「ゆず姫、もず姫」


 山の村の古老の言う。
 「そりゃあ、紅葉の頃、鵙ヶ沼のおもてに映る金糸銀糸織り混ぜたさまに勝るものなどちっとやそっとじゃお目にかかれますまい。
 時の御領主の御台所、もず姫さまのあでやかさを別にすれば―――――の話じゃが。
 そら、ちょうど今の伯爵様の奥方、百舌絵さまのような気高いお美しさじゃったろうということじゃ。
 それほどの奥方さまをお持ちになりながら、男の業とでも言いましょうか、ご領主はある年、うら若いご側室をお迎えになったのじゃった。名をゆず姫と申されたそうな。それが悲劇の始まりであるとも露知らず。
 今となっては遠い遠い昔の伝説じゃがのう」

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私は柚子香。
十日前まで牛島家の女中部屋に厄介になっている身だった。朝、暗いうちから夜遅くまで働き続ける―――――それが物心ついて以来の私の日課だった。
数人の女中のうち、年季奉公ではなく幼い頃から育ててもらう見返りに働かされているのは私だけだ。私は十数年前、行き倒れの女が連れていたどこの子とも知れぬ幼子だったのだ。女は―――――母親は衰弱しきっており、ほどなく息を引き取ったという。私はそのまま女中部屋に入れられ下働きとしてまだ小さい手にあかぎれを作って毎日を送ることになった。
 牛島の家は土地成金と言われる新興の家で、決して格式ばった家柄ではなかったが家人は冷たい心を持った人たちばかりだった。
 主の牛島平造は貧しい生まれだったらしくその反動か上昇志向が強く、お金儲けにしか関心が無いようだった。高利貸しをはじめ、いつも数種の事業を抱えているということだった。
 若い頃、遊郭にいたという噂の牛島夫人は財力にモノを言わせてこの地方の上流社会に堅固な地位を築きつつあったが知性の低さや品の悪さは隠しおおせるものではなく、一部の上流夫人の間では悪評が広がっていた。ぶくぶく超え太った身体に、年齢に似合わぬ派手な着物をまとい、脂ぎった肌に厚ぼったい白粉と紅を塗りたくる趣味には本人以外の誰もが眉をひそめていた。
 彼女の使用人に対する慈悲の無さも又、無類のものであった。酷使と体罰に耐え切れず逃げ出した使用人は数知れず。私もいつかは・・・・・と思いながら歯をくいしばって耐えていたのは裏山の無縁墓地にひっそりと眠る母を残していくのが気がかりだったからに他ならない。ろくに記憶も無い母の面影だが私の心のよりどころといえばそれしかなかった。
 私は誰の子なのかどこの生まれなのか、母は何処の人で何故幼い私の手を引いて放浪していたのか、今となっては知るすべも無い。
 母の遺してくれたものは「柚子香」という名前だけなのだ。
 牛島家には息子がひとりとその妹たちがふたりあった。この、私と同年輩のふたり姉妹は母親に輪をかけて血も涙も娘たちもない娘たちで、底意地の悪さとわがままさは並みのものではなかった。
 幼い頃から小柄な私は彼女たちの彼女たちの手ごろな標的であり、ヒステリーの発作を鎮めるはけ口だったらしい。
 井戸の水汲みに忙しい私の背後から
 「ぐずのおゆず、おゆずのぐず、
  ぐずぐずしてたら日が暮れる
  ほら カワズもぐずぐず鳴きだした」
 などとからかうのはまだまだ可愛い方で、洗濯物の入った桶をわざと地面に倒したり、客間に泥をつけたのを私の仕業だと告げ口したり、その苛めの性悪さといったら思い出しても背筋が寒くなる。
 また、そこへ母親は彼女たちを猫可愛がりし、その言い分を疑おうともしない。
 「お母様、おゆずが・・・・」
 そう言って娘たちが母親のもとへ駆けつけるたび、私の手の甲にはものさしで打たれる赤いミミズばれができることになっていた。
 私は耐えた。十歳を越えてからはどんな体罰にも絶対涙ひとつ流すまいと心に決め、それを通した。身に体罰のアトが増えるごとに牛島家の人々を軽蔑する思いはつのり、
(屈服できない、こんな人たちには・・・・)
その執念だけが毎日をささえていた。
――――――が、それを揺るがす悪夢のような出来事が起こってしまった。
  つい半年前のことだ。私はその春、十六歳になっていた。ふだん、東京の大学に通っている一人息子の進太郎が帰郷してきていた。
 この進太郎も両親と妹たちに負けず劣らずの人種で、私の小さな行李にゲジゲジやヘビを入れておくようないやがらせをよくしていたが、東京の中学に入れられてからというもの年に数回しか帰らなかったのでほっとしていたところだった。
 その日、私は蔵の中の探し物を命じられて昼なお暗い空間でクモの巣にまみれながら奮闘していた。
 ふと背後で扉の閉まる音がした時には遅かった。いきなり足元の踏み台をもぎ取られた私はカビ臭い床に投げ出され、後頭部をしたたか打ってしまった。轟音とともに、闇がおしよせてき、気がついた時には進太郎の小ずるそうな顔が間近にあった。そのとたん、かれの意図が私の頭の中に流れこんだ。叫ぼうとしたが声が出なかった。
 「ふん、助けを呼んだところで誰も来やしないぜ。俺はこの家ン中じゃ何好きなことやってもいいんだ」
 進太郎の生臭い息が頬にかかった。
 「前からいっぺん、お前の白い肌を上から下までおがんでみたかったのさ。―――――おや」
 胸元を乱暴にこじあけた進太郎の眼が一点に吸い寄せられるのがわかった。瞬間、私は反射的に渾身の力で男の身体をつきのけ、逃れようとした。
 が、虚しい抵抗だった。平手打ちが容赦なく飛んできて、また仰向けに押さえつけられた。前髪を鷲づかみにされ身動きできない。
 「シミひとつ無いと踏んでたのに、まあ、これも一興か。かえって艶っぽいかもな」
 ニヤリと口を歪めるなり、野猿のような凶暴さで進太郎は私を蹂躙した。

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 解放されるなり私は裏山の墓地へと走った。
 母の墓標を前に涙の枯れ果てるまで泣いた。その時ばかりは母の側へ行きたいと思った。
 だが・・・・泣いて泣いてようやく冷静になった時、あんな男のために命を絶ってたまるものか、私は母の分まで生きる。決して母のような一生を送らない!・・・・その思いが一点の炎となって胸の奥に灯った。
 私は屋敷へ戻った。
 それからは二度とひとりになるようなスキはつくらなかった。しかし、ひとつ屋根の中のこと、女中仲間はたちまち嗅ぎつけて私に軽蔑と羨望の入り混じった眼を向けてきた。
 誰ひとり、心を通わす会話を交わす人間は私にはいなかった。

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 夏が行こうとしていた。
 蜩が鳴き、雑木の葉裏にも秋の気配が感じられるようになった。
 気だるい退屈な空気に取り巻かれていた屋敷はその日、急に活気づいた。なんでも、この地方の、いや日本でも指折りの実業家が牛島の招きにより、上京の途中この屋敷に立ち寄ることになったらしかった。
 主の平造は興奮して細君に指図しまくり、彼女はその命令をそのまま子どもたちや使用人にまき散らした。
 二人姉妹はというと、半狂乱で女中にわめき散らしながら身支度に取りかかった。
 「どうしよう、お姉さま!話しかけられたらちゃんとお返事できるかしら」
 妹の蒼美がうろたえるのへ、姉の紅子はフフン、と鼻で笑い、
 「あんたみたいな子ども、相手にされるもんですか。東京の社交界でいつも一流の淑女に囲まれてらっしゃる方よ」
 「そうねえ。樹之宮財閥の御曹司といえばお若いながら、実業界でも一目置かれているってお父様がおっしゃってたわ」
 「とても、とても日本男児らしいご立派な方で、それでいてお顔は西洋の人のように整ってらっしゃるんですって。なんせ、旧藩主の末裔でいらっしゃるんだもの」
 噂話に余念がない。
 思いがけない貴公子来訪にすっかり浮き足立っているのだ。箪笥の中の着物を残らず並べさせ、片っ端から袖を通し、
 「私、やっぱり萌黄色の総絞りにするわ。ああ、でもこれに合う帯が無いし、こっちの西陣織の・・・・」
 「私は加賀友禅にしようっと。ゆずか!ゆずか!真珠の帯止めを出してちょうだい。足袋もよ!ほんとにグズなんだから」
 雲の上の方の来訪など私たち女中にとって迷惑ごとでしかなかった。
 夜には庭で虫の音を聴きながら歓迎の宴が催されることになった。厨房や庭ではハチの巣をつついたような騒ぎに違いない。

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 昼過ぎ、客はやってきた。
 到着の知らせを聞くなり主の平造は紋付羽織袴姿で、それっとばかり車寄せへ駆けつけた。先方との今度の取引が社運を決めるらしかった。
 私たち女中は深くお辞儀をしながらチラリとはるか彼方の黒光りするクルマから降り立った人影を見やった。
 初めて眼にする華族と呼ばれる人間だ。
 血筋を証明する秀麗な眼元、上背のあるがっしりした体格に似合わぬ洗練された物腰、気品の匂いたつ中に垣間見える精悍な青年らしさ・・・しかし、身分を鼻にかける威圧的な態度は微塵も見られない。
 「樹之宮楡彦です」
 グレーの背広の襟を正して、伯爵家の名をその人は名乗った。
 普段はふんぞり返っている平造がしきりに額の汗を拭きながら玄関へ案内し、家族を紹介した。

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 黄昏時、庭に円いテーブルがいくつも設えられ、樹にはランプが灯された。
 親類縁者も招かれ立食会が始まった。紫色の薄闇の中、ちょうど盛りの萩の花がランプの灯火に浮かび上がり、幻想的な美しさだったが私たち女中はそんな情景を眺める間もなく、料理や酒を手に厨房と庭を何十回も往復しなければならなかった。
 樹之宮の若様の周囲には人だかりが絶えない。
 中でも牛島夫人は娘たちより派手な色目の着物に身を包み、いつもより一段と念入りな厚化粧の興奮しきった赤ら顔でおしゃべりを続け、金歯をきらめかせて下品な笑い声を振りまいていた。
 娘ふたりもあれやこれやと酒をついだり料理を取り分けたりと、まとわり着いて離れないが、若様は嫌な顔ひとつせず、むしろ自分から冗談を言って彼女たちを笑わせたりしてその面から穏やかな笑みを絶やさない。社交術なのだろうが、ちっともわざとらしさや嫌味を感じさせないのは持って生まれた質なのだろうか、それとも彼の演技力なのだろうか。
 夜更けて宴はたけなわとなった。そんな時だった。
 ひとかかえもある、ふるうつ・ぽんちのガラス鉢を運んできた私の脇から酔った客がぶつかった。鉢になみなみと入った赤い酒がかたわらを通りかかった紅子の胸元にザバリとふりかかったのはほんの一瞬のことだった。
 「きゃーっ!」
 紅子の悲鳴に周囲の視線が一斉に集中した。
 「も、申し訳ございませんっ」
 すぐに総絞りの胸元にできたシミを拭こうとしたが、紅子の手がしたたか私の頬を打ちすえた。
 彼女の面は憤怒のためどす黒く染まっていた。この世にこれ以上憎い者はないという眼で、地面にしりもちをついた私を見下ろし、
 「ゆずか!この―――――役立たず!よくも!罰よ。そこの流れの中に立っておおき!私がいいと言うまでよ!」
 ヒステリックなわめき声が夜の庭に響き渡った。

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私は言われる通りにした。
わざとでないにしろ罰を下されるだけの粗相だったし、言い渡される仕置きを片っ端から耐え抜くのが私の唯一の自己主張だったのだ。
 とは言え、庭を流れる小川の水は裏山からの湧き水で、早くも足音から下の感覚がなくなった。冷えが下から徐々に登ってきて身体の芯が凍りつくようだ。
 やがて庭に満ちていた人声がわらわらと屋敷の中へ吸い込まれてゆき、ランプの灯火ひとつ、またひとつと消されていった。
 虫の啼きすだく声が辺り一面から甦り、私ひとりが暗いせせらぎの中に取り残された。両肩を抱いてうつむいていると自分が流れの中の岩のひとつになったような気さえしてくる。闇の中で自分の歯がひとりでにガチガチと鳴るのが不気味に響き、葉陰の月の色さえ慰めてはくれなかった。
 どれだけの時が過ぎたのか・・・・・。
 突然、庭木を掻き分ける気配がしたと思うと、
 「君・・・・・・」
 聞き覚えのある甘く、しっとりとした男の声がして私は顔を上げた。すでに屋敷の灯火は全部消えていた。
 「君、まだここにいたのか。あれからずっと?」
 バシャバシャとせせらぎを渡る音が近づいてきていきなり私の身体を横抱きにしたのはあの、樹之宮家の若様だった。
 面くらい、夢かと思った。
 「で、でもお嬢様のお許しがまだ・・・・」
 「もう、皆、寝んでしまったよ。呆れた娘だ。身体が冷え切ってるじゃないか。このままじゃ朝が来るまでに死んでしまうよ」
 彼は私を平らな庭石の上に座らせ、自分のガウンを脱いで私の肩を包んだ。未だかつて触ったこともない毛織の感触だ。私はそれを遠慮することすら忘れ、雨の中で拾われた子猫のように小さくなって震えていた。
 「まったく主人も主人だが君も君だ。僕がたまたま酔い覚ましに庭へ出てみたから良かったものの、そうでなかったらどうなっていたことか」
 彼は大きくため息をつき、片膝を立てて芝生の上に腰を下ろした。秋の虫が狂ったように鳴きすだいている。
 正面からの強烈な眼差しが私をがんじがらめにした。冷え切った素足が無防備に投げ出されていることに気づいて引こうとしたが、全く力がはいらない。
 猛禽のような彼の眼がそれを捉えた。
 そして次の瞬間、おもむろに私のかかとをすくい上げ―――――唇を近づけるとその甲に熱い刻印をおしたのだった。
 それは半年前の嫌な記憶をまざまざと呼び覚ました。
 (この人も進太郎と同じ・・・・!)
 どんなに紳士然としていても、華族様でも――――――!
 なのに、ああ、なんという油断をしてしまったことか。
 自分の愚かしさに歯噛みしたい心境だ。
 しかし――――――虫の鳴き狂う茂みは一向に乱れはしなかった。
 やがて足の甲から水の中で火口を押し付けられるような鈍い、心地よい感覚が駆け上ってきた。唇を押し当てたままの若様の視線も這い登ってきて、私のそれと絡み合った。
 「柚子香・・・・?」
 その問いに小さく頷くだけで精一杯だ。
 彼の、月光を受けた瞳からは激しい光が消え、代わって静かな妖しさが満ちていた。

* ***********************

紅茶セットの乗ったワゴンを押して扉を開けると午前の明るい陽光がレースのカーテン越しに客間に満ちていた。
 彼――――――樹之宮楡彦はゆったりとソファに掛け、平造と夫人、それと居心地の悪そうな進太郎と、相変わらず熱い視線を送る姉妹に囲まれ、和やかに談笑していた。
 「いや、本当に楽しい一日を過ごさせていただきました」
 「ほんとにもうお発ちになってしまわれますの?ぜひもう一泊していただきたいわ。ねえ、あなた」
 朝から厚化粧の夫人が媚びた声音で言う。
 「そうですとも。そして例の取引についてよっくお考えいただいて・・・・」
 「お気持ちはありがたいのですが」楡彦は丁寧に言った。「東京での仕事が待っていますので昼前には失礼します」
 「まあ、残念ですこと」
 「本当に。ねえ、お姉さま」
 姉妹が彼の両脇から撫でさすらんばかりにしなだれかかる。
 私はワゴンの上で紅茶を入れた。
 ポットでじわじわと温められた香りが部屋中に漂った。
 「ところで牛島さん、折り入ってお願いがあるのですが」
 突然の楡彦の改まった声に、一同は居住まいを正した。特にふたりの娘は目配せし合ってから身を乗り出した。
 「お願いですと?樹之宮様がわしなんぞに」
 平造はギラリと眼を光らせ、「どうぞ、どうぞ、何なりとおっしゃってくださいまし。この牛島平造、若様から折り入ってなどというお言葉を受けたまわすれば命に代えましても」
 「ありがとうございます」楡彦は慇懃に頭を下げ、そして―――――言った。「実は、そこにおられる柚子香さんを私の妻にいただきたいのです」
 ティーカップが私の足元に落ち、たちまち絨毯に赤黒いシミを作った。
 胸の鼓動が早鐘のように打ち始め、ゆっくり振り向いた時、楡彦の昨夜と同じ妖しいきらめきの瞳がそこにあった。
 昨夜―――――彼はもう一度私を抱き上げると使用人の棟まで送り届けてくれ、月の光の中へきびすを返していった。
 私の危機感は杞憂に終わったのだった。
 そこへ、この申し出は意外すぎた。昨夜の続きの白昼夢かとさえ思われた。
 「あのう・・・今、何と申されました?」
 平造がおそるおそる尋ねた。
 「柚子香さんを樹之宮家の嫁に迎えたいと言ったのです」
 一同は驚愕した。
 「あの、娘のどちらかのお間違いでは!?」
 夫人が調子っぱずれのキイキイ声で問いただしたが、楡彦はゆっくり首を振った。
 「またどうしてこんな、みなしごの田舎娘を見初められたのです?失礼ですがご側室か召使にと言われるならともかく、奥方様にだなんて・・・・・」
 彼はそれには応えず、
 「東京の仕事がかたづき次第、故郷の本邸に戻ります。その途上、迎えに立ち寄りますので支度をよろしくお願いします」
 「迎えに―――――?」
 「一日も早く私の元へ引き取りたいと思います。行儀見習いもあることですし。そうそう、支度金と、それまでの生活は―――――」
 彼は背広の内ポケットから帳面のようなものを取り出し、さらさらとペンを走らせた。
 「これでお願いします」
 小切手らしかった。茫然とそれを受け取った平造の両眼が飛び出さんばかりに見開かれた。
 「こ、こんなに・・・・!」
 「今日から柚子香さんは牛島さんのご養女ということで籍を入れてください。樹之宮家への入籍はその上でということで。勿論、こちらとは妻のご実家として今後もごじっこんにおつきあいさせていただこうと思っています。今回の取引のことも含めまして、
ね」
 牛島一家は口をあんぐり開けたまま動けなかった。楡彦が籍を立ってもそれに従うことさえ皆の頭から抜け落ちていた。
 立ちすくんだままの私に向かってにっこり笑いかけると、彼はそのまま部屋を後にした。
 扉が閉まるやいなや紅子と蒼美の半狂乱に近い叫び声が上がった。
 「お母様、こんなのってあんまりよ!なんで、どうして私たちをさしおいてゆずかなんかを!」
 「まさか、お受けされるんじゃないでしょうね!」
 「ゆずか!お前、若様に何かちょっかい出したわね!」
 その声に弾かれるように、私は部屋を飛び出した。廊下の突き当たりに楡彦の後姿が見えた。
 「待ってください!」
私の声に彼は振り向いた。追いついたものの気が転倒しているせいか息が苦しくてたまらなかったが、彼は静かに待っていた。
 「ご冗談がすぎます!私はどこの誰とも判らぬ孤児で、字だってろくに知らない下働きの女中です。伯爵家に興し入れなんてできるわけがありません!だって、茶道も華道も、ダンスもピアノも歌詠みも、何ひとつ・・・・」
 「そんなものなら僕が全部教えてあげます」
 いとも簡単に彼は言った。
 「でも、第一、お家の方々が許されるはずが・・・・」
 「次期当主は僕です。誰にも何も言わせません」
 「私だって人の子です。犬か猫の子のようにお話を決めないで下さい!」
 遂に怒りが噴出した。だが楡彦の眼はあくまで優しく、
 「確かに身勝手な、一方的な申し出です。昨夜逢ったばかりの男に嫁げというのですから。君が怒るのも、信じられないのも無理はない。ですが僕は昨夜逢ったばかりの君に来て欲しいと思った。これはまぎれもない事実です」
 その真摯な眼差しに吸い込まれそうになった時だ。
 「物好きな伯爵様もあったもんだな!キズものの女にあれだけの金を惜しげもなく投げ出すとは」
 突然、肩越しに残酷な言葉が飛んできた。
 進太郎が私たちの背後で酷薄な笑いを口元に浮かべて立っていた。
 「進太郎くんだったね。妙な言いがかりは遠慮してもらおう」
 「言いがかりじゃない。そいつを女にしてやった本人が言うんだから確かだ。そいつの白い胸に一点、ワイン色の痣があることだってこっちは承知なんだからな」
 楡彦の眼元がかすかに険しくなったのを見た瞬間、私は耐え切れず両耳をふさいだ。
 どうして、こんな屈辱を受けなければならないのだろう。どうして、愛してもいない男ふたりによってたかって身震いするほど嫌な記憶を暴かれなければならないのだろう。私が何をしたというのだ。
 やがて、眼を固く瞑った私のかたわらに、ふうわりと煙草の匂いが近づいてきて大きな手ががっしりと肩を抱いた。
 「この人は君の一時の慰みで終わる人ではない。誰もこの人の魂にまでキズをつけることはできない。それとも進太郎くん、君がこの人を幸せにするつもりですか。そうでないのなら口出しは止めてもらおう。この人は僕の妻となるに相応しい、本物の淑女の血を持った人なのだから」
 根拠など無いはずなのに楡彦の口調は確信に満ちている。ゆっくり眼を開けると、背後から陽光を受けた彼の顔は限りなく慈悲深く、それでいて有無をいわせぬ迫力に彩られていた。彼は私のお下げ髪の片方を手に取り、
 「では、十日後に」
 そう念を押して突き当りを階下へ消えた。
 「伯爵家の若奥様は俺のお古か。こいつぁいいや、はっはっは!」
 悔しさに引きつった進太郎の高笑いがひとしきり続いた。

* **********************

その日のうちに、牛島家の人々の、私に対する態度と処遇は一変した。
直ちに屋敷の、子どもたちさえ使うのを許されていなかった一番広くよい部屋があてがわれ、出入りの呉服屋が呼ばれて大量の反物が私の前に広げられた。
 夫人が手当たりしだい、きらびやかな綾絹を選び、二、三日後には夥しい数の仕立て上がりが届いた。
 お下げ髪しかしたことのなかった髪が結い上げられ、生まれてこの方袖を通したこともないしなやかな着物を着、三度三度にはお正月にさえ口にしたことのない豪華な膳を出され、夜は慣れぬ肌触りの絹の夜具で――――――しかも寝台で休むことになったのだった。
 私の身の周りの世話をするかつての女中仲間は噂を耳にしているのだろう、嫉妬と羨望の入り混じった眼で私を見、紅子と蒼美といえば恐れ入るほどの執拗さで母親に不平を訴え続けていた。だが、金に目の眩んだ彼女らの両親は若様の迎えが来るまで、ひたすら私に寸分の無礼もないよう努めていた。
 既に私に選択の余地はなかった。
 楡彦の言葉をまるごと信じたわけでも、贅沢に心を奪われたわけでもない。飽きられたとたん、ぼろきれのように捨てられるかもしれないと、覚悟もした。
 だが――――――この機会を逃してはこの牛島家を出ることは一生叶えられないに違いない。それだけは死んでも嫌だった。
 私は流されるまま、漕ぎ出だしてみようと決心し、母の墓に別れを告げた。
 十日間は飛ぶように過ぎた。

