠を撃ち込むことができれば。そしてあなたの強い思いがあればね――――――――」
なんと自信に満ちた言葉だろう。
度肝を抜かれて少女の面を見たその瞬間、キャスケードの知らぬ女の面差しが見上げていた。緑色のまぶたと耳たぶが鮮烈な、見たこともない神秘的な人種の女。
「デニーゼ?」
思わず目をこすって見直すと、もう、元のか弱いデニーゼの貌だ。
「早く・・・・。ジャレツが行ってしまうよ」
舟影は水平線向けて刻々と遠ざかってゆく。
(あいつの心臓に撃ち込むだってえ?)
キャスケードは岩の上に捨て置かれたジャレツの銃に目を走らせた。たしか銃身が自在に伸びるはずだ。
「ええい、ままよ」
キャスケードは銃をつかむや、岩の上に腹ばいになった。
ジャレツを狙い撃つなんて、考えてみたこともない。それも、真珠を弾丸代わりになど、本当にできるのだろうか。
――――――――――あなたの強い思いがあれば。
あの言葉を信じるしかない。
ジャレツの来し方も行く末も、思いも霧の彼方のままだ。だが、彼を慕い、思う心は誰にも負けない。
(あんたは俺のしっぽを握ってるんだからな、ジャレツ。このまま行かせてたまるかよ)
キャスケードのアイスブルーの瞳がじっくりと標的に絞られた。
懐かしく逞しい胸の上半身がスコープの向こうに映る。
キャスケードは引き金にかけた指に、静かに力を込めた。
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胸の奥で何かが炸裂した。その熱が封じられていたジャレツの魂を解き放った。
重苦しく心の上にのしかかっていた、亡者のおもりがとりはらわれた。
目の前にかかっていた乳白色のヴェールが突如として晴れた。塞がれていた耳が、いきいきとこの世の雑音を集め始めた。
ようやくジャレツは舟の上に立ち尽くしている自分に気づいた。
最初に見たのはアメジスト色のルナシルダの霊体が吹き飛ばされる瞬間だ。悲痛な声の尾をひき、彼女の哀しげな顔は月の彼方へと飛び去った。
「俺は―――――――」
辺りは一面の水だ。
空は紫色に輝き、月が水平線からの曙光に色褪せてゆこうとしていた。デスムーンの終焉だ。舟縁を洗う波の音が何と平和なことか。
ジャレツは悟った。
亡きロンダムの魂が己が身を去ったことを。
同時に、とりあえずは竜蛇からの脅威が去ったことを。
竜蛇民族の血を祖先に持つ、ロンダム家と地下湖一族の湧き水をめぐる闘いの、かくも浅ましかったことか。
時輪皇帝リシュダインのてのひらで弄ばされていたふたつの民族が哀れでならなかった。
それらが全て、自分を地獄に突き落とすための周到な罠だったと思うと、ぞっとせずにいられない。
己が身など、皇帝のうろこの一片にすぎない。皇帝がその拳で握りつぶせばあっけなく消えゆく存在にすぎない。追跡はこの先も続いてゆくことだろう。ジャレツの命尽きる日まで。
(それでも俺は生きていく)
妻を手にかけた時、とっくに決めた覚悟だ。それが皇帝を裏切った自分の証明なのだから――――――――。
風が耳元をなぶってゆく。
風の唸りに混じって聞こえるかすかな声。
(あれは―――――――)
ジャレツは目を凝らした。
波頭の果ての岩礁に、ちっぽけな人影が見える。キャスケードだ!