* **********************

玄関にクルマを着けた楡彦は迎えに出た私をそのまま後部座席に乗せ、一歩も屋敷に上がることなく出立しようとした。
牛島夫妻は慌てた。
「お待ち下さい。支度させた着物や身の回りのもの、それに注文中の調度はいかが致しましょう?」
 「要りません。柚子香さんの身ひとつでいいのです。それらはどうぞ、お宅でお使いになって下さい」
 楡彦はにこやかに別れを告げると、制帽を被った運転手にクルマを出すよう命じた。
 「どうか、取引の件、お忘れありませんよう!」
 平造の叫びもみるみる車窓の彼方へ飛び去った。
 座席に小さくなっている私の手を、楡彦の若木のような逞しい手が強く握りしめていた。

       第  二  章

 「―――――何故?」
 私は震える声で胸にわだかまっていた疑問をやっと口にすることができた。山の麓でクルマから馬車に乗り換えて、ずいぶん経ってからだ。
 「何故、私なんかを?哀れな孤児を養女にしてくださるというならまだしも、奥方様になんて・・・・若様の周りには華族のお姫様がたくさんおいででしょうに」
 「君はなんで自分が生まれてきたか説明できる?」
 楡彦の唐突な問いに私は顔を上げた。彼にとってはほんの例えでも私にとっては胸をえぐる質問だ。だが、そんなこと知るよしもない彼は屈託なく微笑した。
「それと同じだよ。誰も恋に落ちる理由などわからないだろう?」
 恋―――――これも唐突な言葉だ。
「真面目におっしゃって下さい」
「変かな。僕が君に恋をしては」
「若様・・・・」
 とても太刀打ちできる相手ではない。恨めしげに睨む私を、クスリと笑い、
「楡彦でいい――――――それとも僕が嫌い?柚子ちゃん」
「・・・・・・わかりません」
 それは正直な気持ちだ。
 成熟し、完成された本物の気品を持つこの人の横顔を眺めるほどにその距離をかんじてしまう。それは一生を費やしても近づけるものとは到底思えない。そんな彼を自分の中にどう位置づけていいのか、ましてや夫としてなど見当もつかなかった。

* ****************************

二頭の、白地に黒の斑点の美しい洋犬が狂喜に吼えながら走ってきて、私たちを迎えた。ぎょ者が扉を開け、楡彦が先に下りて私を助け下ろした。
 つん、と冷気が頬を包み込む。万年雪を頂いた、神々しいほどの連峰に三方を囲まれた山懐だ。そして、それはなんと瀟洒な西洋館だろう。今までいた、牛島邸とは規模も豪華さも雲泥の差だ。色づき始めた木立に囲まれた急な勾配の屋根が見事で、白い壁に窓框の曲線と木骨が美しく映えて、少女なら誰もが夢見る欧州の城のロマンチックな雰囲気にあふれている。
 「アイザック!パウエル!留守中元気だったかい?よし、わかった、わかった。お座り!」
 じゃれつく犬をあしらう楡彦の面差しに、少年の日のそれを見たように思った。
 屋敷の正面の黒光りする扉が開かれ、ばらばらと人影が吐き出された。
 いよいよだ。
 ごましお頭の初老の男と、同年輩の女が進み出てきて静かに一礼した。
 「お帰りなさいませ」
 「今戻った。変りなかったか」
 楡彦の両親かと思ったが、全くはずれていた。
 楡彦は私を引き寄せ、
 「牛島柚子香さんだ。連絡しておいたとおり今日からここで暮らす。・・・・・これは執事の山脇、そして奥向き一切を任せている芳野だ」
 「ゆずか・・・・・様?」
 何事にも動じなさそうな、厳しい二人の眼が一瞬、驚きに揺れたのを私は見逃さなかった。
 「芳野、部屋は用意できているな」
 「はい。万事怠りなく」
古参らしい奥女中は即発に結った頭をふかぶかと下げた。やせぎすの身体はいかにも神経質そうだ。
 「芳野は母が輿入れの折、実家から連れてきた者でね」
 「若様のむつきのお世話もさせていただきました」
 にこりともせず、彼女は冗談を言ったらしい。楡彦はやや決まりが悪そうに、
 「よさないか、芳野。母上は?」
 「槙原侯爵様のお茶会にご出席でございます。お戻りは夕刻になられるかと」
 「わかった。さ、柚子ちゃん、おいで。少し休もう」
 大勢の使用人が両側に居並んで頭を垂れる玄関ポーチを、楡彦の広い背の後からおっかなびっくり追いかける山出しの少女は、どんなにみっともなく周りの目に映ったことだろう。私の背は楡彦の肩にも満たないのだと、その時気づいたのだった。
 一歩入ると、私の面を七色の光が踊った。足音の反響する広大なエントランスは天井が吹き抜けになっており、正面の階段ホールの窓からステンドグラスの華麗な彩がとどいていたのだ。陰の部分に眼を凝らすと、歴代当主らしいいかめしい肖像画がズラリと掲げられていて、いずれ劣らぬ冷ややかな視線を投げていた。思わず背筋がぞくりとし、この家と血筋の重さに圧倒されてしまった。
 「亡き祖父が明治の中期に一流の建築家に建てさせた家だ。玄関に肖像画があったでしょう」居間でひと息ついてから、楡彦は言った。
 「東側に日本館が隣接しているが、そこは父が帰った折にしか使わないので普段は空っぽだ」
 「お父様・・・・伯爵様は?」
 「父は東京の別宅を本拠にしている。ここには僕と母だけ。後は使用人ばかりだ」
 「こんな広いお屋敷におふたりだけ?」
 改めて午後の日差しあふれる居間を見回した。転びそうなほどふかふかの絨毯に、巨大な暖炉、天井には華のようなシャンデリア、壁には名のある画家によるらしい図案のタペストリー、そしてグランドピアノ。それらに囲まれて欧州の香りのする落ち着いた趣の長椅子とテーブルが置かれていた。
 そこで紅茶を味わいながらくつろぐ楡彦はこれ以上ないほど自然に周りの美しい内装に溶け込んでいる。
 やがて彼はカチャンとティーカップを皿に戻し、
 「そうそう、着替えをしなければね」
 (え・・・?)
 と思うまもなく、彼は卓上の呼び鈴を振った。
 「今までの生活の名残をとどめるものは全部捨ててもらう。これからは僕が選んだものだけを身につけるんだ」
 あらかじめ用意されていたらしく、奥女中頭の芳野を先頭に衣装箱を持った女中たちが数人、居間になだれこんできた。
 すぐに重い生地のカーテンが閉じられ、私は両脇から女中たちにうながされて席を立った。
 「御召し換えさせていただきます」
 芳野が無表情で言った。
 「あ、あの、ここで・・・・?」
 私は面食らった。すぐ目の前ではブランデーを用意させた楡彦がゆっくり見物しながらのポーズでソファに掛けなおし、グラスを傾けはじめているではないか。
 早くもこの男の趣向の餌食にされるのか――――――。覚悟はしていたものの、私のちっぽけな誇りは無残に踏みにじられた。戸惑い、うろたえるうちによってたかって髪は解かれ、帯も解かれ、みるみるうちに長襦袢姿にさせられた。楡彦の鬼火のような視線がまといついてくる。
 「いやっ・・・・!」
 最後の一枚を剥ぎ取られる瞬間のささやかな抵抗も無駄なことだった。
 「ひどい・・・こんな・・・」
 自分の胸を抱きしめ、男に背を向けるしかなかった。
 潮が引くように女中たちは退室し、同時に楡彦の立ち上がる気配がした。その足音は窓辺へ向かい、やがて鋭くカーテンが全開された。私の尖った肩先が黄金色に縁どられた。
 楡彦がゆっくり戻ってきてわたしの真後ろに立った。そして肩をつかんで自分の方へ向き直らせ―――――かたくなに閉じられた両の腕を一気に押し開いた。
 沼に向かって開け放たれたテラスの、強烈な日差しが私の眼に飛び込んでくる。
 羞恥も、屈辱も、彼の圧倒的な力の前にはあまりにも無力だった。私のまだ未成熟な乳房が傾き始めた陽光と彼の強烈な眼光の前にさらされても、成すすべがなかった。視線の止まる一点が灼けつくように熱い。左胸に生まれつきある、桜の花びらの形の痣である。
 「どうせ汚れた身です・・・!見込み違いと見捨てられるのも仕方がないと思います、でも・・・でも・・・こんなのあんまりです・・・・!」
 悔し涙にまみれて私は抗議した。
 陽はゆっくりと傾いていった。
 跡が残るほど強く握られていた両腕はふっと開放された。ひんやりとした絹の感触が肩にかかったと思ったとたん、逞しい腕でそれごと抱きしめられ――――――耳元で、
 「すまなかった・・・・。二度とこんなことはしない・・・」
 低く囁くと、楡彦は足早に立ち去った。
 入れ替わりにさっきの女中たちが戻ってきて、茫然としたままの私を完璧に飾り立てていった。用意されていた着物や装飾品は、牛島家のものと比べ物にならない高価そうな品々だった。
 涙の跡など全く残さず美しく化粧された顔は華麗に結われた髪と相まって、生まれついての令嬢にさえ見えるから不思議なものだ。
 そのまま魂が抜けたように、沼の向こうの稜線に沈み行く夕陽を眺めていた私は―――――どのくらいそうしていたのか――――――不意に人の気配を感じて振り向いた。
 深まり行く秋の黄昏をつんざいて百舌が羽ばたいた瞬間、私の眼に映ったものは――――――大輪の花だった。

* *************************

なんとあでやかな、重厚な、本物の高貴な血の作り出す、知性と柔らかさ、ちらりとほの見える峻厳さ――――――ここまで完成された女性を私は見たことがない。藤色の着物の着こなし、派手すぎず、みすぼらしくもない色目の紅を乗せた、口角のやや上がった唇の素晴らしい形。上品な小鼻と濃い陰を落とす睫毛・・・・・。
 さっきごてごてと飾り立ててもらった私など彼女の前ではちゃちな市松人形でしかない。
 ――――――その婦人は私を認めて一瞬、驚いたようだったが、すぐに笑顔で近づいてきた。
 (若様の母上・・・・!)
 閃いたとたん、胸の鼓動が激しくなった。
 「あなたは・・・・?」
 たゆたうような眼差しが問うた時、彼女の背後から、辛子色のカーディガンに着替えた楡彦が入ってくるところだった。
 部屋にはいつしか灯火が灯っていた。
 婦人は振り返り、輝くばかりに微笑んだ。
 「お帰りなさいませ,、御前。出かけておりまして、お出迎えもいたしませず失礼申し上げました」
 (御前?)
 華族の家では自分の息子を御前と呼ぶのだろうか。
 「ただいま」楡彦も最高の笑顔で応じる。「この娘さんが、電話でお話ししておいた牛島柚子香さん。帝都大の南原教授の姪御さんです」
 私のことらしかった。勿論、楡彦の作り話だ。
 「柚子ちゃん、こちらが樹之宮家の女主人――――――」
 「百舌絵です」
 そう言って優しい視線を寄越す彼女の口元の、なんと艶かしく美しいことか。見惚れていた私は慌てて頭を下げた。
 「柚子香と申します。よろしくお願いいたします」
 「可愛いお嬢さんですわね。それにしても柚子香さんとおっしゃるなんて奇遇ですこと」
 何のことなのだろう。楡彦の方を窺ってもその表情は穏やかなままだ。
 それから彼は、母親に私のことを許婚者ではなく単なる行儀見習いだと紹介した。やはり、私のような孤児は伯爵家の嫁には向いていないらしい。当然、予期していたことながら、失望に似た苦さが胸に広がった。
 いや、そのことより何か―――――はっきりとは判らないが何か一点、腑に落ちないことが胸の奥のしこりとなって残った。どこか不自然なのだ。
 「お行儀見習いといわれても、私どもにお役に立つかしら」
 百舌絵さまの小首を傾げる様子はまるで少女のようだ。
 「あなたのお手をわずらわせずとも私が全ててほどきします。恩師からくれぐれもと頼まれましたから」
 楡彦が母親を「あなた」と呼ぶのが耳に残った。
 「まあ、ろくにお茶事にも出てくださらない方がお教えできて?私にもお手伝いさせていただきたいわ。こんなに年若い娘さんがいてくださるだけでもこの家も華やぎますもの。ねえ柚子香さん、御花はどちらの流派をされていらっしゃるの?お茶は?」
 百舌絵さまは無邪気にはしゃいだ。ほどなく始まった晩餐の席でも、彼女は明るく笑いさざめき、楡彦が穏やかな笑みで見守る中、時は和やかに過ぎていった。

* ***************************

夜更けて、用意されていた二階の一室に引き取った私は着物を脱ぐのももどかしく、寝台に身を投げ出したまま動けなかった。豪華な調度を見物する気力さえ湧いてこない。
 私はいったい、どうなるのだろう・・・・。
 樹之宮家の人々は思いの外、暖かく迎えてくれたが、百舌絵さまのお話し相手になるために来たのではないのだ。かといって伯爵家の花嫁になれるとも、どうしても思えない。楡彦の言葉をどこまで信じればいいのだろう。彼の真意が十六歳の小娘に判ろうはずがなかった。判っているのはここまで来てしまった以上、容易には逃げられないということだ。所詮、私は籠が変っただけの飼い鳥でしかないのか――――――。
 取り留めのない思いがぐるぐる回転するうちに、いつしか眠ってしまったらしい。

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庭で盛んに吼える犬の声で眼が覚めた。
テラスからは厚いカーテン越に秋の日差しが差し込んでいる。ゆっくり身を起こしてみて改めて驚く。途方もなく広い、二間続きの奥の部屋で二畳分もあろうという大きな寝台に眠っていたのだ。室内には、まるで外国のお姫様の使うような華やいだ家具があふれ、恐る恐る箪笥を開けてみると、着物や洋服、夜会服までもがぎっしり詰まっていた。
 さて、どれに手をつけていいものか躊躇っているところへ、扉がコツコツと鳴った。白いエプロンを着けた、私と同じ年恰好の少女が立っていた。私付きの小間使いとなったカヨ、と彼女は名乗った。
 「居間の方で若様がお待ちでございます。あ、お召しかえなら私が」
 カヨは心得ているらしく、薄紅の小菊の小紋を選んでてきぱきと着付けを手伝い、髪を共布の大きなりぼんで結ぶと居間へ導いた。昨夜は暗くて判らなかったが、廊下の天井が途方もなく高く、木目の床はぴかぴかに磨き上げられている。滑らないよう用心深く室内履きの足を進めた。
 朝食の時間はとうに過ぎているらしい。
 居間には妙な香りが立ち込めていた.苦く甘い鼻につん、とくる古めかしい匂いだ。
 ひとりでゆったりと新聞を広げていた楡彦は昨日と変らぬ笑顔で私を迎えた。テーブルの上に素焼きの湯飲みが置かれているのを見て、これが匂いの元か、と私は思った。
 「ああ、これ?母が滋養の為だと言って毎日作ってくれるんだ。漢方薬の一種らしいがこの匂いには閉口している。出張中はこれから開放されていたけど、帰るなりまた始まってしまったというわけだ」そこで楡彦はパサリと新聞を置き、「さ、どうぞお座り。よく眠れた?その小紋の色、とても良く映るよ」
 そして呼び鈴を鳴らし、メイドに朝食の支度を言いつけた。ほどなく心地よい湯気を立てたかふぇ・お・れ・とふらんすパン、葡萄と梨などの果実が盛られた鉢が運ばれてきて、メイドが退きあげると部屋にはまた楡彦と私のふたりきりになった。
 「あのう・・・百舌絵さまは?」
 私はやっと小さく問うた。
 「何かの会合に出かけた。母は社交家でね」
 「とてもお美しい方ですね。お若くて」
 「十七歳で僕を生んだからね。樹之宮一族の分家から輿入れしてきた、何の苦労も知らないおひい様だ。父との婚約は生まれたときから決められていたそうだ」
 彼の、茶色がかったくせ毛のかかる額が少し明るさを失ったような気がした。
 「母のことについて、話しておかなければならないことがある・・・」口調を改め、真正面から私を見据えた。「あの人は・・・・実は心の病なんだ。もうずいぶん前から」
 「えっ?」
 思わず声を上げてしまった。
 楡彦の額はますます苦しげに曇った。
 「昨日、君は気づいたのじゃないかな。母の、僕に対する態度を・・・・。彼女は息子の僕を夫の幹吾と思い込んでいるんだ。
 (あ!)
 百舌絵さまが彼を御前と呼んでいたことが脳裏に甦った。
 「そんな・・・何故・・・?」
 「芳野の話によると」楡彦は低い声で話し始めた。「母の発病は僕をお腹に宿した頃であるらしい。僕を出産しても、その自覚もなく、数年間はまったく自我を失ったようだったという。父は耐え切れずにかつて深く愛した妻を見限り、東京へ居を移してしまい――――――僕は一人ぼっちで使用人に囲まれて成長した。幼年期も、少年期も、思春期も、遠くから母を眺めるだけだった。母の病状はだんだん良くなり、今のように明るく元気にはなったが、それでも母の世界に楡彦という息子は存在しない。それどころか、僕が成人して欧州留学から帰る頃には若い日の父と瓜二つに成長した僕を、彼だと思い込んでしまった。何度、周りが説得を試みたことか。だが母は頑なに信じて疑わない。僕を最愛の夫、幹吾だと。そして幹吾を亡き義父だと――――――」
 楡彦はいたたまれないように立ち上がって窓辺へ歩み寄った。
 「今では僕をはじめ、使用人もうまく調子を合わせている。だから、君のことも、行儀見習いとしか紹介できなかったんだ。気を悪くしないで欲しい。いずれ、母には折りををみて話すつもりだ。わかってはもらえないだろうが・・・」
 私は硬くなったまま返事もできず、椅子にかけていた。
 その時、執事が入ってきて、主人に秘書が迎えに上がったことを告げた。
 楡彦は父の樹之宮伯爵を頂点とする、樹之宮財閥の傘下の数社を任されているのだ、と後日執事が説明してくれた。樹之宮財閥は海運業と貿易を柱に世界の檜舞台に進出しようとしているのだそうだ。
 「仕事だ」楡彦は活気を取り戻し、私に向き直ると「なるべく早く帰るからゆっくりしておいでなさい。庭を散歩するもよし、家の中の骨董品を見てまわるもよし、どこへ行こうと君の自由だ―――――母の部屋意外は」
 そう言って私の面に愛しげな視線を落とすと、部屋を後にした。
 しばらくすると、窓の外に主人を乗せて出立するクルマが沼に沿う道を遠ざかって行くのが見えた。
 楡彦が行ってしまうとこの家の巨大な空間に押しつぶされそうになった。
 かふぇ・お・れはすっかり冷め、手指の先がしん、と冷えている。さっきの話のせいだ、と私は思った。
 愛情いっぱいにお育ちになったことと決め付けていたのに、楡彦の少年時代は心寂しい渇ききったものだった。そして今も母親の夫のふりを続ける毎日・・・・。この異常な生活から、彼は逃れたいのだ。そしてその足がかりに何故か私が選ばれた・・・・。
 (救えやしない、私なんかに。お坊ちゃまの気まぐれで白羽の矢を立てられるのは迷惑だわ)
 などと思いながらも、心の奥に、彼への同情とも憐憫ともつかぬ慕わしさが、ほんのひとしずく染み出すのがわかった。

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その日の夜から種々のレッスンが始まった。月曜は立ち居振る舞いとマナー、火曜はピアノ、水曜は華道、木曜は茶道、金曜は書道と歌詠み、土曜はダンス、というふうにびっしりと予定が組まれた。
 楡彦は毎日きっかり午後六時に帰宅して夕食を済ませると、約束どおり手づから全てを教えてくれた。覚えの悪い私に決して焦らず根気よく接してくれたが、絶対に生徒に譲らない厳しい先生だった。
 信じられないことだが、これらは全て伯爵夫人になる日のための準備に他ならないのだ。
 百舌絵さまは週の半分は華やいだ場所に出かけて留守だったが、時間の空いた時は屋敷の中の絵画や骨董品、陶器などを説明して見せてくれ、午後のお茶の時間もたびたび一緒に過ごしてくれた。楡彦のことが話題に登った時には彼女の夫として話を合わせる以外、この並外れて賢く美しい方が何ら精神に異常をきたしている様子はまるで、無い。
 いつも匂いたつような優しい眼差しで、私の幼稚な受け答えに耳を傾けてくれるのだった。私はとても安らぎを覚えた。今まで楡彦とふたりでいた時の、一方的に彼に振り回され通しだった不均衡な位置が、百舌絵さまの出現によって、ようやく安定したように思った。楡彦との一対一の気の抜けない関係に余裕が生まれたのだ。
 それは捜していた嵌め絵の一片が見つかったような感覚だった。
 この母子の、私への気遣いは誠意に満ちており、私の戸惑いは日々薄らいで感謝に変りつつあった。

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   三週間あまりが飛ぶように過ぎた。
   秋りんも過ぎ、木々がますます色濃く化粧をし、抜けるような青空の日がつづくようになった。
 その金曜の夜、居間での歌詠みの稽古を終えると十一時を回っていた。
 楡彦は筆を置くと、
 「ああ、遅くなってしまった。今夜はこれくらいにしよう」
 そう言って毎夜と同じく、私を部屋の入り口まで送ってくれた。私の部屋をまっすぐ行ったところに彼の部屋があるためなのだが、居間に残って酒を愉しむ時も、必ずそうしてくれるのだった。しかし、中へは一歩も入ろうとしなかった。同じ屋根の下に暮らすからこそのけじめなのだろう。
 「何か足りないものはない?欲しいものは?」
 別れ際、扉の前で彼は毎夜、お決まりの問いをする。
 「いいえ、何も。もったいのうございます」
 私も決まって同じ返事をする。
 「もっと甘えてほしいな。遠慮しないで」
 「充分ですわ。お金で買われた身がこれ以上贅沢を言っては罰が当たります」
 「柚子ちゃん!」急に彼は眉根を寄せてたしなめた。「そんな風に考えてたのか?僕は君を金で買ったつもりなんかない。心外だ。悲しいよ」
 確かに卑屈だった。すっかりしょげた私を前に、彼は大きくため息をついてから、ぱっと顔を輝かせた。柚子ちゃん、君、馬は好きかい」
 「馬・・・ですか。はい」
 「明日は休日だ。馬に乗せてあげよう。沼の周りをぐるりと一周するんだ。とても美しいよ。アイザックとパウエルも連れて行こう」
 この思いつきは彼を少年のようにわくわくさせたらしい。私も思わず微笑んだ。
 「ああ、やっと笑ってくれたね。ここに着いた日の無礼以来、すっかり嫌われていると思っていたんだ」
 あの日の灼けつくような記憶が甦り、私の頬は火の様になった。とても彼の面を見続けられず、うつむいてしまう。――――――そのおとがいを彼の手がふわりとつかんだ。そのまま上向かされたと思うまもなく、煙草の匂いの唇が私の唇を暖かく包み込む。
 生まれて初めてのくちづけ――――――。
 進太郎に奪われた時でさえ、殴られながらも無我夢中で守り通した唇を、やすやすと許してしまったのは何故なのか――――――。
 刻が止まるかのような感覚の中で、そればかりを問い続けているうちに、
 「じゃ、明日の朝。ゆっくりおやすみ」
 いつもどおりの落ち着いた声に睫毛を上げると、彼の背中が廊下の奥へと遠ざかっていくところだった。
 その夜はなかなか寝付けなかった。
 (もしかすると、彼は本気で私を・・・・?)
 これほど種種のレッスンを受けてさえ、これほど贅沢な品々に囲まれていてさえ、どうしても信じられなかった彼の求婚が、急にはっきりと現実感を帯びてきた。
 たった一度のくちづけの効力に屈する自分を情けなく思いながら、明け方までの浅い眠りの中、いくつもの夢には必ず楡彦の面影が訪れた。