彼こそ、ジャレツの生き様の道しるべではないか。
「おーい!」
ジャレツは力強く手を振ると、艪を拾い上げてこぎ始めた。
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民衆の逞しさというのは雑草のそれだ。
踏まれても踏まれても、頭をもたげて太陽を求め、生きてゆこうとする。
かつての湧き水の邑の人々が、正にそうだ。
暴徒の放った猛火と、押し寄せた洪水を経てなお生き残った人々は不屈の精神で生活を立て直そうとしている。
海を思わせる大河は砂漠の上に出現して、そのまま退く気配がなかった。人々はこの逆境を利用する方法を思いついた。
即席の渡し舟がたくさん造られ、日に何度も山盛りの旅人を乗せては船着場から出てゆき、また別の舟が旅人を運んでくる。
旅人目当ての屋台や酒場、荷役人夫が開業しはじめ、邑は湧き水の邑時代よりも盛況のようだ。
モイザさえ暴虐と洪水の中をしぶとく生きのびた。抜け目なく路頭を彷徨う女をかき集めて仕事をさせ、自分は舟着き場裏のバラックで流木の即席カウンターの上に酒瓶を並べているという具合だ。
湧き水の邑として栄えた場所は、大洪水から三十日もたたぬうちに、人々の恰好の港町として生まれ変ったのだった。
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「に・ん・ぎょ・の・お・ひ・げ」
防波堤の煉瓦を飛び跳ねながら数えてゆく。
キツネのしっぽそっくりの髪の束をぽんと投げてこちらをふりむき、大声でジャンケンを催促してくる。
ジャレツは船着場の木杭に腰を下ろして煙草をふかせながら、かったるそうに相棒の相手をしてやっていた。
「ジャンケン―――――ポン!まった俺の勝ちい!あんたどうして腕っぷしはたつのに、ジャンケンはからきしなのさ?ジャレツ。そこからまだ一歩も動いてねえじゃねえか」
キャスケードの辛らつな言葉を受けたジャレツは苦虫をかみつぶしたような顔になって吸殻を落とし、ブーツで踏み消した。
目の前に広がる海さながらの大河を眺める。
水平線の果てに、ガダナ山脈の蒼い雪嶺が美しい。
何もかも夢のようだ。
しかし、現実に砂漠は大変貌を遂げ、邑長の館は跡形もなく水底に沈み、ルナシルダもオルビン老人も、衛士たちも、そして――――――デニーゼもいない。
彼女が死んでしまった時のキャスケードの哀しみようといったら、身体中の水分を涙にして流してしまいそうなほどだった。
(俺のせいだ、俺をかばって死んじまったんだ。蘇生の真珠はどこかにねえか!あんなにたくさんあった真珠が、肝心な時に一個も残ってねえのか!ひとつ残らず水の底に沈んじまったのかよ!ばかやろ、真珠売りのばかやろ、ルナシルダのばかやろ、真珠を飲んじまった邑の連中のばっかやろ――――――!)
岩礁の上で、冷たくなってゆく小さなむくろを抱きしめいつまでも泣いていた。
ジャレツは防波堤の上をジャンケンしながら戻ってくる相棒に目を転じた。長い手足で絶妙にバランスをとりながら道化師になりきっている。陽気にふるまってはいるが、心の傷は深いに違いない。小さな少女の死が、彼に変革をもたらしたことをジャレツは気づいている。
「げ・た・ば・き・の・あ・ざ・ら・し・さ・ん」
ジャレツは立ち上がった。
そしてここしばらく胸の奥にわだかまっていた疑問をやっと口にした。
「キャス。デニーゼが死に際に言い残した言葉だがな」
一隻のみあるポンポン蒸気が、派手な音と飛沫を散らして若者のキツネ髪の背後を滑っていった。
「ジャンケン――――――――え?」
傷口に触れる唐突な質問に、若者のアクアマリンの瞳がかすかに翳った。
「あんたに真珠を撃ち込めってこと?」
「ああ、どうしてあの娘にそんなことがわかったんだろう」
「一瞬――――――あの娘の顔が変わって、その女が言ったんだ。緑色の耳たぶをしてた」
「緑色の―――――――?」
ジャレツの黒曜石の瞳が険しく尖り、それから、相棒の視線を拒んで大河へ向けられた。
キャスケードはその横顔をじっと見つめた。
(ひょっとして)
(ひょっとして、あの女、ジャレツの女房がデニーゼに降霊したのだったりして)
(だとしたら、ジャレツを守るために力を貸してくれたのかな)
(てことは―――――――負けだな、俺の)
彼は悪夢の余韻をふりはらった。