       第 三 章

 翌朝は辺り一面、霧の海だった。
 小間使いのカヨが私のために乗馬服を一式持ってきた。良い香りのする小さな紙片が添えられており、
 「急なことなので母の若い頃のものを借りました。―――――N.」
 と、あった。
 ミルク色の窓の外では犬の吼え声がしきりにたかまり、楡彦が厩舎から愛馬を引き出している気配が伝わってきた。
 大急ぎでカヨに手伝ってもらって、慣れぬ乗馬服を身に着けて外に出ると、栗毛の駿馬が霧の中から現れた。胸元に純白のスカーフを巻いた楡彦が鞍の上から私の手を引き、一気に馬の背へ引き上げる。 
 「ハイッ!」
 号令と共に、馬は草の上の露を散らし疾風となって沼への道を駆け下った。アイザックとパウエルの二頭が滑らかな筋肉を躍動させて、後に続く。
 「どう?爽快だろう」
 そう言われても、私はたてがみを握りしめているだけで精一杯だ。一面乳白色の世界に墨絵のような木立が点在する中を、無我夢中で突き進んでゆく。
 沼の水音が間近に聞こえると、馬はやがて並足となって畔を進み始めた。
 親鳥の庇護を受けるヒナのように、背後から楡彦の胸にすっぽり包み込まれていると思うと胸が苦しいほど高鳴った。彼の息づかいと鼓動を間近に感じているだけで気が遠くなりそうだ。
 いきなり、白い手袋の彼の手が耳の横を触れたと思ったとたん、帽子の下の私の髪は扇のように肩に広げられた。
 「この黒髪を枕に眠れば、さぞ安らぐことだろう」
 耳元で密やかな声が言った。そして次には昨夜の小さなふれあいなど比べものにならない深い―――――激しい接吻が待っていた。
 馬が足を止め、彼の手から手綱がパサリと落ちた。
 (愛されている、私は愛されている・・・・)
 そんな言葉しか頭に浮かんでこない。それほどに楡彦の愛撫は場所を忘れてしまいそうなほど激しかった。

* ****************************

私は負けを認めた。牛島家の庭で助けられた時から私はすでに敗者だったのだ。
金で人の運命を変えるような男に、決して心まで奪われはしない―――――――そう頑なに意地を張っていた砦は、彼の熱情の前にもろくも崩れ去ってしまった。そのとたん、彼への愛慕が堰を切ってあふれてきた。
 彼が伯爵家の人だという引け目も押し流す勢いで、枯れることを知らぬ湧き水のように・・・・。
 うなじにくちづけの丹念な愛撫を受けながら、私は楡彦の広い胸に身をゆだねて馬の蹄の音を聞いていた。
 やがて陽が差し始め、霧は山の神の内懐に帰っていくかのごとく速やかに退いていき、沼の表面にはまるで見えない手で爪弾かれるハープのように繊細なさざなみが立っていた。
 霧のヴェールを脱ぎ去った深い森から、何か朱いものが現れ、私の眼に映った。
 「あれは・・・・・?」
 朽ち果ててはいるが、小さな鳥居を持った祠だ。
 「樹之宮家に代々伝わるものでね・・・」
 楡彦は先に下馬し、私を助け下ろした。
 祠は苔むした巨石に囲まれ、鳥居には蔦が絡まり長い間灯明さえあげられない様子を窺わせる。湿っぽい病葉の絨毯を踏んでその前に立つと、背筋をぞくりとする感覚が襲った。
 察したように楡彦が力強く肩を抱いた。
 「聞きたいかい?この祠にまつわるご先祖の伝説・・・・」
 私はうなずいた。
 彼は沼の上に視線を彷徨わせ、話し始めた。

* *********************

昔・・・天正年間の頃、この地方一帯を治める樹之宮家の当主には都の公家から輿入れしてきた美しい御台所があった。
 当主の寵愛は充分深かったのだが、当時のこと、ふと召し上げられたひとりのうら若い側室が次第に当主の寵愛を独占するようになった。
 御台所は夜毎、嫉妬に身を灼かれた。
 そして、それは側室が解任するにあたり、頂点に達した。彼女はなんと、側室の膳に密かに毎日微量ずつ、毒を盛ったのだ。
 御台所もまた、時を同じくして和子を宿していた。
 毒が効けば側室の子は、ふためと見られぬ異形に生まれてくるはずだった。
 やがて月が満ち、側室は難産の末赤ん坊を産み落とした。御台所は恐ろしい報が届くのを今か今かと胸躍らせて待っていたが、城中には姫君ご誕生のめでたい知らせが走り抜けるばかりで、一向に彼女の待つ報は届かない。
 噂では並外れて美しい姫で、当主自ら産屋にまで足を運んで異例の対面をしたらしい。
 御台所は悔しさに身を揉んだ。毒は効かなかったのだ。
 そんな中、御台所も産気づき、その夜、和子は誕生した。初の男子だった。
 ――――――勝った!
 御台所は産屋のしとねの中でほくそ笑んだ。
 ところがまわりの誰もが顔をこわばらせ、まともに眼を合わそうとしない。不吉な思いに貫かれた御台所は、侍女の止めるのも振り切って、か弱い泣き声のする隣室へ踏み入った。
 そこで彼女が見たものは―――――側室の子がかくあるようにと望んだ、ふためと見られぬ異形の赤ん坊だった!
 あまりの衝撃に狂乱した御台所は鬼女に豹変した。そのまま側室の部屋に駆けいり、すやすやと眠る玉のような美しい姫を抱きかかえるや、城の天守に登った。
 そして黄泉への深遠の色を湛える沼へ、姫もろとも一気に身を躍らせた―――――。

* ************************

私は思わず両手で顔を覆った。
「なんて恐ろしい――――――」
「その御台所の名をもず姫、側室の名を、ゆず姫―――――という」
楡彦はつけくわえた。
突然、百舌が鋭い叫びで辺りの空気を切り裂いた。
ここへ来た最初の日、百舌絵さまが私の名を聞いて奇遇だと言ったわけがようやく判った。
 「本当に偶然だね。牛島家で君が呼ばれているのを聞いて、おや、と思ったよ」楡彦の張り詰めていた表情が緩められた。「この伝説だけ聞くと、もず姫は鬼のように恐ろしい印象を受けるが、他の文献では才色兼備の誉れも高くてね、樹之宮一族の女の子には彼女に因んだ名がよくつけられる。母もその一人だ。だが、ゆず姫に因んだ名は不思議と例がない」
 「何故、もず姫の盛った毒がご自分のお腹の子に・・・・・?」
 「さあ・・・真実は遥か時の彼方だ。もず姫の亡骸はどんなに手をつくしても見つからず、それ以来彼女は鎮魂の意味も込めてこの沼の女神として祀られ、沼は鵙ヶ沼と呼ばれるようになったというわけだ」
 鵙ヶ沼はおどろおどろしい伝説を秘めて、ただ沈黙していた。
 「恐ろしい話。もず姫の犯した罪よりも愛があまりに強烈過ぎて――――――」
 男に言わせればそのくらい激しく愛されてみたいものだが」楡彦は軽口を言って笑い、「怖がりなんだね、柚子ちゃん。大丈夫、ただの昔話さ」
しかし、彼女の安らぎを祈って手を合わせずにはいられなかった。その肩を楡彦は抱き、私は彼の内懐の暖かさを味わいながら、もず姫が身を投げたという沼の水の冷たさに思いをめぐらせた。やがて汀で戯れていた二頭の犬を楡彦が口笛で呼び、私たちは帰路に着いた。

* ***************************

屋敷では百舌絵さまが待っていた。
彼女の聡明な瞳は私たちの変化を何もかも見通しているのではないか――――――。少々、後ろめたさを感じながら、髪や襟元の乱れがないか、気がかりだった。
 だが彼女は屈託のない笑顔で、
 「まあまあ御前、ご教育熱心なのはよろしゅうございますけれど、よそ様の大切なお嬢様に万一のことがあったらいかがあそばすおつもりですの?馬だけはおよしあそばせ」
 「馬場へ行ってごらんなさい。近頃のレディは私たち男よりも鮮やかなお手並みですよ、百舌絵さん」
 彼が「百舌絵さん」と彼女を呼んだだけで私の心に小さな嫉妬の火が点いた。昨日まではなかったことだ。
 「朝食はまだでいらっしゃいましょう?柚子香さんもお召し換えなさって、ご一緒にいただきましょう。――――――あら」
 百舌絵さまのキラリと光る眼が楡彦を捉えた。
 「お顔の色が優れませんわ。近頃、その日のうちにおやすみになられたことがございませんでしょ。芳野、芳野、例のお薬湯をお持ちしてちょうだい」
 そう言って大慌てで命じるのへ楡彦は苦笑した。
 「またあれですか。せめて、こんな清清しい朝はご勘弁願えませんか」
 「なりません。御前のお体のためを思えばこそですわ」
 仕方なく楡彦が顔をしかめて薬湯を飲み干してから、私たちは食堂へと移った。
  いつものようにとろけるようなすくらんぶる・えっぐを前にしても、胸がいっぱいで食べられない。向かいの席の楡彦を見つめる眼差しがどうしても熱を帯びてしまう。
 (恋・・・?)
 食卓の上のコスモスはもちろん、無表情な給仕や壁の古時計までが私の初めての恋を祝福してくれているような気がした。
 何もかもが急に色鮮やかに息づき始めた。
 「柚子香さん」
 百舌絵さまの声にハッと我にかえる。
 「お稽古は進んでらして?あまりに先生が厳しいならいつでも私におっしゃって」
 「はい、ありがとうございます。何も知らない田舎者ですので若様のお手をわずらわせてばかり・・・・」
 「――――――若様?」
 瞬間、私はしまった、と思った。楡彦を伯爵様と呼ばなければならないことを、つい失念していたのだ。楡彦から針のような視線が飛んできて、私は自己嫌悪の塊になった。
 その時である。
 ダン!と観音開きの扉が乱暴に開かれたと思うと、そこに灰緑色の上下を着た初老の男性が仁王立ちになっていた。堂々とした異常夫だ。
 百舌絵さまのナイフがガシャリと落ちて、眼をやると彼女は蒼白になって腰を浮かせていた。いつもの落ち着きは跡形もなく、別人のようにおどおどした目つきに私は少なからず衝撃を受けた。
 楡彦がいち早くナプキンをはずして席を立った。
 「お父さん・・・・」
 樹之宮伯爵、幹吾はぎろりと居間を見回しいかつい髭を撫でてから、息子に向かった。
 「いい身分だな、楡彦。こんな時間に自宅でゆっくり女を相手に朝食とは」
 「失礼致しました。お帰りにも気づかず」
 「お前の鈍さは今に始まったことではないがな」
 痛烈な言葉に、楡彦のこめかみが小さくひくついた。
 伯爵は大股に食卓に近づいた。
 「ひっ・・・・」
 百舌絵さまがキツネのように跳びあがった。異常な脅え方だ。
 「こ、こちらへおいでにならないで、お義父さま!」
 テーブルクロスの端を握ったまま立ち上がったため、食器や花がけたたましく落ちて破片を散らした。それを見るなり一層蒼白になった百舌絵さまは大きくよろめいてうずくまってしまった。
 「百舌絵さん!」
 楡彦の声と同時に私は駆け寄り、彼女を支えた。大輪の花が痛々しく生気を無くしていた。
 「ふん」
 ますます髭をいからせて、この家の当主は自分の妻に蔑みの一瞥をくれた。
 「相変わらずか、百舌絵。わしは義父ではない、お前の夫の幹吾だ。何度言えば判るのだ!」
 「ひいっ!」
 百舌絵さまの華奢な身体が私の腕の中でがたがた震える。
 「お父さん、止めてください!そうきつく申されても百舌絵さんには逆効果です。芳野、奥様を部屋へ!」
 芳野は私の手から百舌絵さまをひったくるようにして連れて行った。
 室内に気まずい空気が置かれた。
 「楡彦、お前がそうやって甘やかすからあれはいつまでたっても快癒せんのだ。少なくともあれを名前で呼ぶのは止したがいい。あれはれっきとしたお前の母親なんだぞ」
 「・・・・・・判っています」
 「そうかな。それに、その娘はなんだ。新しい女中か」
 幹吾の眼が私に向けられた。楡彦が素早く応じる。
 「先日の上京の折お話しした、許婚者の牛島柚子香と申します」
 「ふん、何を戯言を」あっけなく一蹴されてしまい、私は身の置き所を失った。「遊ぶなら郭へ行け。この家に身元の知れぬ女を入れるなどもっての外だ。第一、お前には隠岐家の長女という許婚者あるではないか」
 追い討ちをかけてこの言葉は落雷のように私を直撃した。
 (許婚者・・・・!楡彦さんに・・・・!)
 しかも隠岐家といえば貴族院の隠岐瑞夫の一族であるらしいことは私にも察しがつく。
 「あのお話はお断りしたはずです」
 眉間に深い皺を刻んで、楡彦はきっぱりと言った。
 「馬鹿者っ!」
 広い居間が震撼するほどの怒号と共に、楡彦の頬に父親の拳が音を唸らせて食い込んだ。
 「お前が断った、受けたという次元の話ではないのだぞ。いい歳をしてそんなことも判らんのか。先方には長いこと祝言を待たせてある。早々に準備するからそのつもりでおれ」
 「お父さん!」
 唇の血を拭いもせず、楡彦は父親を睨んだ。
 「女を連れ込んで遊ぶ暇があったら仕事に眼を向けたらどうだ。今、お前の社に何が起こっているか知りもせんで」
 「何だというんです・・・・」
 「株価が暴落しておる。英国のペグステン社が倒産した余波だ」
 楡彦の顔に大きな衝撃が走った。
 「ペグステンが倒産?しかし私の方にはそんな報せは・・・・」
 「わしが情報を遅らせた。この頃東京にも顔を見せず、どうもたるんでいるようだったから試してやったのだ」
 「お父さん!」
「しっかりせんか、楡彦!」わしの樹之宮海運とて生き残るか否かの岐路を目前に控えておることは知っていようが。ペグステンの倒産ごときに揺すぶられるような経営をしていてどうする。いつになったら全てを任せて貴族院に出馬させてくれるのだ。さ、何をぐずぐずしている、被害を最小限に食い止めろ!」
 「・・・・はいっ」
 執事を呼びつけながら、楡彦はあたふたと飛び出していった。
 後には散乱した食器と、この家の君主と私だけがだだっ広い食堂に取り残された。和やかだった土曜の朝は一変して重苦しい空気になってしまった。
 なんと恐ろしい伯爵様だろう。私はおっかなびっくり独裁者に眼を向けた。たしかに楡彦が父の若い頃にうりふたつと言っただけあって、よく似た顔立ちだが受ける印象はまるで違う。私が想像していた、紳士的で温和なタイプとも程遠い。この人がいるといないでは晴天と大嵐ほどの差があるだろう。
 軍人を思わせる威圧的な視線が跳ね返ってきて私はびくんとした。が、私など意識のかけらにもないのだろう、くるりときびすを返すと大股に部屋を出て行ってしまった。
 「不愉快だ!すぐに東京へ戻るぞ!」
 廊下から部下や使用人に怒鳴りつける声が反響してきた。

* **************************

それから三日間、楡彦は帰らなかった。
百舌絵さまも部屋に引きこもったきり、芳野に食事を運ばせて一歩も出てこようとなさらない。
 憎らしいほど素晴らしい秋晴れが続いていたが、あの朝の衝撃の余韻がすっかり気分を滅入らせ、散歩する気にもなれず私はひとりで落ち着かぬ時間を過ごすしかなかった。
唯一の話し相手であるカヨに少し尋ねてみる。
 「伯爵様はずいぶん厳しいお方なのね。いつもあんな風なの?」
 カヨはうなずいた。
 「お戻りになるたびこの明るいお屋敷に暗い雲が立ち込めます」
 「どうしてあんなに険悪なのかしら」
 「それは、やはり奥様の病気のため・・・・・」
 カヨはしまった、というふうに肩をすくめ、口をつぐんでしまった。百舌絵さまの病は周知の事実でありながら禁句であるらしい。
 「でも私思うのよ、カヨさん。ご自分の奥様がご病気ならいたわってさしあげるのが普通じゃなくて?ましてやお若い頃からご婚約なすってとても仲のよいご夫婦だったというお話だし。いったい、何が伯爵様をあんな風に変えてしまったのかしら。厳格な、というよりあれでは奥様と息子さんを憎んでおられるとしか思えないわ」
 「・・・・・・・」
 カヨはそれきりそのことに関して、決して口を開こうとはしなかった。

* *****************************

三日目の夜、私の足元で寝そべっていたアイザックとパウエルが揃って身を起こした、と思うと甲高く鳴きながら外へ突進した。
 その声は待ちわびた主人の帰宅を告げている。私も綴り方の筆を置くなり、急いで部屋から飛び出した。
 真っ暗な庭に出ると、楡彦が秘書の成瀬を従えてクルマを降りるところだった。彼らは何か言い争っていた。
 私を追い抜いて駆けつけた執事の山脇に帽子だけ押しつけ、まつわりつく犬をうるさげに振り払い、彼は尚も秘書に激しい言葉を投げ続けていた。その顔は別人のように蒼白でとげとげしい。私は思わず立ちすくんだまま近寄ることができないでいた。彼も私など全く眼中にないらしく、足早に屋敷に入ってしまい、そのまま二階の書斎へ秘書と共になだれこんだ。私はそっと足音を忍ばせ扉のわずかな隙間から様子を窺った。
 「もう言い訳は沢山だ!」
 いきなり飛んできた楡彦の怒号に、びくりとした。秘書の成瀬が直立不動で彼の前に立っているのが見える。
 「お前はいつから父の部下になったのだ」
 「ですから伯爵閣下は社長のお為を思われて情報を遅らせる試みを私にご命じに・・・・」
 「そんなことを真に受ける者がどこにある。最悪の事態は避けられたから良かったものの、我が社の屋台骨を揺るがす大事になりかねなかったのだぞ。お前は根本から間違っているようだ。父は味方ではない、敵なのだ!」
 「そ、そんな・・・・」
 「折あらば私を失脚させようとしている仇敵なのだ。私と社の発展のためと銘打って罠を仕掛けるのも一度や二度のことじゃない。お前は長年秘書を務めながら、そんなことも判らんのか!」
 「でも、伯爵閣下の仕掛けてこられる難題もマイナス面ばかりではありません」
 成瀬は食い下がった。楡彦と同年輩なだけに秘書とはいっても自分の意見を口にしなければ気がすまないらしい。
 「現に成績向上に結びついてきたではありませんか」
 「私の経営方針だけでは信用できないというんだな」
 楡彦の、険しい眉間が扉のわずかな隙間からよく見えた。
 「そうではありません。社長のお力は信じています。ですが伯爵閣下のご懸念もわからないでもないのです。近頃、私に断りもなく得体の知れない男たちを出入りさせておられる様子ですし・・・・。いったい、何を」
 「お前に詮索されることではない!」ドン!と楡彦の拳が卓に打ちつけられた。「父に懐柔されたお前になど言う必要はない!」
 「社長っ!」
 「もういい、下がれ!裏切り者には用は無い。二度と私の前に姿を現すな」
 「社長・・・・!」
 成瀬の悲痛な叫びが虚しく室内に響いた。だが、一端背を向けた楡彦はついにこちらを向くことはなかった。
 成瀬はがっくり肩を落とし、去っていった。
 入れ替わりに執事の山脇が来て、遠慮げに声をかける。
 「お食事はいかがなさいますか。お湯は」
 「何もいらん!誰も入るな!」
 にべもない。
 ひとりになってしばらくすると、楡彦はいきなり机上のランプスタンドを振り上げ、テラスのガラス戸めがけ投げつけた。それはなんという惨状だったろう。耳をつんざく音と共に、楡彦の肩が大きく波打つ。尚も構わず書物や灰皿を次から次へと投げながら、恐ろしい恨みの言葉が吐き続けられる。
「今に・・・今に見ているがいい・・・・」
 楡彦の、手負いの獣が放つようなかすれた声を耳にするたび私は命が削られる思いがした。
 物静かで完成された大人であるはずの彼が今、もろい姿をさらけ出し、心を血しぶかせているのだ。
 私の胸のうちに、無明の闇が広がる天と地にただ一本、葉もなく頼りなげに烈風と渇きに耐えて立つ若木の姿が浮かんだ。
 今にも枯死寸前のその木に、何としても生きてほしい――――。そのためには私の体の水分を全て与えても惜しくはない―――――。
 私の髪の毛ひと筋、爪の一片からでも搾り出せるものなら最後の一滴まで命の水を若木の根に吸わせてやりたい――――――。
 魂の底からそう思った。
 「やめて!」
 私は部屋に飛び込んで楡彦の背中にすがりついた。これ以上彼が血を流すのを黙って見てはいられない。
 「お願いです、やめて下さい!」
 激しい彼の鼓動はやがて徐々に鎮まっていき、手に残っていた書物がゴトリと足元に落ちた。そしてやっと悪夢から醒めた者のようにゆっくりと私を振り返る。それは見たこともない、いつもの彼からは想像もできない凄まじい形相だった。
 だが次の瞬間、彼の上半身は私の上にくずおれてきた。
 「若様!」
 執事が走りこんできて手を貸し、彼を奥の寝室へと運ぶ。
 「何か、温かいものをお持ちしてさしあげて・・・」
 私は叫ぶように執事に頼んだ。
 書斎の戸口には使用人の人だかりがしていたが、執事が出て行こうとすると、クモの子を散らすように消えた。
 私は寝台に仰臥させた楡彦のボウタイを解いてひと息つき、室内を見回してみて重厚な彼の自室へ初めて踏み入ったことに気づいた。
 執事が温かいウイスキーを持ってくる頃には楡彦は幾分落ち着いて天井を見つめていた。 
 「おひとりにしてさしあげましょう」
 執事にうながされてしぶしぶ立ち上がった私に幼い子どものような声が追ってきた。
 「柚子ちゃん・・・ここに・・・」
 私は寝台に飛びつくように戻った。執事が静かに扉を閉める気配がした。
 「お話なら、明日お聞きします。今夜はもうお寝みになって」
 言い終わらぬうちにハッと眼を見張る。楡彦のこめかみが濡れているのだ。
 「無様だな。父にかかるとまだ洟垂れ小僧同然だ」
 「お父様も若様のためを思われるあまりのことなのですわ。ひとり息子でいらっしゃるのですもの・・・」
 「息子であるなら・・・・」
 「え?」
 彼は耐えられぬようにぎゅっと固く眼を閉じ、言った。
 「僕は樹之宮幹吾の息子ではない」
 「な、何をおっしゃいます」
 「本当のことだ。僕は祖父の樹之宮葉之助が百舌絵に産ませた子なんだ」
 百舌の鋭い羽ばたきが耳の側をかすめたような気がした。この真夜中、そんなことがあろうはずもないのに―――――。
 「まさか・・・」
 「恥ずかしいことだが亡き祖父は奉還前の習わしを断ち切れない人で、正妻のほかに数人の愛妾を持っていた。にもかかわらず息子の嫁にまで手をつけたのだ」
 「信じられません、そんな」
 「僕は見たんだよ、柚子ちゃん。十歳のとても暑い夏だった。日本館の茶室で祖父が嫌がる母を無理やり・・・・・」
 「やめて下さい!」
私はかぶりを振って立ち上がった。しかし悪夢は一向に去らない。
 「それで全て納得がいったんだ。父が異常に僕を憎んでいることも、東京に行ってしまったことも、母が祖父を恐れていたことも、母が・・・・僕を産んだことを認めようとせず未だに新婚当時の父の面影を僕に求めて信じ、疑わないことも・・・全て!」
 楡彦は仰向いたまま両手で顔を覆った。その手が小刻みに震えて止まらない。
 「楡彦さん・・・」
 我知らず彼の名を初めて呼んでいた。
 物心ついてより今までのことが走馬灯のように心を走りぬける。名も知らぬかすかな母の面影、牛島家での苦しい仕事、紅子や蒼美の蔑み笑い、牛島夫人の物差し打ちの痛さ、進太郎の陵辱、女中仲間たちの白い目・・・・。そして、知るはずもないのに稚い楡彦が祖父と母の情事を盗み見てしまったときの、彼の苦悩の表情までもがはっきりと瞼の裏に映った。
 ひとりぼっちでおい育った私は知らぬ間に心がねじくれ、楡彦を慕いながらも恵まれた境遇に嫉妬し、同時に苦労知らずと蔑んでいたのだ。
 だがこの瞬間、それらは跡形もなく溶け去った。彼が私など比べものにならぬ孤独の地獄に彷徨い続けていること――――――しかも容易に外せぬ足かせを引きずって―――――が判ったからだ。」
 その痛みを癒してあげられるのは私をおいて他にない。彼は本能的にそれを感じ取り、私を選んだのだ。共に泣き、傷を舐めあう伴侶を魂の底から望んでいるのだ。ああ、なんといたわしいことだろう。
 「君を幸せにするなどと驕りも甚だしい。こんな出生を持つ僕には人を幸せにするどころか自分の平穏な人生さえ赦されないに違いない・・・・」
 「楡彦さん・・・・!」
 苦しげに呻く彼をどうにかしてやりたい。私は決然と立ち上がった。もはや躊躇いは無い。帯止めを解き、帯を解き、しゅるしゅるという衣擦れが静寂の中に響いた。気配に気づいた楡彦が上半身を起こして眼を見開く。
 「柚子ちゃん・・・・!」
 「どうすればいいの、そんな投げやりなあなたをどうやって力づければいいの。こんな辛い夜、あなたを抱きしめて朝までいてあげるしか、私にはできない・・・・」
 「柚子香・・・・」
 楡彦がゆっくり両手をさし広げ、私は肌襦袢を肩から落とすと同時にその中へ飛び込み、彼のこうべを抱きしめた。
 その重みと栗色の髪の芳しさが早くも私を陶酔に導いた。
 「そうだったね」すっかり涙も乾き、冷静さを取り戻した楡彦の声に私は少なからず驚いたが、すでに心も身体もがんじがらめとなっていた。「君さえいれば僕は何も恐れることなどなかったんだ。そう、この可憐な痣が僕の手にある限り――――――」
 この時の、彼の眼の奥の輝きを、私は知らない。
 次の瞬間、その渇いた声からは想像もできない激しさで楡彦は胸の痣に熱い舌を押しつけたのだった。
 ――――――それはかつて進太郎に無残に踏み荒らされた、初めてのときとはなんという違いだろう。自ら望んで愛する人の腕の中にあるという思いもさることながら、まるで深い森の神秘に全身をからめとられてしまったようだ。彼の逞しい四肢はしなやかな若木さながらで、その愛し方は水面を踊るさざなみのようにひとしきり細やかに続いたかと思うといきなり瀑布の凄まじさで私の睫毛から身体の芯までも、自分の色に染め上げていく。
 「楡彦さん・・・楡彦さん・・・楡・・・!」
 次第に高みへといざなわれながら、私は窓外からの不思議な唸りを耳にしていた。
鵙ヶ沼のざわめきなのか、木々の葉擦れなのか、虎落笛のようなそれは、楡彦の熱い囁きに混じって夜通し中途切れることはなかった。