(ま、いっか)
大切な相棒は無事に戻ってきた。それに、死に急ぐつもりなんかなさそうだ。これが、デニーゼが自分の命を引き換えにくれた確かなものだ。大切にしなきゃ、デニーゼがうかばれない。キャスケードは思い切り伸びをして、ジャンケンを再開した。
「あ、また俺の勝ち――――――だ!」
度重なる連敗に、ジャレツは相手を睨みつけて唸った。
「キャス、これだけは肝に命じておけ。絶対に一攫千金なんか夢見るな。それと、――――――二度と俺にキスなんかさせる事態なんか招くな」
怒涛の記憶が押し寄せた。
キャスケードは眩暈をこらえながら、防波堤の切れ目まで来ると、
「こっちこそ二度と野郎となんか願い下げだい!か・わ・う・そ・の・な・が・で・ん・わ――――――――と!よし、決いめた!」
ぴょん、と相棒のかたわらに飛び降りるなり、目を輝かせて振り返った。
**********************************
「そうかい、行っちまったのかい、あのにいさん」
その夜、とばりが降りてから、モイザのバラックに、ひとりで竜の吐息の酒を味わうジャレツの姿があった。
舟を待つ旅人が数人飲んでいたが、彼らが引き上げてしまうと店の空気は沈殿した。
モイザはやや酩酊した目でカウンター越しにジャレツを見据えた。
「ずいぶん勇気をだしたんだねえ、あんたと別れて一人旅をしてみたいだなんて。この前はあんたに捨てられて大荒れだったのにさ」
「少しばかり、あいつも成長したってことだろうな」
ジャレツの苦笑いが竜の吐息の匂いに混じって溶けた。
「でもいつか帰ってくるよ、賭けてもいい」
「どうかな。琥珀回廊へ向かうと言ってた」
「入る?落ちる?」
モイザの赤い爪がぴん、と何かを弾いた。
カウンターの上を真珠が飛び越えジャレツの持つグラスの中に入った。
「ほうらね、帰ってくる。きっと」
「これは?」
「安心して。ただの、酒の美味を引き出す真珠さ。ふふ、あんたの方が寂しそうだねえ」
モイザがギンのショールをずらしながら、豊満な胸をカウンターに押しつけた。
「よかったら今夜、寂しさを埋めてあげようか?」
ジャレツはカラになったグラスと小銭を、木肌むき出しのカウンターの上に置いた。
そして、宿木の足元に置いてあった皮袋を背負った。旅支度だ。
「また今度にしとこう。今日はアナリディカの命日でな。命日だけは、独りで夜明かしすることに決めている。昔から」
黒いジャケットの背中を向けた。

「ジャレツ」
モイザのねっとりとした声が追ってきた。
「余計な差し出口だけど、あの娘があんたを愛してたことだけは真実だったよ」
ブーツを鳴らして戸口へ向かいながら、男は右手を軽く上げて応えた。
バラックを出て仰ぐと、西の空に魔女の胸飾りの深遠な紫の残照が見られ、宵の明星が輝いていた。そして細い、輪郭だけの月が。
デスムーンは過去へと押しやられたが、月は永遠に輪廻を繰り返す。
再び日ごとに肥え太ってゆく。
あれほど辛酸を舐めた人々であれ、目の前に望みを叶える真珠を差し出す者がいれば、また醜く奪いあうことだろう。
それゆえ、真珠売りはいつの世も現れ得るのだ。人々の欲望の無くならないかぎり――――――。
**************************************
「にいさん、何の望みを叶えようか」

耳元でそう囁かれたような気がして、キャスケードは満杯の相乗り舟の上で飛び起きた。
単調な波音を聞くうちに、舟縁にもたれて居眠りしていたらしい。向かいに座っていた麻縄のようなぼうぼう髪の婆さんが、皺に囲まれた目をぎらつかせて睨んだ。
「人の心ひとつ手に入れられねえくせして、大きな口たたくんじゃねえって、坊や」
キャスケードはそっと毒づいた。
ジャレツへの思いはあまりにも熱すぎた。火傷する前に、離れて冷やそうと決心した。
いっそ、その方が彼の来し方、行く末、真の想いも見えてくるかもしれない。そして自らの道もまた。
いつまでも甘ちゃんのキャスじゃないぞ。
(そんときゃどんな敵が来たってあんたを守ってみせるからな、ジャレツ)
船頭の影が、艪に力をこめた。
キャスケードは舟の行く手に広がる濃紺色の茫洋とした水の荒野を見つめた。
か細い風の音が、真珠売りの少年の竪琴を思わせる。
一人旅は始まったばかりだった。
「真珠はいらないかい?