**   第 四 章

 お稽古三昧の静かな日々が戻ってきた。
 以前と違うのは、私が心から真剣にそれらに打ち込み始めたことだ。
 いずれ伯爵夫人になるという自覚が生まれたからに他ならない。楡彦のために自分を磨きたいと私は切望した。決められたお稽古の他にも昼間は楡彦の着物を縫ったり、厨房に入らせてもらって料理長から西洋料理を教わったりと、充実した日々が続いた。
 百舌絵さまもすっかり元気になり以前のように出かけることもできるようになった。
 年齢を感じさせない透き通るような肌が一層、光沢を増したようだ。楡彦と彼女の、相変わらず睦まじい場面に出くわしても、私は以前のように嫉妬にかられることは無くなった。百舌絵さまがなんと思い違いしておられようと、彼らはあくまで母子で、真に愛されているのは私なのだ、という確信があったからだ。それどころか近い将来、このひとから最愛の男性を奪い去ってしまうことを、申し訳なくさえ思うのだ。その時、彼女はどんなに嘆き悲しみ、私を呪うだろうか。病の成せること、とはいえ心が痛む。でも、楡彦も私も真実の幸せを得る権利があるのだ。そう私は何度も自分に言い聞かせた。
 玄関ホールにたたずみ、先代葉之助の肖像画を仰ぎ見る。白いあごひげを蓄えた明治の実業家は絶対的な威容をたたえ、沈黙している。この、全ての不幸の根源であるという男も責められて当然だが、百舌絵さまのような人を目の当たりにして自分のものにと欲したのも無理からぬこととも思う。
 この、生まれながらに高貴でたおやかな女性は人生に何度裏切られればよいのか、全て美しすぎる彼女の罪なのではないだろうか―――――。

* ****************************

楡彦は以前と変らず紳士的で穏やかで、父親との深く激しい確執を心の底に秘めていることなど芥子粒ほども気取らせない。
 私に対しても礼儀正しく、あの夜以来、決して私を部屋に入れず、私の部屋に踏み入ることもない。百舌絵さまの手前だけでなく、彼の潔癖さが許さないのだろう。とはいうものの、たびたび沼の畔への散歩に誘っては肩を抱いて歩いてくれる。私たちが恋人同士でいることを許されるひとときだった。ススキの穂が銀色に輝き、柿の実の朱色が眼にしみる鮮やかさの、悲しいほど美しい深まる秋の景色が私たちの歩む小道を彩っていた。
 「君が悪い。君のせいだ」彼はいたずらっぽく言う。「式は来年の初夏にするつもりだったけど、とてもそんなに待てない。年明け早々にでも繰り上げよう。―――――でも」
 彼は私の襟元にたっぷり白いレースをあしらった深緑のびろうどのワンピース姿を眺め、
 「そういう娘らしい恰好が見られなくなると思うと、咲きほころんだ花を手折ってしまうのも可愛そうな気もするけれど」
 「私は楡彦さんのそばにいられるだけでいいの・・・」
 楡彦は微笑み、白いセーターの胸に抱き寄せる。
 「今度、その服に似合うカメオのブロウチを横浜で探してきてあげようね」
 だが、ふたりの歩みがもず姫の祠の前に差しかかると決まって私の心に冷たい風が吹き抜けた。
 「なんだか怖い。ゆず姫は不幸のどん底に落とされたのに、同じ名前の私がこんなに幸せでいいのかしら。牛島家で苦しい働きを強いられている人たちや、若くして亡くなった母を差し置いて・・・・」
 「いいんだよ」楡彦はきっぱり言う。「現代のゆず姫は僕の腕の中で永久に幸せになる。そう決まっているんだ」
 「楡彦さんたら、どうしてそんなこと判るの?」
 「どうして?何故?と聞きたがる唇はこれだね」
 背をかがめて唇を重ねようとする彼の肩を急いで押しとどめる。違うのだ。私が本当に恐れているのは、伝説と対照的に私―――――ゆず姫が、百舌絵さま―――――もず姫を不幸の淵に突き落としてしまうことだ。――――――が、それを口にすることはもっと恐ろしい。
 「どうしたの?」
 怪訝な顔の楡彦に、首を振るしかない。
 もず姫の祠は数百年の沈黙を守って今日も沼を見下ろしていた。

* ****************************

そんなある日のこと、楡彦は私をこの地方の名士が集う、本格的なパーティーに誘った。
「行儀見習いとしても勉強になると思うんだが、どうですか、百舌絵さん」
夕食の席で彼は隣席の百舌絵さまに伺いをたてた。
 「そうですわね。お出かけあそばせ、柚子香さん。私、ダンスパーティーはどうも苦手ですの。あなたが代わりを努めて下されば私も安心だわ」
 百舌絵さまはにこやかに賛成し、楡彦が私だけに判る角度で片目をつむってみせた。
 「でも私、ダンスパーティーだなんて」
 「大丈夫、ずいぶん上達したよ。もうどこへ出しても恥ずかしくない。ドレスは僕が見立ててあげよう」
 彼が選んだのは、柚子の実を思わせる柔らかな黄色のデコルテだった。シルクタフタの素晴らしい肌触りの生地で、たっぷりとしたひだが腰から下を華やかに演出している。
 当日、支度をしていると百舌絵さまがやってきてにこやかに賞賛してくれたが、にわかに部屋を出て行ったと思うと、ほどなく大きな生成り色のレースのショールを持って戻ってきた。そして私の胸元に慣れた手つきでドレープを幾重も作りながらあしらっていく。ブロウチで留め終えるとそれは、元からのデザインであったように自然に、そして一段と華やかさを加えていた。
 私ははっとした。百舌絵さまはデコルテの胸のラインから見え隠れしていた例の痣をうまくレースの下に隠してくださったのだ。
 そればかりか芳野に命じて素晴らしい真珠のネックレスとイヤリングまで持って来させ、
 「私がこちらへ嫁いできた折、御前がプレゼントしてくだすったものなの」
 それは愛情と信頼深かった頃の幹吾氏の言わば形見に違いない。
 「そんな大切なお品を私なんかがお借りしてもよろしいのですか」
 「ええ、どうぞ。御前がとても目をかけておいでのお嬢さんに身に着けていただければ私も嬉しいわ」
「・・・・ありがとうございます」
 胸が詰まった。夫の愛がとっくに冷めてしまったとも知らず、息子を夫と勘違いしていることにも気づかず穏やかな微笑を浮かべる百舌絵さまが哀れでならない。
 「まあ、お嬢様、なんておきれいなんでしょう!」
 ケープを持って入ってきたカヨの素っ頓狂な声で、部屋に笑い声が満ちた。
 何本ものロオルパンのように、ねじり巻いた髪を淡黄色のりぼんで飾り、ひじの上までの手袋を着けるとようやく支度ができあがった。
 タキシード姿の楡彦がぴかぴかの懐中時計を持ったまま顔を覗かせた。
 「そろそろでかけましょうか」私の姿を眺めてうなづく。「完璧だ」
こうして私はここへ来て以来、初めて外の世界へと踏み出したのだった。

* ********************************

クルマを降りると会館には関東屈指の名士が続々と到着していた。
欧州での大戦の勃発で、連合国側に参戦して以来、資本主義の考えが広まり、最近はこういう贅を尽くしたパーティーは珍しくなっているのだ、と楡彦が教えてくれた。
 煌々と灯されるシャンデリアが私を緊張させ、高揚させた。
 「そんな怖い顔しないで」楡彦がクスリと笑う。「君は笑顔が何よりの装飾品なんだから」
 そう言われても、社交笑いの身についている彼とはわけが違う。
 お腹の出っ張った、貫禄充分の年配の紳士や本物のエレガンスを自分のものにしている婦人方に混じって暗紅色の絨毯の上を辿ってホールに入ると、そこはまさに夢の世界だ。
 楽団が美しい調べを奏で、そこここで上流の人々が話しの輪をつくって歓談に興じ、宝石のように色とりどりの美しいカクテルを運ぶ蝶ネクタイの給仕たちがきびきびと行き来する様はおとぎ話の中の夜会そのもの――――――。
 中央のフロアではもうダンスを始めている人たちも見られる。
 私たちが奥へ進んで行くと、何人かの殿方がわらわらと寄ってきた。軍人もあり、芸術家と思われる風貌の人もあるが、皆、楡彦と同年代の青年たちだ。
 「高等学校や大学時代の悪友どもだ」
 楡彦がひとりひとり紹介し、私はどぎまぎしながら握手を交わした。
 「珍しいな、楡彦。お前がダンス・パーティーに来るとは。しかもこんな初々しい人をパートナーに。どういう風の吹きまわしだ。
 ずけずけとした物言いの、銀縁眼鏡の青年は浅黒く逞しい面構えで、(静)の印象の楡彦とは対照的な(動)の男性だということはひと目で判る。
 「海藤優馬です!よろしく、美少女!」
 大きな声で自己紹介し、カクテルグラスをかざした。
 「彼は気楽な僕とは違い、裸一貫から海藤海運を築いた士族で、今や海運業界の若きプリンスだ」
 楡彦は言った。
 「のんきなことを言ってていいのか、楡彦?お前がお父上の跡を継げば正面きって俺とはライバルになるんだぞ」
 「跡を継げば――――――な」
 「ひとり息子なんだからお前しかいまい。いいよな、生まれた時から財閥のオーナーの椅子が待ってるお人は。だが、負けんぞ。世間の奴らは船成金と言って馬鹿にするが、俺はこの景気が終わっても生き残ってやる。石にかじりついてもお前たちサラブレッドには負けん」
 多少酒が入っているせいだろう、盛んに気炎を上げる。
 「わかった、わかった。お手柔らかに願うよ」
 楡彦が制すると、優馬は急に私に向き直り、
 「私はまだ妻帯者ではありません。よろしく、美少女!」
 「あいにく――――――」軍人のように敬礼の姿勢をとっておどけてみせる彼に、楡彦は決定的な防御壁を繰り出した。「こちらの柚子香さんは僕のフィアンセでね。皆さん、どうぞよろしく」
 周囲の男性は揃って、一瞬言葉をなくし、それからワッと歓声を上げた。
 「やったな、おめでとう!」
 「樹之宮の奴、どこからこんな可愛い人を」
 「そうだ、そうだ、隠していたとは許せんぞ」
 殺到する好奇の目と質問の一斉攻撃に楡彦は苦笑し、
 「隠してなんかいないさ。なんせ、この夏の終わりに運命的な出逢いをしたばかりなんだ。まだ家へ来てもらって二ヶ月あまり、目下、花嫁修業猛特訓中だ」
 一同はもう一度歓声を上げた。
 「もう樹之宮家で暮らしてるのか?」
 「さすが楡彦、打つ手が早い。誰にも奪われないよう、考えたな」
 私は顔から火が出そうになりながら、話題が移るのを願っていたが、それどころか話の輪の外の年配者の間にも飛び火していた。
 「樹之宮伯爵様のご子息がご婚約あそばされたそうですわよ」
 「ほう、お相手は代議士の令嬢かね、それとも軍人の家の?」
 「うちの娘がこの先何週間も泣き暮らす思うとたまりませんわ」
 背後の話し声に、一層小さくなっていると、新しいワルツが始まり、わたしたちはやっと解放された。周りの人間が散ってから、楡彦は私に向かって丁寧に一礼した。
 「踊っていただけますか?マドモアゼル」
 「いきなり、駄目ですわ。そんな・・・・」
 「目を瞑って、いつもの、屋敷でのレッスンだと思えばいい」
 半ば強引に手を取って、彼はステップを踏み始める。無我夢中でついていくしかない。
 ――――――私は至福の中心にあった。
 上流階級の人たちさえうらやむ位置にいることを誇らしく思い、驕った気持ちが膨らんでいくのを止めることができない。
 甘いワルツは瞬く間に過ぎ、ゆるやかな調べに移る頃には周りの喧騒も遠ざかり、私の世界には楡彦しか存在していなかった。
 腰にあてられた彼の掌の温かさを感じながら、うっとりと広い胸に頭を預けて囁いた。
 「ちっぽけな柚子の実は――――――」
 「え?」
 唇を黄色いりぼんで塞がれながら、彼は聞き返した。
 「ちっぽけな柚子の実は長い間、道端の泥の中にうち捨てられていました。母なる樹はとうの昔に朽ち果て、柚子の実は自分は決して
そうはなるまいと思いながら、日々、虫に食い荒らされるのをどうにもできないまま、泥の中であがいていました。ある日、そこへひとりの旅人が通りがかり、ふと気づいて柚子の実を拾い上げてくださった・・・」
 「命が危うかったのは、柚子の実だけではなかった」楡彦が後を続けた。「その実の果汁は瀕死の旅人の命を永らえさせてくれたんだ。実の種子は旅人の手で大地に埋められ、今、確実に芽を出し根ざし始めている。そしてそれはやがて豊かな葉を繁らせ、花を咲かせ、鈴なりに実をつけ旅人だった男の喉を潤し続けるだろう。永遠に――――」
 私たちはステップを踏むのを止め、踊りの渦の中で見つめあった。

* ************************************

照明のトーンが変った。
踊り終えて引き上げてくると、先ほどの優馬が飲み物のグラスを渡してくれた。
 「次は是非、私と」
 にこやかに笑ってからくるりと楡彦の方へ向き直り、
 「おい、ちょっと」
 と、彼をカーテンの陰に連れて行った。
 フロアの奥では女性によるピアノ独奏が始まっていた。その調べに耳を傾けながら、渡されたジュースをひと口に飲み、ほっとしていると、楡彦たちの話し声が切れ切れに聞こえてきた。
 「婚約だと?何の冗談だ?女学校に上がりたて同然の子どもじゃないか」
 「彼女は小柄だが十六歳だ。結婚してもおかしくない年齢だ」
 「そんなことを言ってるんじゃない。隠岐真宝子はどうするんだ、と尋いてるんだ。今夜も来ているぞ。そら」
 (隠岐・・・・)
 確か、楡彦の父親が言っていた、彼の縁談の相手だ。にわかに心臓の音が耳につき始めた。今夜、ここに来ていると聞こえた。
 (この広いホールのいったいどこに・・・・)
 きっと私たちが寄り添って踊る姿を見ていたに違いない。どんな女性だろう。
 軽やかなピアノの音色にかき消されそうになる、カーテンの向こうからの楡彦の声を聞き取ろうと私はよけい耳をそばだてた。
 「・・・・の話なら父親同士が進めようとしていただけだ。僕には毛頭そのつもりはない。
 「何だ、その言い方は!」優馬は声を荒げた。「話の上だけの清いお付き合いでした、なんて言わせんぞ」
 「じゃ、こう言おう。真宝子とはお互い納得の上で別れた」
 私の胸に焼け火箸が突き刺さった。
 楡彦を独占するだけでは飽き足りず、彼の過去にまで嫉妬するのは醜いことと判っていても、どうすることもできない。
 優馬は尚も食い下がった。
 「納得の上?嘘をつけ。彼女はお前にぞっこんだぞ」
 「とっくの昔に愛想をつかされたさ。君としたことが情報にカビが生えている」
 ピアノ独奏が終わった。女性奏者はグランドピアノの席を立ち、盛んな拍手を受けた。
 今度は楡彦から優馬に、
 「そういうわけだから安心して彼女にアプローチしたまえ」
 「俺は、べつに」
 「だけど君、今は恋愛より仕事だろう」
 「何のことだ?さっきも言ったとおり、大戦景気のおかげで順風満帆だが」
 「父を見くびらないほうがいい――――ということさ」
 「そりゃあいったい・・・・」
 優馬が問い返そうとした時、さっきまでピアノを弾いていた女性がフロアを真っ直ぐ突っ切って、こちらへやってくるのが見えた。頬の線でぷっつり切りそろえた髪が目を惹く。血のような朱色の何の変哲も無いストンとしたイブニングドレスをまとっているが、はっきりした目鼻立ちと豊満な身体はちんけな飾りなど必要としていない。金属的な美しさのする、百舌絵さまとは全く違ったタイプの美女だ。
 「お久しぶり。お珍しい方にお会いすること」
 鮮やかな紅の唇を魅惑的に崩し、彼女は男たちに声をかけた。
 彼女だ。彼女が隠岐真宝子なのだ―――――。
 私の中の直感が囁き、思わずカーテンの奥に後じさった。とても私のような田舎娘など足元にも及ばない、最先端の女性だ。これほど楡彦に似つかわしい人もあるまいに、何故よりによってその後にちっぽけな小娘を・・・・。
 劣等感が岩のように重くのしかかってきた。
 「今、あなたの噂をしていたところだ」
 楡彦の口調は馴染みの者に対するそれだ。
 「まあ、道理で演奏中に嫌な感じがしたわけね。悪口でしょう」
 「とんでもない。海藤と、ますます腕が冴えたなって話していたのさ」
 「お褒めにあずかって光栄ですわ。あなたこそ、めざましいご活躍のお噂、父から伺っておりますことよ」
 私はいたたまれずテラスから中庭へ下りた。これ以上、彼らの会話を聞きたくはなかった。楡彦の真実を、心からの涙を拭ってやれるのは私だけだと言い聞かせてみてもやはり辛い。
 テラスの足を兼ねた円柱にもたれて、十月にしては生暖かい夜風に吹かれていると頭上から人の気配がした。漏れ聞こえる声は真宝子と優馬のふたりであるらしい。
 「楡彦が婚約者を連れてきてるのを知ってるかい」
 「ええ。息の合ったダンス、たっぷり拝見させていただいたわ」
 「―――――で、ご感想は?」
 「悦ばしいことですわ」
 「つきっきりで花嫁教育だとさ。まるで光源氏と若紫じゃないか」
 優馬はふふんと鼻で笑った。
 「私はさしずめ、飽きられ捨てられた六条の御息所とでもおっしゃりたそうね、海藤さん」
 「いや――――――」優馬の声はややしっとりとしたものに変った。「あんたは朧月夜の君だな。他の男のものになっても源氏を忘れられず、何度切れても糸を手繰り寄せられるように関係を続け、老境に近くなってもなお」
 「思いを断ち切れないというのなら怨霊となる六条の方のほうが一枚上手でしょうけれど、生憎どちらも私には判らないわ。未練を引きずって生きるのは性に合わないの」
 「その言葉、信じていいのかな」
 「あなたのご自由に」
 男の熱い誘いをさらりとかわした真宝子は足早にテラスから石段を降りて来た。とっさのことに、私は身を隠し損ねて彼女の面をじっと見つめる。
 「あら」勝気そうな大きな眼が輝いた。「あなた、楡彦さんの若紫ね。立ち聞きだなんて源氏の君に言いつけますわよ」
 ルビーが微笑んだ、という風情の艶やかさだ。対する私はぶざまに顔をこわばらせ、
 「失礼いたしました。そんなつもりではなかったのですが・・・・」
 「ほほほ、冗談よ」真宝子は百舌絵さまの貸してくださったネックレスやイヤリングごと私を眺め回した。「ふうん、楡彦さん、ずいぶんお若い方をもらわれるのね。お名前は?」
 「柚子香・・・牛島柚子香です」
 「私は隠岐真宝子。女流音楽家の端くれよ。楡彦さんや海藤さんとは学生時代からのおつきあいなの。ご存知ですわね、縁談があったこと」
 「・・・・・・」
 お愛想笑いも返事もできない自分がつくづく子どもだと思い知らされた。
 「そんな恐い顔しなくっても大丈夫。楡彦さんを奪い返そうなんておもってませんから」
 口元に手をあててころころ笑ったかと思うと、急に彼方の噴水をきつい眼で睨み、
 「あんな方、こちらから願い下げ!」
 と、吐き捨てるように言った。そして茫然とする私にまばゆいイヤリングが触れるほど顔を近づけ、
 「柚子香さんとおっしゃったわね。あなた、彼のお屋敷にいらっしゃるそうね」
 「は、はい」
 「じゃ・・・ご存知よね、ア・ノ・コ・ト」
 意味深長な言い方を聞いたとき、一層香水が鼻をついた。
 「・・・・・・?」
 「彼のお母様のことよ。おつむりのタガが少々おゆるい―――――」    
 頭にカッと血が昇った。百舌絵さまのことをそんな風に言われるのは我慢がならなかった。
 「お言葉ですが、失礼だと思います」
 「あら、あなたが何もかもご承知でご婚約なすったのならそれでよろしいのよ」
 「楡彦さんはとてもお母様思いでいらっしゃいます。お母様のことは、その―――――ご病気で仕方なく・・・・」
 「お母様思いですって?」真宝子は気位の高そうな細い眉を寄せた。「おつむりのタガがはずれてらっしゃるのは伯爵夫人ではなく楡彦さんの方だわ」
 あまりの言われように額にじっとり汗が浮かんできた。いったい、この女性は楡彦さんに怨みでもあるのだろうか。
 「何のことをおっしゃっているんですか」
 「勿論、楡彦さんがお母様のご夫君の役目をしてらっしゃるのは昼間だけだとお思いなの?」
 一瞬―――――空白が頭の中を塗りつぶした。真宝子のぎらぎら光る瞳が間近に迫り、息が苦しくなり、周囲の景色がぐらぐらと揺れ始めた。
 「ねんねさんだこと。ディナーの口直しってところかしら。私はデザートにされるのはごめんだわ!獣同然の人と結婚するなんてまっぴら!」
 言葉とは裏腹に、この女性が今も楡彦を激しく愛していることが伝わってきた。だが、
そんなことはどうでもいい。真宝子の脅威は急速に失せていった。たった今、私を虐げているのは彼女の放った言葉だ。
 とても立っていられずテラスの足に寄りかかった。
 (まさか・・・・。嘘よね、楡彦さん!この方のおっしゃることなんか・・・・)
 少し前に離れただけなのに、楡彦に会いたくてたまらず、同時に永遠に会いたくないと思った。
 「柚子ちゃん、そんなところにいたのかい」
 頭上からその、最も望む、最も恐れる声が降ってきて私はビクンと身体が揺れるのを感じた。
 見慣れたシルエットがテラスに現れ、軽やかに階段を降りてくる。入れ替わりに昇っていこうとする真宝子に気づいた楡彦は、途中で足を止めた。
 「真宝子――――――」
 「あなたの可愛い若紫の君にお近づきのご挨拶をしておりましたの。あなたに夢中ね。あてられちゃったわ。ゆめ、裏切ったりなさらないようにね」
 「勿論だとも。失恋の痛手はよく知っているからね」
 「奇遇だこと。私もよ」
 真宝子は高らかに笑いながら彼の面前をすりぬけ、階上へ姿を消した。
 楡彦は庭に降り立つと私の手を取り、
 「放っておいてすまなかったね。長老方に捕まって、一説拝聴させられていたんだ。さ、おいで。優馬の奴が君と踊りたいと言ってきかないんだ。相手してやってくれないか?」
 導かれるままホールに上がると優馬がすぐに駆け寄ってきた。
 「やあ、いたいた。さっきの約束通り私と踊ってくれるでしょう、美少女?」
 彼の誘いや周囲の華やかな情景などすっかり色褪せてしまっていた。私は素っ気なく言った。
 「嫌です。私、楡彦さんとだけしか踊りません」
 「柚子ちゃん!」
 楡彦と優馬は揃って豆鉄砲を食らったように後の言葉を無くした。側に居合わせたお仲間たちから口笛が上がるのもかまわず、私は自分から楡彦の手を取ってフロアの中央に出た。
 「楡彦、覚えてろよ。お前ばかりが何故もてる!」
 優馬が給仕からボトルをひったくって自分のグラスを満たし、あおるのが視界の隅に映った。
 「いけない娘だね、柚子ちゃん。殿方の誘いをお断りしては失礼だよ」
 ようやくワルツに身を任せながら、楡彦はやさしくたしなめた。
 「いけないのは楡彦さんの方です」
 「何を拗ねてるの?」強張った顔を持て余している私に気づいて彼は苦笑し、「さては隠岐真宝子のことを妬いてるんだな。なんだ、そうか」
それならどんなに気が楽だろう。私は弱弱しく微笑んでみせるのがやっとだった。

* *********************************

クルマがひた走る。
鵙ヶ沼の屋敷へのつづら折の道を、闇の中ひた走る。
宴がお開きになる頃、帰途につく人々のドレスやモーニングの裾をはためかせていた湿った風は一層重くなり、途中から横殴りの雨を車窓に吹きつけ不気味な唸りを響かせた。
 「まいったな。台風くずれが来ていたらしい」
 高まる風の声と時折襲い来るザアッと砂を撒かれるような雨音に、私の心の暗雲はますます鉛色に垂れ込めていた。
 「恐くないよ、僕がついてる」
   肩を抱き寄せる楡彦の胸元はいつもと変らず髪の甘い香りと煙草の匂いに満たされ、安らぎをもたらすが今夜は灼けつくような疑惑がいくら振り払ってもはなれない。
 その気だるい戦いに根を上げそうになった時、クルマはようやく屋敷に到着した。召使があたふたとコウモリ傘で出迎え、玄関で雨露を払ってからやっと二階の自室にたどりつくと、もう真夜中だった。
 楡彦は毎夜のお寝みの接吻をしようと私の頬に触れたが、蒼ざめた面に気づいたのか、
 「初めての場所で疲れたようだね。早めに湯を使って温かくしてお休み」
 そう言ってこめかみに軽く口づけただけで背を向けた。
 壁の装飾燈がぼんやりと彼の背中を浮かび上がらせやがてそれは琥珀色の闇に没した。
 私は微動だにせず、彼の消えていった空間を見つめていた。じっと息を潜め、野生の獣のように我慢強く―――――。
 やがて、足がひとりでに前に出た。忍びやかに彼の跡を辿り始める。
 長い廊下の彼方に、再び楡彦の姿が浮かび上がり、自分の部屋の前に立つのが見えた。ここまでは私も来たことがある。記憶に焼きつけられた、たった一度彼と結ばれた夜の事だ。
 だが、その先は――――――。
 その先の角を曲がると突き当たりになっており、百舌絵さま専用の一角になっていることは召使からも聞き知っていた。普段は芳野だけしか立ち入りを許されない、屋敷の聖域である。
 楡彦は自室の扉のノブに一端手をかけたがそれをやめ、尚も先へ歩き出した。
 (まさか・・・まさか・・・)
 私はよろめきながら、それでも憑かれたように後を追い、曲がり角から息を殺して様子を窺った。
 木彫りの艶が美しい扉がひとつ。
 楡彦はその前に立ち、静かに二つ叩いた。ほどなくそれは開けられ、
 「お帰りあそばせ、御前」
 百舌絵さまの若やいだ声。
 ――――――そして、扉が閉じられる刹那、私の網膜に焼きついたのは、楡彦の後ろ髪に滑り込む彼女の白い指だった―――――――――。
 戦慄に近い衝撃が襲ってきて、足元には地獄の深淵がぱっくりと口を開け私を飲み込もうとした。反射的に後じさった背中に、突き当たったものがある。
 淀んだ空間に、芳野がいつもの無表情をさらに石仏のように張りつかせて立っていた。
 「何の御用ですか。ここは奥様と若様以外誰も立ち入れないことになっております」
 「これを・・・・」
 半ば無意識に、私は震える手でもどかしくイヤリングとネックレスをもぎ取り、彼女に手渡した。そして無我夢中でその場を離れた。まるで悪魔に追われているかのように―――――。


     第 五 章


 気がつくと私は嵐の中を、柚子色のドレス姿のまま彷徨っていた。
 目を開けていられぬほどの豪雨。そして容赦なく襲い来る烈風に、木の葉のように翻弄されながら、何処へ行くあても無いのに進もうと焦っていた。雨と風の音だけが支配する真っ暗闇の中、全身濡れそぼち頭の芯まで凍りつき、悲しいのか嬉しいのか、生きているのか死んでいるのか、さえもはや朦朧とした意識の彼方だ。
 その時、めくらめっぽう踏み出した右足が地面を失い、危ういところで側の木にしがみつく。目の前に沼が迫っていることが判って、改めて心臓に衝撃が走る。沼は急激に水嵩を増し、轟々と波立ち吠え狂っていた。
 「・・・・ゆ・・・・ず」  
 誰かが呼んだような気がした。雨の雫が滝のように流れる木肌につかまったまま耳を澄ましても、雨と風の音が激しく何も・・・・・・いや、確かに、
 「ゆず・・・・よくも・・・!」
 また聞こえる。夥しい水滴に耐えながら目を凝らしてみると、沼の上の漆黒の空間にボウと蒼白いものが仄かに見えた。
 「よ・・・くもわらわの上様をたぶらかし・・・・」
 ぞっとするほど深い、咽び泣くような声がそう言った。
 「ご寵愛をひとりじめし・・・・おお、憎しや柚子姫よ――――――。赤子もろとも黄泉の国へ連れ去ってくれようぞ!」
 いきなり、蒼白いものは揺らめいて形を成し、女の姿となって両腕を伸ばしてきた。その顔は、恐ろしい形相の顔は、まさしく百舌絵さまその人だった―――――――――。
 「きゃああああああっ!」
 自分の声と思えぬ絶叫が嵐の空間に逆巻いた瞬間、百舌絵さまの姿は蝋燭の灯火が吹き消されるように闇に還った。
(今のは・・・・)
 己が心が見せた幻想に違いない。嵐より暗闇より百舌絵さまを恐れる私自身の心の鏡に違いない。
 不意に彼方から犬の吠え声がし、続いて馬のいななきと逞しい馬蹄音が近づいてきた。
 「柚子ちゃんっ!そこにいるのは君かっ?」
 楡彦だ!反射的に身を翻したがそれより早く鞍の上に引きずり上げられた。だが、嵐の狂乱が一層激しさを増し、馬は進もうとしない。楡彦は無言で雨合羽を脱いで私に着せかけ、馬を下りると手綱を引いて怒涛の中をじりじりと歩み始めた。

* ***********************************

やっとのことで狩猟小屋らしい丸太の建物にたどり着き、転げ込むように内部に入ったとたん、楡彦は私の肩をつかんで揺すぶった。
 「どういうつもりなんだ!カヨが気づいて知らせてこなければ君は今頃沼にのまれていたんだぞ!」
 そして背の折れるほど抱きしめ両手で顔をはさんでもみくちゃにした。
 「心臓がひしゃげるかと思った・・・・。お願いだ、無茶をしないでくれ」
 かれの髪から滴る雨の雫を頬に受けながら、私はあまりの寒さに頭の中さえ、凍りついて茫然としていた。
 楡彦は非常用のランプを探し出して灯し、ずぶ濡れの上着を脱いでその下の乾いたシャツを私に与え、小屋の隅にあった薪木を中央の炉に運んで火を点けた。共に小屋に入ってきていたアイザックとパウエルが派手に身震いして雫をはらい、私の膝に擦り寄ってきた。
 風雨はますます吠え狂い、ちっぽけな小屋など吹き飛ばしてしまいそうな唸りを上げていたが、黒木の天井に炎の影が踊る頃にはやっと手足の感覚が戻ってきつつあった。
同時に、苦悩の記憶も―――――。
 黙りこくって薪をくべる楡彦に、恐る恐る目を向けるとその眼は父親との相克を打ち明けた時のように険しい色を帯びている。そして私自身の眼も彼に負けないくらい荒廃した光を発していることがよく判っていた。
 「・・・・・嘘」
 私は彼のシャツを握りしめたまま喘ぐような声を洩らした。
 「――――――え?」振り向いた楡彦の顔がさらに怒りに歪む。「早く着替えなさい!
凍え死んでしまうぞ」
 言いながら近づいてきた彼を、精一杯睨みつける。
 「嘘!全然心配なんかでないくせに!私なんかどうなったって構わないくせに!」
 「何を言ってる。さあ、火の側においで」
 「触らないで!」
 差し伸べられた手を振り払って後じさるとさすがに楡彦もただならぬ様子を感じ取った。
 「いったいどうしたと・・・」
 「汚らわしい。あなたは貴公子の仮面を被ったケダモノだわ。私、見たの。知ってしまったのよ」
 つい破滅的なことを口にする恐怖に、どうかなりそうだ。唇がわななき、何度も開いたり閉じたりしてから、声を押し出した。
 「あなたと・・・あなたと百舌絵さまのことを・・・・!」
 「柚子香・・・・!」
 何のことだ、ととぼけて欲しかった私の一縷の望みはあっけなく打ち砕かれた。世にも恐ろしい悪魔に遭遇してしまったかのように、驚愕の表情を張りつかせたまま、彼は黙り込んでしまったのだ。
 「知ってしまったの。知ってしまったのよ」
 濡れたドレスを握りしめ、私はかぶりを振って泣き叫んだ。ここにこれ以上長くいてはまた彼の磁力に捕らわれてしまいそうだ。急いで扉に走りより、再び怒涛のただなかへ出て行こうとした。
 「柚子ちゃんっ・・・!」
 楡彦がすばやく扉の前に立ちふさがり、さっきの何倍もの力で抱きしめた。
 「いやっ離して!」
 「行かないでくれ!行かないでくれ!行かせやしない!」
 彼の胸板は鋼鉄のようだったが私もあらんかぎりの力を振り絞って逃れようとした。争い、もつれ合って藁の上へ転倒し、眼と眼をぶつかり合わせた時にはお互い肩で息をしていた。
 「過ちを犯してしまったのは欧州から帰ってきてすぐだった――――――」
 私を組み敷いたまま暗い目をして彼は言った。聞きたくない・・・・・!」
 彼は私が耳をふさごうとするのを許さなかった。
 「それまで意識の隅にも置いてくれなかった僕の存在をあの人は認めてくれたんだ、お帰りなさいって。父と間違えられてのことではあったけどあの人が生まれて初めてかけてくれた言葉だったんだ。僕の感激がどんなだったか誰にも判らないだろう・・・・」
 「・・・・・・・」
 「同時に僕を夫と慕ってくるあの人が哀れで・・・母の匂いのしないあの人があまりにも可憐で美しくて・・・・・」
 暗かった彼の瞳が語るにつれ夢見るように潤む。
 「やめて・・・・」
 「あの人には罪の意識など無い。責められるのは僕ひとりだ。こんなことがいつまでも赦されるはずがない、神が見過ごされるはずがない!それはよく判っているんだ」
 「・・・・・」
 「僕に君を引き止める資格なんか無いことも―――――。だが柚子香、もう君は僕にとっていなくてはならない人になってしまった。生きる糧なんだ、どうか行かないで・・・・僕を見捨てないでくれ!」
 「私に、百舌絵さまと一緒にあなたのお人形でいろというの・・・・」
 「君はいつだって素直だったじゃないか。今度だってきっと・・・・」
 「あなたに連れてこられてきた頃ならどんなことも言いなりになったでしょう。でも、今の私はあの頃の私ではないの!だって・・・・あなたを愛してしまったんですもの!いや!いや!百舌絵さまと並べられて慈しまれるなんて、死んでもいやよ!」
 涙が飛び散った。私は彼の身体を押しのけ、藁の中から立ち上がった。歩き出そうとしたが、彼の腕が胴を捕らえて一歩も動けない。
 「もし・・・」
 私の腹部に顔を押し付けたまま彼のくぐもった声が湧きあがってきた。
 「もし、君だけを愛すると言ったら・・・・」
 思わず見下ろすと彼の瞳の中に真剣な炎が燃えていた。
 「わたしだけを・・・・?」
 「もっと早く決断しなければいけなかった」
 私は首を振った。
 「あなたと百舌絵さまの絆は深すぎる。普通の母子のようでなかった分、よけいに」
 「じゃあ、もうやり直せないのか。僕という人間は伴侶を得て平凡な幸せを望むことも叶わないのか」
 楡彦はすがるように視線をからみつかせてきた。私のような小娘に一縷の望みを賭けているのだ。私の中で、愛しさと蔑みと慕わしさと怒りがせめぎあい、心を押しつぶそうとした。
 私は大きく息をつき、もう一度首を振った。心の中の争いにも楡彦との言い争いにも疲れてしまった。尚も続く嵐の咆哮の向こうから、屋敷からの救助の人々の呼ぶ声がかすかに聞こえてきたのはちょうどその時だった。
 長かった嵐の夜がようやく白々と明け初める頃、私は精も根も尽き果て乗せられるまま馬の背に揺られていた。楡彦はしっかりと手綱を持ち他の誰にもその役を譲りはしなかった。
 召使の男たちに前後を護られ屋敷への道を戻る途中見上げる空は、まだ嵐の脅威覚めやらず不気味な紫色の雲が、時折黄金に染まり急ぎ足で流れていく。辺りの低木や草花はことごとくなぎ倒され、嵐の凄さを物語っていた。振り返ると沼は途轍もなく増水し、日頃の透明さを失って鉛色に淀んでいた。
 昨夜の幻影が脳裏をよぎり、私は毛布にくるまれながら、しゅくっと身を震わせた。
 屋敷を眼前にしたところで、前を歩く楡彦の肩がいきなりぐらついたと思うと膝をついてしまった。召使のひとりがガバと駆け寄り、顔色を変えた。
 「こりゃいかん、ひどいお熱だ」
 それからは大騒ぎになった。楡彦は屈強な下男に支えられて運ばれ、私はひとり捨て置かれた。屋敷の中をばたばたと召使たちが行きかい、主治医が呼ばれて駆けつけ、彼の部屋は百舌絵さまだけが詰めきりになり誰一人入ることは許されない。百舌絵さまの驚きは察して余りある。
 私は暗い部屋でひとり両手をもみしぼって回復を祈るしかなかった。
 「本当にびっくりしましたよ。なんでまたあんな嵐の中へ」
 呆れて尋ねるカヨに本当のことが言えるはずもない。
 「ちょっと粗相をしてしまって若様に叱られ飛び出してしまったの。でも、こんなことになるなんて・・・・」
 「若様は見かけよりもお弱い質ですからね」
 「奥様はきっと私のことを怒っておいでだわよね」
 「そんなことはありませんとも。奥様はものの道理の判った、お優しいお方ですから。べつに、柚子香お嬢様がやろうと面ってしなすったことでもなし――――――」
 しかし、今度百舌絵さまとはいったいどんな顔で会えばいいのだろう。もちろん、楡彦を病の床につかせた申し訳なさもある。だが、それより今、こうして無為な時間を過ごしている間にも彼の額にあの人の白い手が乗せられ汗を拭き薬を飲ませ―――――などと考えるだけで胸の奥が灼けつくようだ。
 殿のご寵愛を奪われて狂乱したもず姫の心中さえ判る気がした。

* *******************************

何日かして楡彦は快方に向かった、とカヨが教えてくれた。
今まで屋敷を出る勇気もなく茫然と日を送っていたが、その時ようやく決心した。身ひとつで引き取られたのでまとめる荷物も無い。今度こそそっと抜け出そうと召使の目に触れぬよう裏口への階段を降り始めた時、はっと立ちすくんだ。
 階下のチョコレエト色の床を踏みしめて、楡彦が立っていた。
 病み上がりの白い頬に、紬の深い藍がよく映える。数日前私が縫い上げたものだ。袂に入れていた両腕をゆっくり引き抜き、彼は私を真っ直ぐ見上げた。
 「あの・・・・もうお加減はよろしいのですか」
 上ずる声で問うと彼は小さくうなずき、
 「一服立てるからおいでなさい。仰樹庵で待っている」
静かな眼で言い返すときびすを返した。
 仰樹庵――――――。
 日本館の一隅に建てられたそれは、幼い日の楡彦が母と祖父の情事を盗み見てしまったいわくつきの茶室だ。毎週の茶道のお稽古にも一度も楡彦が使おうとしなかったことが今になればうなずくことができる。しかし、どうして急にその庵へ―――――?
彼の誘いを無視しようと思えばできた。だが私の足は吸い寄せられるように仰樹庵に向かって歩き始めていた。
 水底の碧を思わせる高い空の日だ。あちこちでカサコソと風に弄ばれる落ち葉の音を聞きながら露地に入ると、藁葺き屋根を覆うように、春楡の古木が枝を広げていた。楡彦の祖父が彼の名をそれに因んでつけたという木である。
 紫がかった葉がざわざわと風に揺れ、その度に雪のように夥しく地上に舞い降りた。そのうちのひとひらを眼で追い、はっと気づくと待合の腰掛のに百舌絵さまの姿があった。彼女もまた、楡彦に招かれたに違いないと、直感が囁いた。
 富士額の生え際も爽やかに、彼女の面は清廉そのもので怒りのかけらも無い。
 私は嵐の夜の浅ましくおぞましい幻想を心底恥じた。世に、百舌絵さまほど鬼女とほど遠い女性があるだろうか。
 おもむろに歩み寄り隣席に腰掛けても彼女は私が来たことなど全く気づかない様子で木々の間から覗く、輝く沼の面に見入っていた。かける言葉がみつからない。この数日、私を苦しめていた嫉妬の業火は百舌絵さまの聖らかさに浄化されたかのように消えてしまっていた。
 「鵙ヶ沼の伝説、お聞きになって?」
 彼方へ視線を投げたまま、唐突に彼女は言った。私がおっかなびっくりうなずくと、
 「いかがお思いになって?」
 「とても哀しいお話ですね」
 「哀しい?」そこで初めて百舌絵さまの切れ長の眼がこちらを向き、きっぱりと言った。「哀しいお話ではありませんわ」
 「でも、もず姫がゆず姫の赤子を抱いて身を投げるという。――――――」
 「あなたがお聞きになったのはそこまで?」
 「は?」
 「その続きがありますのよ」
 百舌絵さまの語った、伝説の続きはこうだ。

* *************************************

もず姫の亡骸はついに発見できなかった。
ゆず姫は愛児を奪われて嘆き悲しみ、病の床についてまもなく消え入るように亡くなった。ところがその後、赤子の姫―――――ゆず小姫と呼ばれる――――――は漁師の手で奇跡的に助けられたことが判った。当主の殿は喜んだが同時にもず姫の臣下が彼女の遺志を貫くことを恐れた。そこで、腹心の臣下に隠居させ、密かに姫の身柄を預け、人里はなれた山中で養育させることにした。
 一方、もず姫の遺したふた目と見られぬ異形の若君にも異変が起きていた。
 母の投身した悪夢の一夜が明けると、若君は一点の欠けるところもないそれは美しい赤子に変っていたのだ。母の非業の最期を知らずすくすく育つ姿は神々しいまでに凛々しく、人々は鵙ヶ沼の主となった母君がこの若君を護っているに違いないと噂しあった。
 月日は流れ、若君は元服も済ませ、逞しい武士に成長した。
 ある日、鷹狩に出かけた若君は山中深く分け入りすぎ、家臣の者ともはぐれひとり馬を歩かせていた。そしてそこで、山の精と見まごうばかりの可憐な娘と出会う。着物こそ山家のそれで手には茸の入った籠を抱え髪もつくろわずひっつめたままだが頬は桃のように瑞々しく、円らな瞳は星の輝きを宿し、気高い魂が見てとれた。
 成長したゆず小姫だった。
 ふたりは対の勾玉が求め合うように恋に落ち、紅葉の錦をしとねに契りを結んでしまう。お互いを因縁あふれる異母姉弟とは知らず―――――――。
 これを知った周囲の人間たちがふたりを認めるわけがない。罵倒され、血の繋がった姉弟と知らされ、引き裂かれた。それでも、彼らの情熱は衰えるどころかますます熱く燃え上がった。血のつながりが何だろう、母の死の経緯が何だというのだ。お互いの魂無くして生きているとは思えないくらい、若君と姫は心固く結ばれていた。
 やっとの思いで監視のすり抜けた若君はさらに遠方に送られようとしていたゆず小姫を救い出し、手を取り合って山奥へ分け入る。
 昼夜追手から逃れ、秘境を彷徨うが馬を失いゆず小姫も足を痛めてしまいついに追い詰められてしまう。そして―――――ふたりの眼前に広がったのは鵙ヶ沼の鏡のような水面だった。山を彷徨ううち、運命の磁力に引き寄せられるかのように、いつしか沼の畔に帰っていたのである。
 もはやこれまで、と若いふたりは崖の上で見つめあい、ひしと抱き合った。そして晩秋の冷たい水面へと跳んだのだった。かつて若君の母、もず姫が目指した水底の黄泉の国へと――――――。