どんな願い外ごとでも叶える真珠
文無しでもかまやしない
あんたの魂とひきかえさ・・・・」
月夜の真珠売り 完

あとがき
思いがけず、彼らと再会できました。
ジャレツとキャスケードのふたり組み。ほぼ二年前、全身全霊をぶつけた「CROSS」以来です。それも、真珠をモチーフにした作品で再会できるとは、夢にも思ってみませんでした。いえ、そもそも彼らと再会できるとは思ってなかったし、そのつもりもなかったのです。「CROSS」の完結の仕方を踏まえれば。
(だってあれのラストではジャレツは爆死、キャスケードは人格崩壊、だったもんね)
―――――――で、あの後を書くのはあまりにも無理があるし、「CROSS」も興ざめしちゃうので、彼らの過去に話をさかのぼったわけです。
「CROSS」当時の彼らの年齢はジャレツ、三十二、三歳、キャスケード二十二、三歳。
今回はその五年ほど前ということになっています。
この二つは同じシリーズ、同じ世界の物事ではありますが全く趣が異なる話です。
「CROSS」はアダルト向き、この「月夜・・・」はヤングアダルト向きだし。
悪たれで甘えん坊で女癖が悪くて・・・今回は(も?)キャスがメインでした。
この「月夜の真珠売り」はキャスの心の成長物語でもあります。
冒頭、安易に一攫千金にあこがれたり、持ち金すべて賭博でスッたりしている未完成なキャスが真珠売りの甘い言葉に惑わされそうになりながら、果たしてジャレツを守り、逞しくなってゆけるかどうか。弱者の痛みを感じられる人間になれるかどうか。というところ。
これまた思いがけず、ジャレツの竜蛇時代の話が出てきたので、「CROSS」では、はっきりとしたイメージでしか出さなかったので、なんだか咀嚼できていない食べ物みたいな後味の悪さもありますが、わざとそうした面もあります。なんといっても湧き水の邑と、竜蛇大陸は遠いのです。そう簡単に竜蛇皇帝の実態はつかめません。
そしてそれはまた、次の機会に書くべきだと判断したためもあります。この話の後か、それともジャレツの竜蛇時代まで時間をさかのぼるかは定かではありませんが、時の輪を繰り返して何回もの人生を生きる皇帝を書くのを、今から楽しみにしています。
余談☆
☆ジャレツってひょっとしてえ・・・・ロリちゃんのケがあるのでは?と思ってしまった作者。必要以上にデニーゼに触っていたような気が・・・・アブナイアブナイ☆
☆ ついに来てしまったという感があるふたりのキスシーンでした。
でも、これを狙ってこの話を書いたわけではありません。突発事故です(?)
この後、キャスケードのキスの味がいっそう上がったことは言うまでもありません。
総じて楽しめて、美味しい美味しい作品でした。
海道 遠