* ************************************

「ああ、やっぱり哀しいお話。うかがうのではなかった」
 凄絶な結末が私を打ちのめし、思わず呻いた。
 「いいえ」百舌絵さまは力強くかぶりを振り、「叶わぬ悲恋のお話ではありません。ふたりは自らの恋を貫いたのです」
 「・・・・・・・・」
 圧倒されて私は言葉をなくした。伝説の中のふたりに、ではなく百舌絵さまの考え方にである。続いて彼女が言ったことは一層衝撃を運んできた。
 「血が繋がっていれば愛し合ってはいけないなどと誰が決めたのです?」
 あたかもそれは彼女自身の過ちに抗議するかのようだ。
 (もしや・・・・)
 もしや、この人は楡彦を息子と承知の上で共に地獄に落ちたのでは、という疑いがよぎり、思わずぞくりとした。
 彼女のかもし出す清廉な空気は一変した濃厚な愛憎の臭気を放ち始めた。

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紫式部や秋グミの鮮やかな実に彩られた中門にようやく楡彦が姿を見せ、私たちを迎えた。手の届きそうな低木のひと枝に、百舌鳥の作ったカエルのはやにえが干からびたむくろをさらしていた。
 肌を刺すような筧の水の落ちるつくばいで手を浄め、私たちは順に草庵へと入った。
 そこは武家にあるべき書院造りではなく寂の世界の色濃い質素な造りになっている。だが何年も使われていないとは思えないほど手入れが行き届き、床の間の篭には桔梗など秋の草花が生けられ、釜はしゅんしゅんと清清しい湯気を立てていた。
 「今年最後の風炉です」
 茶道具をそろえて座した楡彦が言った。
 凛とした空気が満ちる。彼の点前を最初から通して見るのは初めてだ。背筋の美しい姿勢、紫のふくささばきから茶の立て方、どれをとっても流れるように見事である。
 特に、柄杓を戻す際の切り柄杓の所作は水鳥が翼をたたむかのように優雅で、私のように茶道を始めて日の浅い者にも迫真の鋭さが伝わってきた。
 やがて、百舌絵さまの前に湯気のたつ椀が置かれた。
 にじり寄る彼女から立ちのぼった艶かしい香りが、この穢れ無き茶事とは対照的に臨席する三人が愛憎の泥にまみれた者たちであることを思い出させた。
 実際、楡彦と百舌絵さまと共に狭い庵の中で膝を突き合わせているのはとてつもなく息苦しい。やはりよせばよかった。楡彦の点前を見納めに、この茶事が終わったら迷うことなく屋敷を後にしよう。
 百舌絵さまが茶碗を掌に乗せ、回し、口をつけた。その刹那、彼女の息子は前置き無しに告げた。
 「東京に参ります」
 百舌絵さまの動きが一瞬、静止した。
 「かねてより、我が社を東京に進出させる計画を進めていましたが、ようやく移転先が決まりました」
 百舌絵さまの睫毛が二、三度上下し、残りの茶を飲み干す。そして静かに茶碗を亭主に返した。
 「東京には彼女と共に行きます」
 二杯目の茶を立てながら淡々と語る楡彦の言葉は私のことを指していた。
 「あなたとは参りません。あなたはここを―――――鵙ヶ沼の屋敷を離れては暮らせない人だ。私は彼女と生きて行きます。二度とここには戻りません」
 残酷な告知だった。私は勝利感など塵ほども感じず百舌絵さまの表情をおそるおそる見守った。
 意外にも、彼女の面は今日の鵙ヶ沼よりも穏やかだがその瞼の色に、私は
狂人の貌を捉えたような気がしてどきりとした。
 「結局―――――あなたは私をお許しになっては下さらないのですね」
 視線を畳の目に落としたまま彼女はぽつりと呟き、座布団を辞して私の方へ座り直した。
 「ひめきつさん―――――。どうか、御前のこと、くれぐれも宜しくお願いいたします」
 そう言って三つ指をつき、深々と頭を下げた。私はうろたえ、どうしていいか判らない。彼女が呼んだ「ひめきつ」という名にも心当たりがなかったし、何よりも話の早急さが私を混乱させた。
 「百舌絵さま、お手をお上げになって・・・・」
 やっと言うと、彼女は面を上げ、
 「判っておりましたの。あの嵐の夜、あなたがいなくなったと聞いて御前が顔色を変えられて飛び出して行かれた時から――――――。ただ、今度のことでもお判りのように、御前はとてもお体がお弱くていらっしゃるの。あの薬湯だけは芳野に送らせますから続けてお飲ませして差し上げてください。これだけです、私の願いは・・・・・」
 凛とした、尚も静かな瞳で私に念を押すと彼女はすらりと立ち上がり、部屋を出て行った。
 「楡彦さん、百舌絵さまは人違いなさっているわ。おとめしなきゃ・・・・・・」
 「いいんだ」
 慌てて後を追おうとする私を、楡彦の冷静な声が制した。
 「でもあんなおっしゃりよう、あんまりです。きっと深く傷ついて・・・・」
 「ではどう言えばいいんだ。これでいいんだよ。たとえ人違いしていてもあの人はあの人なりに得心してくれた」
 「なんてこと・・・・」
 膝がくずおれ涙があふれた。
 背後で楡彦が茶を立て終える気配がした。
 「僕と来てくれるか、柚子ちゃん。病の床で考え続けていた。東京に行って僕とやり直してくれるだろうかと、そればかり―――――」
 彼の声は上ずっていた。これが、自信に満ちて私をさらってきたと同じ男だろうかと思うと胸の奥が甘く疼いて止まらない。
 私は百舌絵さまの去ったにじり口に両手をつき、畳に額を押しつけた。
 「必ず―――――お言いつけのこと、必ず、百舌絵さま」
 「柚子ちゃん・・・・」
 身を翻し、私は茶碗がひっくり返るのも構わず楡彦の腕の中に飛び込んでいった。彼の喜びも苦しみも、まるごと手に入れた瞬間だった。
 「これこれ、とんだ作法もあるものだな」
 楡彦の声もまた、涙にまみれていた。

* *************************************

翌朝、私と楡彦は鵙ヶ沼の屋敷を発った。山の畑に霧が立ち込め、その中から煙の筋が細くたなびいている、そんな朝だった。
 逃避行のように心細い背中に、主に捨て置かれるのを察っしてか犬の遠吠えがいつまでも追いかけてきた。


     第 六 章


 楡彦は東京の郊外に小ぢんまりとした洋館を用意した。
 ぽつりぽつりと住宅が建ち、後は田圃と雑木林が点在するばかりの静かな環境だ。晩秋の色濃い庭先には早くも山茶花の花がほころび始め、私たちを迎えてくれた。
 庭の飛び石を伝って玄関にたどり着き、三段ほどの石段を上がると磨きこまれた扉に重い鉄のノッカーがついており、真紅のびろうどのりぼんが結ばれていた。添えられたカードには、ただひと言「柚子香へ」。胸がいっぱいになってカードを握りしめ、後ろを振り返ると楡彦は微笑した。
 「入ってごらん」
そっと扉を押すとがらんとした空間が広がった。壁は白いまま、床は木肌を見せて寒々しく、何ひとつ置かれていない。鵙ヶ沼屋敷の豪華な部屋部屋を見慣れていた私は拍子抜けしてしまった。
 マントルピースのある部屋で茫然と見回していると、床を軋ませて楡彦がやってきた。
 「どうかな。少し手狭だけど日当たりはいいだろう。気に入ってくれたかい」
 「狭いだなんて。ふたりだけですもの、充分すぎますわ」
 「君のお城だよ。内装も家具も装飾品も、君の好きなようにすればいい。休みの日には一緒に画廊や骨董品店を廻ろう」
 「まあ・・・・・」感激に言葉が詰まって何も言えなくなってしまった。
 「このくらいで満足されるとつまらないな。急だったからこんな空き家しかみつけられなかったけどそのうちもっといい家を建ててあげる。いや、船もプレゼントしたい」
 「ご冗談を・・・・」
 「本当だとも。君には何をしてあげても惜しくない。何故って、こんな僕についてきてくれたんだから・・・・・」
 彼はしんみりと私の瞳の奥を見つめた。
 「もうそのことは言いっこなしです」
 私が言うと彼は相好を崩し、背後にまわって軽く喉元に両腕を巻いた。
 「ただ――――――式はしばらく待ってほしいんだ」耳元ですまなそうな声がした。「僕もなるべく早く君を奥さんと呼びたいんだが社の移転の雑務で明日から当分、忙殺されるだろう。そうだな、せめて春には・・・・・」
 「過ぎた幸せだわ。この上結婚式だなんて」
 「だめだめ。君の花嫁姿を見ずにおくものか」
 彼の腕がこころもち喉を締めつけた。
 「じゃあ、ひとつお願いしてもいいかしら」
 「何なりと」
 「さっき、ここへ来る途中、坂の上に可愛い煉瓦造りの教会を見つけましたの。あなたさえ許して下さるならそこで・・・・・」
 「いいとも」青年らしい輝いた笑顔がうなずいた。「じゃ、ウエディングドレスを用意しなくてはね。フランス製の最高級レースを取り寄せて、いやパリで仕立てた方がいいかな」
 「楡彦さんたら」
 早くも頭の中で計画を立て始めた彼に、微笑まずにおれない。
 「清楚でいて華やかなものがいい。君は首筋が伸びやかで美しいからきっとよく似合うだろう。同じことなら桜の頃にしよう。満開の桜の中で、君は晴れて樹之宮柚子香になるんだ」
 樹之宮柚子香――――――。
 その名の響きが胸にこだましてしばし酔った。心が眩みそうだ。
 「私・・・・その頃十七歳になります」
 「十七歳の花嫁か――――――。僕への人生最大のプレゼントになりそうだ」
 後ろから私のこめかみに彼の頬が押しつけられて、私たちはしばらく窓外の散り際の血のような楓を見つめていた。

* ***************************************
ほどなく内装が仕上がり家具も揃い始め、新しい生活がすべりだした。
コックを雇おうという楡彦の申し出を断り、私はカヨひとりを呼び寄せふたりだけで家事全般をこなすことにした。つたない手料理ではあるが今までのようにコック任せではなく自分の手で楡彦のために食事を整え、屋敷の隅々まで磨き上げるのはとても楽しい作業だった。日常をフランス料理に慣れていた楡彦が当世はやりのライスカレーやトンカツを珍しそうに食べてくれたのにはカヨとふたり、手をうって喜んだ。気さくなカヨは何でも手伝い、コマネズミのように働いてくれ、とても良い話相手だ。
 使用人といえば後は楡彦の運転手だけである。
 新任の秘書が毎日きびきびと送迎し、楡彦は早朝から深夜まで銀座の貸しビルに移転したという自分の貿易会社の仕事にかかりきりである。
 私の種種のお稽古など到底見られなくなり、彼はそれぞれ専門の先生を着けた。
 それでもたとえ半日でも時間が空くと彼は横浜の港や浅草、銀座、新宿・・・・・。
 帝都には老いも若きも富める者も貧しき者も見たことがないほどの人があふれ、大戦景気のせいか活気に満ちていた。
 男が歩み、その一歩後ろを女が行く。男は時々振り返って女の歩みが追いつくのを待つ。街行く人々の目には平凡な新婚夫婦に見えるだろう。だが誰も気づきはしない。私たちがガラスの蜜月を過ごしていることを。壊れやすく、しかし他にはない苦悩を乗り越えてきたからこそ世の恋人たちとは比べものにならない情念の沼にあることを―――――――。
 夜毎、彼は必ず枕辺に私を座らせ、絹の夜着の襟をくつろげ、ひとしきり確認するかのように例の痣を見つめる。それは幾度繰り返されても私を羞恥の炎で妬いたが、何故か彼には情熱をたぎらせるらしかった。
 それからもやい綱を解くように私の腰紐が解かれ、今度こそ誰に遠慮することもなくふたりだけの世界へ漕ぎい出し、甘い漂流を繰り返しながらつながれた手はそのままに、陶酔の浜辺へ到達するのだった。
 そして、まるで朝になれば引き裂かれる定めの恋人たちであるかのように、ぴたりと肌を寄せ合って眠りについた。
 この幸せのただなかにありながら、私は何かに脅えていた。川も海も遠く、水音などするはずもないのに、鵙ヶ沼のざわめきが眠っている私の耳を捉えて放さないのだった。もちろんそれは幸せに慣れていない私が感じる、根も葉もない不安感に他ならない。いかに得体の知れぬ水音に震えようと、戸外に雪混じりの寒風が吹き荒れようと、現実には楡彦の腕の中でぬくぬくと護られている自分がいるだけだ。
 一度、夜明けの薄紫色のヴェールがかかった時間に目覚めたことがある。傍らに眠っているとばかり思っていた楡彦は窓辺のロッキングチェアに座り、真っ直ぐこちらへ視線をあてていた。
その瞳はぞっとするほど冷たい白銀の光を発していて、私は夢と現実のはざまで喘いだ。
(そんな冷たい眼で、そんな離れたところから凝視めるのはやめて・・・・)
しかしそれも一瞬のことで、彼がつと立ってきて私の額に羽根のような接吻をして床に戻ると私はまた安らかな眠りに落ちた。
 (あの時の冷たい眼であの人は何を考えていたのだろう)
 時折、そんな疑問が頭をかすめたが大抵の朝は私が咲きに目覚めると、楡彦の彫像のように整った横顔は規則正しい寝息をたてており、あの夜明けのことは忘れ去っていった。

* *************************************

「こけこっこー、朝ですよ」
耳元で囁くと楡彦は顔をしかめて布団を被る。
 「あと、五分・・・・」
 「もうお日様は大分高いですよ。いくらお休みといってももうお起きにならなければ」
私は言いながら、サイドテーブルに薬湯の湯飲みを置いた。東京に来て以来、百舌絵さまの言いつけを守って一日として欠かしたことはないが、楡彦は相変わらずいい顔をしない。今も、私が着替えを用意しているあいだに、観葉植物の鉢に流そうとしたところだ。
 「いけません。毎日召し上がってこそ効き目があるんですから」
 「しかし、君も一度飲んでみたまえ。僕の忍耐力がよく判るよ」
 「駄々っ子みたい、楡彦さん」
 私に笑われて、彼は諦めて息を止めて飲み干した。それから、ふと睫毛を落とし、
 「あちらは皆、変わりはないのか」
 ぽつりと言う。
 「はい」
 私は手短に答える。芳野からは十日に一度、規則正しく薬湯の元の漢方薬と鵙ヶ沼の屋敷の近況が書き送られてきていた。
 「皆さん、お元気のようです」
 (皆さん)というのは百舌絵さまのことだと暗黙のうちに通じている。
 「そうか」
 楡彦はさらりと答え、着替えのためにやっと寝台を下りた。そして、私の縫った、紬を着ると言った。彼が帯を締め終わるのを待って羽織の紐を形よく結び、一歩下がって出来を見る。匂いたつような青年がそこに立っていた。
 「――――――なに?」
 「いえ、母も・・・・」私は胸が熱くなるのをこらえて言った。「母にもこんなに幸せな時があったのだろうか、と思って。決して幸せな逝き方ではありませんでしたが、父が何処の人かも判りませんが、できれば私は両親が心から愛し合って生まれてきた子であってほしいと・・・・」
刹那、なんとも哀しい色が楡彦の瞳を横切った。つらい傷口に触れてしまったのだ。
 「楡彦さん・・・・」
 「お母さんの名前は判るのかい」
 傷の痛みをおくびにも出さず、優しく言う。
 「は、はい。遺していってくれた、このお守り袋の中に」
 いつも肌身離さず持っている古びた小さなお守り袋を懐から取り出し、中の小さな紙片を彼に見せた。他の誰にも見せたことのないものである。
 それには、

みか 長女 柚子香
     明治三十六年四月五日生まれ

と記してある。
 楡彦は真剣な眼差しを当ててから、
 「みか、というのがお母さんの名前だね」
 「だと思います。これだけ。母の形見は」
 楡彦は紙片を丁寧にたたみ袋に戻した。
 「柚子ちゃん。これ、僕が持っていてはいけないだろうか」
 「これを?何故?」
 「君のいちばん大切なものだろう。昼間、離れていてもこれを内ポケットに入れておけばいつも君と一緒だって思えるだろう」
 「まあ」
 照れくさそうな彼に微笑まずにはおれない。
 「君には・・・そうだ」彼は箪笥に歩み寄り、引き出しから何か取り出して戻ってきた。
 「英国王立大学卒業記念の品だ。小さいがサファイヤが嵌めこまれている。帯止めにしてもいいし、君が指輪にしたいなら加工させるよ」
 それは大学の紋章の施されたネクタイピンだった。
 「そんな・・・こんな大切なもの、私・・・」
 「君にだから持っていて欲しい。これで昼間も淋しくないだろう?甘えん坊の柚子ちゃん、これからは僕が君のお母さんにもお父さんにも何にでもなってあげるから」
 大きな掌が私の頬を包んで揺さぶった。
 「私もよ。私も楡彦さんの何にでも」
 「さて・・・とお天気もいいし」彼は窓からの冬の清潔な日差しに目をやり、「今日は浅草で羽子板市があるはずだよ」
 「羽子板市?わあ、行きたい」
 「うん、柚子ちゃんが抱えきれないくらい大きいのを買ってあげよう。ふたりで初めて迎える新年だものね」
 「そうね」
 「さ、そうと決まったら早く朝ごはんをすませて出かけよう」
 楡彦が背中を押し、私たちは賑やかに階段を駆け下りた。

* *************************************

新しい年が明け、世の中が松の内気分からようやく抜け出そうとする頃だった。
楡彦が出かけた後、居間を片付けていた私のところへたすき掛けのまま、カヨが駆けつけてきた。
 「お嬢様、今、若様のご書斎をお掃除に参りましたらこれが・・・・」
 手には大きめの茶封筒を持っている。
 私ははっとした。昨夜遅くまで翌朝の会議資料だといってまとめていた楡彦のかたわらにあったものに間違いない。
 「まあ、カヨさん、これひょっとして若様が忘れていかれたのじゃ・・・」
 「はい、扉近くの絨毯の上に落ちていたものですからもしやと思いまして」
 「まあ大変。慌ててらしたから落としたのに気づかず行ってしまわれたのよね。どうしましょう、きっと大切な書類よ」
 落ち着かなければと思いながら、頭を巡らせた。
 「カヨさんクルマはもう戻ってきて?」
 「あ、たった今飯島さんが」
 楡彦を送り届けた運転手の飯島が車体を門内に入れるところが窓の外に見えた。
 「私、届けてくるわ」
 言うなり、着替えに二階へ上がる私の後をカヨが心配してついてきた。
 「届けるって、あの、お嬢様おひとりで大丈夫ですか。会社に行かれたことは」
 「銀座に連れて行ってもらったとき、ビルの外からは見たことがあるの。そこの五階と六階だそうよ。迷ったりしないわ、飯島さんが玄関まで乗せていってくれるもの」
 「はあ・・・・」
 「ね、お羽織これで変じゃない?髪型もこれでいいかしら」
 不安げなカヨを残して、私は無我夢中で家を後にした。カヨに負けず心臓は不安で波打っていたが、胸に抱きしめた茶封筒を楡彦に届けること、今はそれしか考えられなかった。
 銀座の騒音が田舎娘の足を立ちすくませた。
 おっかなびっくり生まれて初めてエレヴェーターというものに乗り、同乗者に手伝ってもらって五階で降りることができた。ひんやりとした大理石の床の上に暗緑色の絨毯が敷かれ、立ち並ぶ扉はまるで鼈甲のようにつやつやと輝いている。パチパチというタイプらしい音、電話の音が飛び交い背広姿の紳士方が頻繁に出入りする。
 壁にはめ込まれた金属の札に、「樹(いつき)貿易株式会社」と楡彦の会社の名前を見つけたときには心底ほっとした。
 肩にかけたままのショールを取り、大きくひとつ深呼吸をして扉を押す。インクの匂いの中で、沢山の机が並び、社員がせわしそうに働いていた。
 「あの・・・・」
 蚊の鳴くような私の声など届きもしない。後先も考えずここまで来てしまったが、正式な妻でもない女が大切な職場にまで顔を出して構わないのだろうか。ふとそんな不安がよぎり、しかし届け物をどうするべきか迷っていると、手前の席の女子事務員が気づいて立ってきた。
 「何か御用でしょうか」
 これを機に私は思い切って言った。
 「あのう、樹之宮社長にこの封筒を急いでお渡しいただけませんでしょうか」
 「樹之宮社長・・・・ですか?」事務員は怪訝な顔をした。「業務部長の樹之宮のことでしょうか」
 「は?」
 一瞬にして胸の高鳴りは鎮まった。
 「昨年十二月よりうちの社長は交代いたしまして、前社長の樹之宮は業務部長の役職に就いております。―――――で、失礼ですがどちらさまでしょうか」
 愛想笑いひとつない女子事務員の淡々とした口調は別の種類の胸苦しさを運んできた。とても質問に答えるどころではなく茶封筒を手渡すのも上の空だ。
 「あ、社長」
 女子事務員が私の肩越しに視線を投げたので弾かれるように振り向くと、そこに立っていたのはかつての楡彦の秘書、成瀬だった。
 「松田物産様が第一応接室でお待ちです」
 「ああ、わかった」
 事務員に生返事を返した成瀬も私に視線を釘付けにされている。が、次の瞬間、彼は事務員に厳しい声を発した。
 「君、早くそちらのご婦人を社長室にお通しして」
 「はあ?」
 「樹之宮前社長のご婚約者だ」
 呆気にとられている女子事務員を残して、成瀬は素早く廊下を隔てた社長室へ私を招じ入れた。
 「失礼いたしました。急用でしたら人をやらせましたものを」
 「成瀬さん!」彼が言い終わるのを待たず私は叫んだ。「どういうことですの。楡彦さんは・・・樹之宮は社長の椅子を退いたのですか。たった今まで私、何も知りませんでした。だって、あの人ひと言もそんなこと言わないんですもの」
 「まあお掛け下さい、落ち着いて」
 成瀬は実に気まずげに私と視線を合わそうとしない。
 「これが落ち着いておれるでしょうか。成瀬さん、教えてください。いったい何があったのです」
 「実は私も困っているのです。お嬢さん。昨年こちらへ移転してまもなく樹之宮総帥、伯爵閣下から突然社長交代命令が下されまして、後任に私なんぞを指名されまして・・・。やりにくくって仕方ありません。社長と仰いでいた人の上に立って社を切り盛りしなくてはならず、いや、それより私など若様のようにはとても―――――」
 「で、楡彦さんは不服もなく?」
 「表面的には」
 家でも、もちろん彼の態度は微塵も変らない。しかし、私は気づくべきだった。気づかなければならなかった。何のために彼の側に暮らしているのか。何のために彼を愛しているのか。誰よりも深く、強く愛しているなどと思い上がっていた心は叩きのめされた。
 もし――――――もし、百舌絵さまならどんな小さなことも見過ごさず、彼の危機を察知しただろう。
 私は身を揉んだ。
 「どうして、あの人が何をしたというのです。伯爵様は何がお気に入らなくて」
 「・・・・・・・」
 「教えて下さい、成瀬さん」
 成瀬は神経質そうな細面を蒼ざめさせて立っていたが、私に責め立てられてついに口を開いた。
 「申し上げにくいのですが・・・・。はっきりと断定はできませんが多分、隠岐様との縁談を若様が一方的にお断りになられたことが伯爵閣下の逆鱗に触れたのではないかと・・・・」
 「では・・・・」
 そうなのだ。今度の原因は私の存在に他ならないのだ。
 不意に廊下の向こうから事務室の騒擾が洩れてきた。先ほどの女子事務員がお茶を持って入ってきて、私はくずおれるように長椅子に腰掛けた。
 女子事務員は先ほどとは打って変わった慇懃さと好奇心に満ちた視線を注ぎ、紅茶のカップを置いた。
 「大丈夫ですか、お絞りでも持ってこさせましょうか」
 成瀬がおろおろして声をかけたが私は首をふった。女子事務員が一礼して部屋を出ようとした時、私は自分でも知らぬ間に立ち上がり、彼女の背を押しのけるようにして廊下に転がり出た。そして、後も見ずに駆け出した。
 「お嬢さん!お待ち下さい!」
 慌てふためく成瀬の声が追ってきたが、私は階段を一気に一階まで駆け下り、ビルを出るや、路上で待っていたクルマに飛び乗った。
 驚く飯島に、私は言った。
 「樹之宮海運本社へ行ってちょうだい」

* **********************************

どうやって私にそんな勇気が出せたのか、よく思い出せない。
 ただ、是が非でも伯爵様に会って楡彦を元の地位へ戻してもらわなければ、という考えだけが頭の中でぐるぐる駆け巡っていた。しかし、目指す人に会うのはたやすいことではなかった。本社ビルに乗り込んだまではよかったが、私のようなちっぽけな娘が受け付け嬢に相手にされるわけがない。
 「総帥はただいま外出中でございます。それに、お約束のない方にはお会いになりません」
 の一点張りである。それでも私は食い下がった。本社ビルの想像を絶する規模も豪華さも私をひるませはしなかった。ついに、伯爵の外出先を聞き出した私は再度クルマを走らせた。
 到着したところは帝都ホテルの正面玄関だ。伯爵は政財界人の集う新年会に出席するらしいのだ。
 クルマを降り立って、さすがに足がすくんだ。無謀とも思えたが、本社ビルの奥深くにあるよりは伯爵に会うには好機なのでは、と気持ちを奮い立たせ、真紅の絨毯を踏んだ。
 各広間の案内を捜してきょろきょろしていると、大広間らしい入り口へ、大勢の紳士方が入って行くのが見えた。恐る恐る近寄っていくと、いきなり肩を?まれて飛びあがりそうになった。
 仁王様のような体格の男が眉を吊り上げて私を見下ろしていた。
 「関係者以外、いっさい立ち入ることは許されません」
 「お邪魔は致しません。五分でいいのです。樹之宮伯爵様にお目にかかりたいのです、妖しい者ではありません」
 やがて新聞記者たちが騒がしく到着し、大男は私を柱の陰へ引きずっていった。
 大広間の扉が大きく開かれ、続々と到着する政治家、実業家たちが眩いシャンデリアの下へ吸い込まれてゆく。私は腕を放してもらおうともがきながら、目を皿のようにして伯爵の姿を捜した。
 その時、ひときわ記者陣がざわめき、数人の側近に護られながら堂々と入場していく人物があった。
 羽織袴にステッキを持った上背のある姿、ごま塩頭に、恐ろしげな髭の見覚えのある容姿はまさしく樹之宮伯爵その人だ。
 そう見てとった瞬間、私は大男の手を掻きむしってふりほどき、
 「伯爵様!」
叫びざま、一団の斜め後ろの床に正座した。
 伯爵はじめ、取り巻きたちは言葉を失って一斉に私の上に視線を集めた。ここまできて後には引けない。
 「若様のお世話に与っております、柚子香でございます。ご無礼は重々承知でこのようなところまで押しかけてきて参りましたこと、どうかお許し下さい。でも、こうでもしなければ伯爵様にお目通りはかないません」
 伯爵は眉毛ひとつ動かさず冷ややかな視線を当てていた。その威容は虫けらのような私にまるで鋼鉄の扉のようだ。
 気のふれたらしい女をつまみ出そうとする護衛を軽く制し、
 「何やら人違いのようだ。お騒がせいたしましたな、皆の衆」
 と、背を向けて行こうとする。
 私は慌てて彼の行く手に周り、膝をついて膝をついて額を絨毯にすりつけた。
 「どうか、伯爵様、若様を元の社長の椅子にお戻し下さいませ。若様には何も落ち度はございません。私はたった今、若様の元を去ります。お腹立ちはごもっともと思います。今さら壊れたお話が元に戻るわけはございませんが、私にはそれしかできません。二度と若様には近づきません。ですから、どうか、若様を・・・!後生でございます、伯爵様!」
 辺りにしんとした空気が張り詰めた。
 新聞記者たちでさえ動くのを忘れているようだ。私は伯爵の返答を待ってひたすら息をひそめていた。
 と、新たなざわめきが起こったと思うと、ぐいと両肩を?まれ立ち上がらせられ、私は夢中で振り返った。そして、ぎょっとした。
 「柚子ちゃん、これはいったい・・・・」
 楡彦が私を支えて立っていたのだ。
 「成瀬から聞いて驚いて来た」
 急いで駆けつけたらしく、息を弾ませて彼は言った。そして、私を懐にかばうようにして眼前の父親と対峙した。受けてたつ父親の目はあくまで冷ややかで落ち着き払っていた。
 「大変、失礼申し上げました。年端の行かぬ娘の短慮、どうぞお許し下さい」
 楡彦は深々と頭を下げると、私の手を引いて行こうとした。
 「待って、私、伯爵様にお願いを」
 抵抗する私に彼は厳しい一瞥をくれ、
 「いいから来なさい」
 有無を言わせない。―――――と、その私たちの背中へ、低い、重々しい声音が追ってきた。
 「待ちなさい」
父親の制止に楡彦の足が止まった。牝猫を飼うならちゃんと躾けせんか。この公衆の面前で、しかもこの帝都ホテルの大ロビーで、新聞記者諸君の目の前で、これだけの大恥をかかされて、失礼しました、ではわしの立場はどうなる」
 楡彦はゆっくりと振り返った。下唇がかすかに噛みしめられている。
 「どうお詫びすればよろしいのですか」
 伯爵はおもむろにかたわらの男に右手を少し持ち上げてみせた。男が素早く黒い四角なケースを捧げ持ち、ふたを開けると伯爵はその中から太い葉巻を一本出し、口に持っていった。
 「反対側に控えた若輩の男がすかさずライターを鳴らす。
 周囲の人間たちはしわぶきひとつたてず事の成り行きを見守っていた。
 伯爵はさも美味そうにひと息吸い、ゆるりと煙を吐き出してから、楡彦に視線を戻した。 
   「今さら礼儀を教え込む年齢でもなかろう」
   楡彦の額にじっとりと汗が滲み出してきた。握りしめられた拳が小刻みに震える。
   「楡・・・・」
   たまらず呼びかけようとしたとき、彼はいきなりその場に座り込み、がばと両手を
  ついた。
  周囲に大きなどよめきが走った。
   「父上に多大なご迷惑をおかけしましたこと、この通り深くお詫びします。後ほど責任は負わせていただきますのでこの場はなにとぞお赦しいただきますよう」
 すらすらと言うなり楡彦はこうべを垂れた。
 私は血の気が失せるのを感じた。自分のあさはかさが招いてしまった事態を目の当たりにして成す術を知らず立ちすくむしかない無力な小娘だった。
 「樹之宮の嫡子だということを常に肝に銘じておくことだな」
 伯爵はふん、と鼻を鳴らして取り巻きを従え息子のひれ伏す前を通って大広間へ向かう。その手元からピンと葉巻が放たれ、床につかれた楡彦の手の甲に乗ったのは一瞬のことだった!
 葉巻の火口はみるみる間に手の甲を無残に焼いた。
 「楡彦さんっ!」
 私が飛びついて葉巻を払いのけるまで、彼は微動だにしなかった。
 「ああ、私のせいでこんなことに・・・」
 彼がようやく立ち上がっても私はただうろたえるばかりだ。
 周囲の空気が動き出した。耳打ちしあう者、好奇と軽蔑の目を向ける者、そして、マスコミたちが思いがけないところで目撃できた、樹之宮伯爵親子の不和の証拠となる現場を見逃すはずがない。たちまち私立ち彼らに群がれることになった。
  「樹之宮さん、今の一件は?」
  「そのお嬢さんとはどういうご関係で?」
  「お父上との間に何があったのです?」
 情け容赦ない質問が飛び交う中、楡彦は眉を曇らせたまま私の手を引いて足早にその場を離れた。
 完全に衆目から逃れるまで、ホテルを出て隣接する公園の外れまで来なければならなかった。
 「楡彦さん、私、私・・・・」
 涙声でも何度も謝ろうとしたが、彼は半ば走るような歩みを止めない。粉雪が舞ってきて彼の髪や肩にふわりと乗っては消えてゆく。石畳の上まで来た時、彼は不意に振り向いた。
 「自分さえいなければ全てうまくいくとか!自分など相応しくないとか!そういう愚かな考えは今後一切許さない」
 「・・・・・・!」
 当然、先ほどの軽はずみな行動を責められると思っていた私の予想は全く外れていた。
 「社長の椅子が何だ、会社が何だ、爵位が何だというんだ!そんなもの、柚子香に比べればどれほどの価値があるというんだ」
 私は急いで打ち消そうとした。
 「いいえ、私なんか、そんな大切なものと引き換えられる娘では・・・・」
 「君は何も判っていない!」
 鋭い怒号が冬枯れの木立に反響した。
 「覚えておいてくれ。柚子香、君がもし僕の元を去ってしまったり、他の男に心を移してしまったりしたらその時は、僕は即刻――――――命を絶つ」
 これほどの――――――これほどの凄まじい愛があるだろうか。
 恐怖すべき炎が青年の瞳の中に巣くっていた。にもかかわらず私は少しの恐れもなく魂の底からそれに惹かれるのを感じていた。
 こうして激情を露わにするのも春の沼の水面のように穏やかなのもすべて私の楡彦に違いないのだ。

* ***********************************

そのまま私を連れて帰宅した楡彦は、上着を脱ぎ捨てるなり居間のピアノに向かった。そして一心不乱に弾き始めた。
いつも彼の好んで弾く「月光」とはかけ離れた激しい曲ばかりだ。
右手の甲の火傷痕が痛々しいが、声をかけることさえ憚られるほど彼は何かに憑かれたように指をおどらせ、私は何者をも峻拒するその背中を見守るしかなかった。
 嵐のような旋律が何時間も荒れ狂った。父親に味合わされた屈辱をぶつけるかのように、また自分の吐露した熱情を確認するかのように――――。
 やがて冬の短い陽が暮れ、窓の外が紫色のとばりに覆われる頃、楡彦は両手を鍵盤の上に叩きつけるようにして立ち上がった。髪は乱れ肩は荒々しい息で上下していた。
 そして真っ直ぐ私の方へやってくるなり床の上へ押し倒した。黒髪を拳に巻きつけ、陵辱とも言えるほどの邪険さで思いを遂げにかかったが私は当然の罰としてそれに甘んじた。
 いつも通り、下がらせていただきます、の挨拶をしにやってきたカヨが一歩、居間に入るなり慌てて扉を閉めバタバタと廊下を走っていく音が聞こえた。


     第 七 章


 この冬一番の寒波が到来した夜、編み物をしながら楡彦の帰りを待っていた私はノッカーの音を聞いて急いで玄関へと駆けつけた。
 だが戸口に立っていたのは帽子と外套の肩にたっぷり粉雪を積もらせた見知らぬ男だ。
 「いやあ、今日の寒さといったら!ちょっとお邪魔しますよ。ああ、歯がガチガチ言ってる」
 遠慮げもなくポーチに入り込んできたのが海藤優馬と判るまで、私はびっくりしてものも言えないでいた。
 「楡彦と約束していたんですが、聞いてませんか。ええと、柚子香さんでしたね」
 「あの人はまだ帰ってませんが」
 「じゃあ待たせてもらいます」
 勝手に居間を探し当て、明々と燃えるマントルピースの前に陣取ってしまった。
 大急ぎでお勝手で適当なものをみつくろい、熱燗をつけて持っていくと彼は浅黒い顔を輝かせた。
 「いやあ、こいつはありがたい」
 私がぎこちなくついだ一杯をあおり、やっと人心地ついたようだ。
 「今日みたいな夜はこれにかぎりますな」
 「しばらくでございました。海藤様にはお変わりなく」
 「ああ、おかげさまで相変わらず愚行のかぎりですがね」
優馬はそこで銀縁眼鏡をそっと持ち上げ、しげしげと私の面に見入った。
 「ほおう、ほんの三ヶ月ほどのご無沙汰なのに、あんたの変りようはどうだ。もうとても、美少女なんて失礼になって呼べやしない。すっかり和歌奥様の風情ですな。楡彦はさぞ毎夜、可愛がってくれるんでしょう」
 この手の口の悪さは最も苦手だ。
 「私立ちまだ、正式の夫婦ではありませんの」
 「そんなことは大した問題じゃない。拝見したところ、暮らしぶりにもこの家にもふたりの愛情が行き渡っている。――――――で、近頃あいつはどうしています?」
 優馬は勢いよく煮物の具をほおばりながら尋ねた。
 「あの人は伯爵様から任せれていた三つの会社から全て手を退きました」
 「やはりね。ま、三流紙といえどあそこまで大きく取りざたされたんじゃやむを得まい」
 先日の帝都ホテルでの一件のことである。
 「私が悪かったのです」
 消え入りそうな声で言う私の前に盃を持った手がにょっきり突き出されたので急いで酒を満たした。
 「柚子香さん、そう自分を責めんでよろしい。彼ら親子の不和は前々から知られていたし、遅かれ早かれこうなることが必然だったのですよ。それにしてもあの親父様の楡彦への仕打ちは尋常ではないな。いったいどうしてあそこまで執拗に続くのだろう」
 (それは―――――それはあの人が伯爵様の美しい奥方様の過ちによって出生された方だからです)
 私は心の中で応えた。
 「実際、子どもの頃にはちょっとしたことでステッキで打たれたこともあったと、以前あの屋敷の使用人から耳にしたこともある。また、あいつが欧州留学中に何の気まぐれか突然親父さんが学費を打ち切ってしまったため、あいつは向こうで学資と帰りの旅費を稼ぎ出さねばならず、喰うや喰わずの生活をしてやっと帰国したという顛末は俺もよく知っている。学生の間はあいつがお祖父さんから相続した遺産は全て親父さんの管理下にあったからどうにもできなかったらしい。ましてかばってやるべきお袋さんはあのとおりだし」
 「なんてこと・・・・」
 私の知らなかった楡彦の辛い過去は外の吹雪よりも心を冷え冷えとさせた。優馬はすっかり煮物の鉢を空にしてしまい、
 「それで今後どうするつもりだろう」
 「やはり貿易関係の事業を始めるらしいです。今、その準備にとても忙しいようですわ」
 社長を退陣させられた時から彼はすでに根回しを始めていたということだった。
 「ついにあいつは樹之宮財閥の傘下を離脱か・・・。人脈も伝も経験も豊富だし今はお祖父さんの遺産で資金繰りには困らんだろうし、大丈夫でしょう。ただし親父さんの妨害工作さえ入らなければ、の話だが」
 「何か役に立ちたいと思っても私にできることといったらこうして部屋を温かくして帰りを待っていることだけ。情けないことです」
 知らず知らずため息が出た。
 「柚子香さん、あんたがいるといないでは闇と太陽ほどの差がある。俺は独り者だからよくわかる。楡彦のやつ、幸せ者だよ」
 「私が去ったら死ぬとまで言ってくれたあの人の心に添わなければと思います」
 「あいつがそんなことを?」優馬は眼鏡の奥の眼を光らせた。「ずいぶん大胆だな。まるで脅迫じゃないか」
 「脅迫だなんて・・・・」
 「いや、信じられんな。俺はあいつを十代の頃から知っている。何度かの恋も見てきた。真剣になればなるほど臆病になってしまう・・・・そんな少年だった。なのにその強引さ」
 「真剣になればなるほど臆病な・・・・」私はゆっくり繰り返した。「今の彼とは正反対ですわ。私は会って以来ずっと強引に引きずられてきました。見るもの、聞くもの、読むもの、身に着けるもの、すべて彼の選んだものです。それは徹底していますのよ。少しでも視線を外そうものなら頤を捉えられて彼の望む方向を向かせられるほどに」
 「ますます驚きだ。あのじれったいくらいの奥手が。真宝子の時だって接近したのは彼女の方だったのに」
 「じゃあ私はあの人にとって・・・・・?」
 私の不安げな表情に気づいた優馬はすぐに言い直そうとした。
 「いやいやあいつも変ったんでしょう。人間誰しも十代の青いままではいられない。
その強引さはあんたという真の相手にめぐり会った証拠かもしれません。いや、きっとそうに違いない。それにしてもあんたは窮屈じゃないのですか」
「あの人の束縛だけが私の財産ですの」
優馬はポカンと口を開けた。私自身、口に出してみてから真理をついていることに気がついた。
 「いや、これは野暮な質問をしてしまった。なんだ、結局長いおのろけを気化されたのか」
 このあまり良い感じを持っていない男にどうしてこんなにつらつらと喋ってしまったのかよく判らないが、待つ時間の長い、冬の夜の人恋しさがそうさせたのかもしれない。
 やがてエンジンの音が低く響いてきて、楡彦が帰宅した。外は氷室のようだ。
 「海藤様が先ほどからお待ちですよ」
 「ああ、そうだった」
 私の報告を受けるなり彼は帽子を渡し、居間へ飛び込んで優馬と肩をたたきあって再会を喜んだ。
 お勝手で熱燗の追加をしながら、私の脳裏に先ほどの優馬の言葉が甦っていた。
 真剣になればなるほど臆病な、繊細な少年の恋・・・・・。
 確かに優馬の知らない恋がひとつある。
 恋と呼べるならば百舌絵さまとのそれが。限りない苦悩をはらんだ彼女との恋が、彼のそれまでの恋のかたちを変えてしまったとしても不思議は無い。臆病なそれから、何から何まで従わせなければ気のすまない強引なものへ――――――。
 百舌絵さまの存在はそれほど強烈なのだ。私は熱燗が猛烈な湯気を上げているさまをぼんやりと眺めていた。
 私が思いに耽っている頃、居間ではふたりの男が重大な相談をしていたのだった。廊下に彼らの声が洩れ聞こえた。
 「・・・・海運の・・・・」
 「欧州航路は・・・・」
 仕事の話のようだったが私が入っていくと彼らはとたんに会話を英語に切り替えてしまったのでそれ以上は判らなくなってしまった。
 テーブル上にもてなしの品々がひととおり並ぶと、楡彦は言った。
 「後は適当にやるから先にお寝みなさい」
 「この吹雪ですからお泊りいただいては?」私は勧めた。「お湯殿の支度と、西側の寝室を温めておきますからどうぞごゆっくり」
 海藤はにっこりと礼を言い、それきりまた真剣な顔に戻ってふたりして何やら話しこんでいた。
 翌朝早く海藤は発っていったが半月後の二月に入ったばかりのある朝、私に髭を当たらせながら椅子に背をもたせかけたまま片手で朝刊を読んでいた楡彦が、いつになく満足げなのに気がついた。
 「ちょっとお置きになって下さいな。手元が狂っても知りませんから」
 やっと彼が朝刊を置いたので私は手早く髭を剃ってしまい蒸しタオルで面を拭った。そしてテーブルの上の紙面にそっと眼をやり、あの夜のふたりの談合の内容を知った。
 新聞には大きく、海藤海運が樹之宮海運を制して先頃開通したばかりのパナマ運輸経由の欧州航路の就航権を獲得したことが報じられていた。
 私の心にぞくりと思い当たることがある。楡彦の余裕あふれる表情がそれを裏付けている。彼は何らかの情報を父のライバルである海藤に流し、父に手酷い打撃を与えこの前の溜飲を下げたのだ。
 「ああ、さっぱりした。君の髭剃りもだが、今朝はその記事もね」
 私は凍りついた視線を紙面から引き剥がし急いで振り返った。
 「そう。僕がやったことだ。怒ったかい、柚子ちゃん。軽蔑するかい?仮にも父と呼ぶ人間を裏切った性根の腐った奴と」
 「いいえ・・・・」しかし自分の顔が蒼ざめていることはわかっていた。「でも伯爵様がこのことをお知りになったら・・・・」
 考えるだけで恐ろしい。だが、楡彦の返事は
 「勘当は間違いない」
 お天気の話をするような気軽さだ。
 「よろしいの?」
 「僕は一向に。あっちだって僕のような望んでもいない息子がいなくなってせいせいするだろう」
 「でも後継者は・・・・」
 楡彦はテーブルの上のカップに残っていたコオヒイを飲み干し、足を組み換えた。そしてさらに衝撃的な事実を口にした。
 「伯爵には何番目かの愛人との間に子がある。僕のようなまがいものではなく正真正銘彼の実の子がね。元々、先代の遺言で仕方なしに僕に子会社をいくつかあてがっただけだ。彼には僕に総帥の座を継がせるつもりなんか毛頭ありはしない。喜んで実の子に継がせるだろう」
 「では、その人は財閥の中に?」
 「知らない。僕にはかかわりのないことだ」
 そう言ってツイ、と窓の外へ顔を背ける彼には色濃い孤独がまとわりついていた。私はエプロンをはずして床にひざまづき、その膝に両手を置いた。
 「もうよしましょう、こんなお話。そうよ、あなたのおっしゃる通り関わりのないことよ。だから、もう今度のように、あなたをよけい苦しませるようなこと、これきりにして。だって、折角自由の身になれたのですもの」
 楡彦は私の両手を持って立ち上がらせ、掌で包むと自分の額に私の額をぴたりと押しつけた。
 「僕の可愛い大事な大事な柚子香!どうしたら君が幸せになるか、君の一番欲しいものは何か、いつもそればかり考えているよ」
 間近に迫る瞳に深い哀惜を見て取った私はそれをほぐそうと思いをめぐらせた。
 そして茶目っ気たっぷりに、
 「こんなにずうっと一緒にいて柚子香の欲しいものが判らないの、楡彦さん。私はあなたの欲しいもの、ちゃんと判るわ」
 「じゃ言ってごらん」
 「コオヒイをもう一杯、でしょ」
 「こいつ」
 彼は微笑んでわたしのおでこを軽く弾いた。
 ひとしきりの笑い声がさっきまでの重苦しい空気を吹き飛ばしてくれた。
 外はまだ凍てつくような風の吹きすさぶ二月で春はまだまだ遠いが、私たちの居間は水仙の平穏な香りに満たされている。
 私は彼の椅子の後ろに周り、その首を抱きしめた。
 「私の欲しいもの、言いましょうか。それはね、この間、あなたに尾習いしたforever
よ」
 ひそ、と一輪挿しの水仙の白い花弁が揺れてから、青年は応えた。
 「よく判った。――――今の発音を忘れずに」

* ********************************


その頃から、楡彦の新事業の根回しのため在日外国人の各種のレセプションに私も彼のお供で出席しなければならなくなり、外出が多くなっていった。夜は楡彦に英会話をたたきこまれ、それと並行して春の挙式の準備をしなければならない。ふたりだけで挙げるにせよ教会との打ち合わせやドレスの仮縫いなど、することは山ほどある。ともあれ、幸せに満ちた多忙さだった。
 たったひとつの気がかりは楡彦が新事業の準備にかかった頃から、数日に一度決まって深夜になると出入りする得体の知れぬ五、六人の男たちのことだった。
 客ではないから接待の必要はないと楡彦は厳しい顔で私を追い払うように言い、書斎に閉じこもって何やら話し込んでは夜明けと共に散ってゆく。彼らは一様にただものではないと感じさせる輩で、いつもハンチング帽を目深に被り、にこりともしなかった。
 私など口出しを許されぬ領域の人間たちであることは肌で感じられた。

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三月に入ると大戦景気が一変して恐慌の嵐がやってきた。
あちこちの大企業で大幅な賃上げや首切りが行われ、崖っぷちに立たされた労働者たちは次々にストライキに突入した。
 樹之宮財閥も例外ではない。大戦の痛手から立ち直った欧州各国が各航路に復帰を始め最新式の船舶はすでに老朽化の目だってきた日本の旧式船舶とは比べものにならぬ性能で世界の海を席巻しようとしていた。
 造船所では大規模なストライキが起こり、先日海藤海運に欧州航路を先取りされたことも相まって史上最大の危機に直面していることは明らかだ。
 この天地も逆転するような時節に、まだ統括する会社を持つに至っていない楡彦は帰って幸運と言えた。まるで対岸の火事見物なのだ。しばし情勢を見る必要ができ、挙式を前にして時間と心の余裕ができたことは私にとって嬉しいことだ。挙式後は渡欧して地固めしてから事業を始めるつもりだ、と楡彦は告げた。そしてそれを私たちの蜜月旅行として兼ねようというのだ。
 桜が咲いたら晴れてあの人の妻になる。
 そしてふたりして欧州へ旅立つ。
 それはおとぎ話のような虹色に輝いた響きを持って胸の中に何度も何度もくりかえされた。

* ************************************

暦は巡り、ついに桜の季節がやってきた。
辺りの蕾がちらほらとほころび始め、私たちの庭にある古木の枝も淡紅の化粧をほどこした。門前の道から坂の上の教会に続くのは桜の並木道である。満開が近づくにつれ坂道は雲の上のトンネルのようになって行く。
 どんなに待ち望んだことか、
 どんなに夢見たことか―――――。
 祭壇の前で永遠の愛を誓いさえすればもう誰も私たちを引き裂くことはできない。夜毎耳につきまとうあのざわめきも、――――――百舌絵さまでさえも。

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「明日という大切な日のために」
「ふたりの永遠のために」
前夜、私たちは密やかにふたりだけで乾杯のグラスを傾けた。
 開け放たれたテラスからは馥郁とした春の夜の香気が流れこんでくる。庭の古木桜はいよいよ妖艶に咲き乱れた枝を伸ばし、小さな羽根を生やした精が枝から枝を飛翔する音が聞こえてきそうな満月の夜だ。こんな夜は幹の陰にふと薄衣を頭から被ったもず姫がたたずんでいても不思議はない。
 「この半年はまるで宝石のような日々だった。ありがとう、柚子ちゃん」
 楡彦の切れ長の眼も桜に負けぬ妖艶さに潤んでいる。
 「おかしなあなた。お別れするみたいに。私たちは明日から本当に一緒にいられるというのに・・・・」
 「そう――――そうだったね。これから幾星霜もずっと君の瞳を見つめていくのだったね」
 グラスを置くなり楡彦は私を抱え上げ、寝台へと運んだ。彼の掌も唇も、炎のようなのに私は気づいた。
 「お熱が・・・・?」
 時々微熱を出すことはあるが、これは微熱という域ではない。
 その燃えるような手で彼は絹のネグリジェを一気に引き裂き、私を驚かせた。いつもの彼ではなかった。
 「楡彦さん・・・・!」
 これまで彼が愛のさなかさえどこか心の隅に冷静さをなくしていなかったことを、今夜初めて思い知らされた。我を忘れるのはおそらく今夜が最初なのだ。私の身体に、というよりは自らの愛戯に彼は乱れ、酔い痴れ、溺れてゆく。
 私もまたその渦に巻き込まれていく中で突如、闇が月をのみこみ全天を覆った。一瞬にして寝台もカーテンも床も、屋敷そのものが消失し、無明の闇に巨大な桜の古木とその根元で愛し合う私たちだけが取り残された。
 夢なのか―――――。
 先ほどの甘い酒が呼び寄せた幻なのか、それとも楡彦のこれまでにない激しさの見せる異世界なのか―――――。
 桜はそれ自身仄かな輝きを放ちながら静かに私たちを見下ろしていた。ぞっとするほどの冷ややかさで、神に誓う前に欲望の淵に身を投げた私たちを非難するように。そしてまた深く嫉妬するように。
 やがて無数の花びらの向こうに、瞼に朱をひいた女の面影を見たように思った時、地の底から沸きあがってくるような轟音がやってきた。古木は太い幹をかしがせ、枝を震わせ、夥しい花びらを乱舞させ始めた。それらはいつぞやの鵙ヶ沼での嵐の記憶を呼び起こしながら、びょうびょうと鳴る風に乗って一糸まとわぬ私たちの肌に吹きつける。
 花びらの渦の底で、不吉な薄紅の烈風を頬に受けながら、
 「・・・・・柚子・・香!」
 楡彦は狂おしく砕け散った。


     第 八 章


 桜の花びらがはらはらと窓から入ってきて純白のレースの上に乗る。
 その朝、かげろうが立ち春爛漫の光が教会に満ちた。聖堂は白いサテンのりぼんと花々で飾られ、燭台は厳かな灯を十字架に投げかけている。
 「おめでとうございます」
 チャペルメイドを勤めてくれる、晴れ着を着たカヨが感動に眼を潤ませてくれるのが面映い。ここは控え室に当てられた小部屋だ。
 「今日から晴れてお嬢様を奥様とお呼びできるのですね」
 「そうね。ありがとう、カヨさん」
 鏡の中の私はこの上なく幸せに輝いている。薔薇色の頬、今日のためにより鮮やかな唇、胸元には顎まで上り詰めた繊細なレースと三連の真珠。肩で大きく膨らんだ袖は手の甲まで覆い隠し、胸から腰、裾にかけては数百個の真珠が縫い散りまればめられ眩い光を放っている。そして腰からのトレーンは真珠の冠を頂いた頭部からのヴェールと合流して、裾を長く引いていた。
 これは夢か、と思ってしまう。この幸せは、瞬きひとつでたちまち消えうせ、牛島の女中部屋に戻ってしまうのではないかとさえ思ってしまう。
 「若様は遅うございますね」
 「そうね。でも大丈夫よ。あの人は時間厳守ですもの」
 その時ドアが軽くノックされ、カヨが飛んでいった。
 「お嬢様、ブーケが着きましたよ!」
 目の前にジャスミンの花束が差し出された。
 「なんてきれい・・・・」
 白く気高い小花をつけたジャスミンは甘い芳香を発散している。カヨから受け取りその香りを嗅ごうとした私は、そのとたん急に胸をつきあげてくるものを感じ、急いで口元を押さえ窓辺へ駆け寄った。苦しくて息ができない。どうしたというのだろう。
 「お嬢様、どうなさいました?」
 カヨの心配そうな声が壁ひとつ隔てて聞こえてくるようだ。カヨに背中をさすってもらい、ようやくしてからやっと吐き気は治まった。
 「ありがとう・・・・。もう平気よ」
 「ああよかった。お胸がいっぱいだからって朝から何も召し上がらないからですよ」
 「そうね・・・・」
 私は床に放りだされたジャスミンにぼんやり眼を当てた。
 「それにしても遅いですね、若様は。じき刻限になりますわ」
 カヨは窓から首を伸ばして坂の下の我が家を見やっていたが、ついに痺れを切らし、
 「私、ちょっと見てきます!」
 と、部屋を出て行った。満開の桜の枝に見え隠れしながらカヨの細い体が坂を転がるように走って行くのが見えた。私の脳裏に今朝方のことが甦っていた。

* ********************************

やっとまどろみを許されたのも束の間、まだすっかり明けきっていない部屋で目覚めると、楡彦が姿見の前でネクタイを締め終えたところだった。
 「どちらへいらっしゃるの?」
 私は驚いて寝台の上に跳ね起きた。
 「どうしても片づけねばならない用ができた。式までには戻るから、手配しておいたブーケを受け取っておいておくれ」
そう言って焦げ茶の上着を着込みながら寝台に斜に掛け、私の前髪を撫で上げた。
 「いよいよだね。花嫁姿、楽しみにしているよ」
 そして昨夜繰り返し貪った胸の痣に、蜂蜜のような接吻をしてから部屋を出て行ったのだった。凪のような瞳だった――――――。

* *********************************

   「お嬢様!」
  ハッと我に返ると胸をぜいぜいさせたカヨが半べそをかきながら立っていた。ただならぬ表情だ。私の背筋に嫌な予感が走りぬけた。
  「どうしたというの」
  「たっ大変です!お屋敷が・・・知らない男たちがお屋敷の物を残らず運び出そうと・・・・」
  最後まで聞いてはいなかった。夢中で教会を飛び出し、輝く桜並木の下の坂道を、ヴェールをなびかせ、まっしぐらに駆け下りた。異様なまでに明るい陽光を受けて、花たちは散り急ぎ、行く手に舞い落ちる。この美しい日に、この待ち望んだ大切な日に、いったい何が起こったというのだろう、いや、何も起こるはずは無い。
 胸に湧き上がる不安の雲をふりはらいながら、屋敷にたどり着いて眼に映った情景、それは私たちの愛の巣が跡形もなく消し去られ元の殺風景な無人の館に還った姿だった―――――。
 私たちが選んだ家具も絵画も、温もりも思い出も何ひとつ残ってはいなかった。
 「いったい、これは・・・」
 窓の外の古木だけが昨夜と変らぬ姿で今を盛りと花を咲かせている。絨毯の剥がされた床の上で私はカヨが追いついて来たことにも気づかず茫然と立ち尽くした。
 その時、門内の砂利が乾いた音をたて、黒塗りのクルマが入ってきた。見慣れた飯島が降りてきて居間だった部屋に入ってくると、いつになく慇懃に帽子を取り、告げた。
 「若様がお待ちでございます。どうぞ、おクルマへ」
 「若様に何かあったの?」
 恐ろしい声が私の口から出た。
 「私はお連れするよう言いつかっただけで」
 飯島は申し訳なさそうに頭を垂れた。
 「判りました。行きます」
 肩に乱れたヴェールを背へ投げて、私は決然と言った。クルマへ向かおうとするとカヨが慌てて背に飛びつく。
 「私もお供します」
 「若様は柚子香様だけをお連れするよう仰せられましたので・・・・」
 素早く飯島は応じ、私はカヨに向かってしっかりうなずいてみせた。楡彦が呼びつけているのなら命令どおり駆けつけて、何が起こったのかしかと見届けなければならない。
 飯島が恭しくドアを開け、私はドレスの裾を無理やり押し込んで乗車した。車体はゆるやかに滑り出した。これが生き地獄への出立だと、どうやってこの時の私に知り得ただろうか――――――。

* ************************************

連れて行かれたところは見も知らぬ大邸宅だった。
本棟かと見紛うばかりの巨大な門の前には労働者階級らしい多くの人々が押し寄せ、一歩も身動きならぬほどの騒ぎである。彼らは眼を血走らせ、口角泡を飛ばし、
 「出て来い、樹之宮!」
 「暴利を貪るタヌキ伯爵め!」
 などと口汚く怒号を放っている。その言葉にはるか彼方に見える表札に目を走らせ、ここが樹之宮家の東京邸、伯爵の東京市での本拠地であることを私は知った。
 クルマは暴徒の波をかき分け車両専用の門から乗り入れようとしたが、窓ガラスに
は次々と様々な物が投げつけられとても恐ろしくて顔を上げることもできない。やがて門内の使用人らしき者たちが押し入ろうとする労働者たちをやっとのことで押しとどめ、クルマは車輪をとられていたぬかるみから脱出するかのようにのろのろと敷地に入ることができた。
 豪奢な、まるで神社を思わせる純和風建築だ。鵙ヶ沼屋敷の趣味の高さ、奥ゆかしさとはほど遠い、富と権力の象徴が私を圧倒した。御殿という呼び名が相応しい。ここがあの伯爵の心臓部なのだ。
 (ここに何故、今になって楡彦さんが・・・)
 正面玄関で降り立つと、眼光鋭い、ひと目で堅気でないとわかる細身の青年が案内に立った。このところ、夜になるとやってきた男たちと同じ眼をしているのだ。場違いなウェディングドレス姿の私を見ても全く動じない。正面玄関の脇をすり抜け、彼は裏に広がる大庭園へと導いた。
 巨大な庭石、手入れの行き届いた植木、石の小橋を渡る際に眼を落とすと金銀の毒々しいばかりの錦鯉が群れ泳いでいる。この庭にも桜が今を盛りと咲き誇り、雪ヤナギが咲きこぼれ、春の女神が宴を繰り広げている。こんな時でなかったら桃源郷とも思えたかもしれない。
 やがてひときわ瀟洒な別棟の屋根が見えてきて青年は入り口に着くと速やかに身を退き私を先に通した。外観に相違して内部は洋式の大広間であった。大理石の床、柱、天井には華麗なデザインのシャンデリアが吊られている。大々的なパーティーが行われる場所なのだろう、三方が前面ガラスに囲まれ、そこからの眺望は今、私が通ってきた大庭園を一望できる、素晴らしいものだ。
 広大な空間の一番奥に、数人の人影が待ち受けていた。まず車椅子に掛けている和服姿の初老の男。それが、樹之宮伯爵だと判るまでしばしの時間を要した。あれほどの偉丈夫がまるで三十歳も歳をとったように、げっそり体全体の重みを失くし、頭髪も白いものが大部分だ。ひたすら不機嫌そうに唇を引き結んでいる。
 車椅子の後ろには艶やかな瑠璃色の召し物の美しい女性が付き添っていた。従順そうな眼の、まだ二十歳台かと思われた。
 そしてかたわらに控える青年はひょろりとした背格好に見覚えのある、成瀬である。
 楡彦は――――――その姿を求めて視線を巡らせると、彼は他の人々から離れた一隅で背を見せ庭を眺めていた。私がドレスの衣擦れを響かせて近づいてゆくと、ゆっくり振り返って微笑する。何かしらある地点に到達する直前の、期待と昂ぶり、一見親しみに満ちているようだがどこかよそよそしい光が見て取れた。隙なくモーニングを着こなした襟元の白いスタンドカラーが眩しく、胸にはブーケと対のジャスミンが飾られている。
 「ようこそ柚子ちゃん。さすが僕の選んだ花嫁だ。麗しい!」
 大きく両腕を広げて迎えられても、ほっとするどころか不安は増すばかりだ。
 「楡彦さん、これはどういうことですの?何故こんなところに・・・・・」
 彼は応えず私の手を引いて伯爵の前へ進み出た。
 「何のつもりだ、楡彦。突然やってくるなりこんなところへ引っ張り出しおって」
 どす黒い顔色で、息を喘がせながら伯爵は言った。ひどく具合が悪いらしい。
 「それに何の酔狂だ、そのいでたちは。お前の意に添わぬ縁談を勧めようとしていたわしに対するあてつけかっ」
 「・・・・・・・・」
楡彦はしんとしていた。
 「それともわしの有様を笑いにきたのか。門前に押し寄せる労働者たちの群れに打つ手もなく樹之宮財閥が傾いていく様子を見物にきたのか!」
 声を荒げた伯爵は激しく咳き込み、背後の女性が慌てて背をさすろうとするのをうるさげに振り払った。
 「ただ見物に来たのではありません」楡彦の唐突な言い様に皆の視線が集中した。
「この事態をもっと正確にお父さんにお知らせするのが私の務めと存じまして」
 「何だと・・・?」
 「人払いを願います。ただし、成瀬君には証人として一部始終を聞いてもらう」
 楡彦の視線の矢を受けて、成瀬の顔に緊張が走った。伯爵はしばらく考え込んでいたが、背後の女性に軽く顎をしゃくり、彼女は躊躇いがちに部屋を後にした。確かに美しい人だが百舌絵さまの足元にも及ぶまい。
 それにしても、今から何が始まるというのだろう。本来なら今頃はふたり、神の御前で誓い合っているはずなのに、最愛の人は因縁はの父親と対峙している。
 楡彦の眼が迫力のある光を放った。
 「空前の好景気と言われていた戦後の上り坂はついえ、代わって襲いかかってきた大恐慌にさすがの樹之宮財閥も相当な打撃をこうむっているようですね。追い討ちをかけるように傘下各社での労働争議、ストライキの勃発・・・・そして先日は海運業界の垂涎の的だった欧州航路を海藤海運に先取りされ、欧州の最新船の世界の海への復帰と相まって樹之宮海運は海運業界自体、存続の危機にある今、まさに風前の灯火と言っていいでしょう」
 伯爵はできうるかぎりの忍耐力をかき集めて冷静な表情装っているようだ。
 「それが、樹之宮の傘下を離れたお前に今さら何の関わりがあるのだ」
 「あるのです」楡彦は即答した。「恐慌はさておき、そのうちのいくつかは私がお膳立てしたことですから」
 伯爵の両眼が見開かれ、血管だらけの皺深い手が握り締められた。
 「な、な、何だと――――――?」
 にやりと口の端で笑みをつくると、楡彦は背筋を伸ばしてテラスへ歩み寄り、庭園へ視線を投げた。
 私の心臓が激しく鼓動を打っていた。楡彦の和やかな後姿からは想像できない、恐ろしい場面が展開しようとしている。
 くるりとこちらを向き、麗らかな日差しを背にした彼の瞳の中に残虐な色がほの見えた。
 「ご存知ですか、お父さん。次の閣僚を狙う、ある有力代議士に収賄容疑がかけられたのを。そしてその人物と闇の取引があったという疑惑の目が向けられているのはある大財閥の総帥自身だそうですよ。一両日にも逮捕状が出されるとか」
 「何のことだ。わしは知らんぞ」
 伯爵は歯のあいだから声を押し出した。
 「物的証拠、状況証拠、現金の引渡しのあった場所、日時、証人、全てそろっているのです。たとえあなたはご存知なくとも」
 「・・・・・・・」
 「身代わりを立てようとなさっても無駄ですよ。その代議士が自白するのは時間の問題でしょうから」
 「楡彦っ・・・・!」伯爵はついに鬼のような形相になって車椅子の肘掛を握りしめ立ち上がろうとした。「おま・・・お前がでっち上げたのだなっ」
 かたわらの成瀬に向かって、
 「何をぼうっとしておる、弁護士を呼べ!」
 そして廊下へ首を伸ばし怒鳴り散らす。
 「誰か、この裏切り者の青二才をつまみ出せ!」
 しかしどんなに声を張り上げようと、成瀬はうろたえて動くに動けず、廊下からも女中ひとり駆けつけてこない。
 「無駄です」息子の声が冷酷に伯爵の背中に突き刺さった。「この屋敷の中はすでに私の息のかかった者ばかりです。門前にあふれる血気にはやった労働者たちをなだれこませることだってできるのですよ」
 「馬鹿な・・・。わしの側近たちがそうやすやすとわしを見限るはずが・・・」
 「ないと断言できますか?私はあなたよりずいぶん先が長いのです。それも汚名にまみれていないきれいな未来が。しかし損得勘定抜きであなたの身を案じる人間がひとりくらいいてもいいとは思うのですが・・・・同情しますよ、総帥」
 純白の手袋をひらひらと弄びながら、楡彦は言った。
 私は眩暈を感じた。この、ひとことずつ言葉の刃で父親を追い詰めていく男は、いつも親鳥のように寄り添って私を護り、願いを聞いてくれた青年だろうか。その瞳はぞっとする白銀の光を発して、決して逃すまいと父親を捉えて離さない。いつぞやの、薄紫色の夜明けの中で私の寝顔を凝視していた、あの眼だ。
 「おのれ気でも狂ったか楡彦っ。樹之宮財閥が滅んでもかまわんのかっ」
 伯爵は激昂した。
 「かまわない。虫に喰い荒らされた巨木に未練はありません。あなたを私の足元にひざまずかせるためなら」
 「くっ―――――――」
 樹之宮幹吾はがっくりと背もたれに身を沈めた。少し前の彼なら一喝して楡彦を張り飛ばしていただろうが、今はそんな馬力はなさそうだ。
 「若様、伯爵閣下のお体に障ります。どうか、もう・・・・」
 やっと口を挟んだ成瀬に一瞥もくれず、楡彦はテラスから戻ってきた。不意に陽が陰った。庭の桜は輝きを失って薄墨を流したようになり、室内に薄闇が降りた。それを合図にしたように、整然と並ぶテラスの内、一枚のガラスが突然開き、
突風が吹き込んだ。誰の髪も、私のドレスの裾も、猛烈に翻った。
 「まだお力落としは早いですよ、お父さん。これからとっておきの贈り物があります」
 楡彦の声に他の三人がはっと身を固くする中、彼は風がおさまるのを待って内ポケットから小さなものを取り出し、成瀬に眼で命じて受け取らせた。
 私はあっと声が出そうになるのをかろうじて抑えた。それは以前、私が楡彦に渡した母の形見のお守り袋だったのだ。
 「その中にある紙片をご覧になっていただきたい」
 楡彦の言葉に従い成瀬が躊躇いがちにお守りの中から私の出生の覚書を取り出し伯爵の前に広げて差し出した。はじめ、伯爵の目は宙を彷徨っていたが、徐々に紙面に吸い寄せられ、そして両眼を飛び出させんばかりになって成瀬の手から紙片をひったくった。
 「こっこれは・・・・!」
 紙片を握りしめた手が激しくわななく。何が起こったというのだろう・・・・!
 「そうです。あなたの捜し求めていた者のことです」夥しく吹き込んできた桜の花びらを踏み抱いてしだいて青年は一歩前に出た。「みか―――――十数年前、あなたが吉原から身請けした娼妓、姫橘(ひめきつ)の本名ですね?続いて記してあるのは――――――記憶をひもといてみて下さい。生まれて日の経たぬうちに母親のみかと共に失踪したあなたの娘の名前なのです」
 楡彦の整った横顔から、金属のような視線が射こまれ、私の総身を貫いた。周囲の景色は突如、色を喪った。
 (な・・・に?何と言ったの、楡彦さん)
 伯爵の額からも冷たい汗が吹き出していた。
 「楡彦・・・・お前これをどこで・・・・。わしは捜した!捜して捜して、草の根を分けるようにして幼子を、たったひとりの娘を追い求めた――――――!だがついに捜しだすことはできなかったのだ。それを、今になってどこからこれを――――――」
 「そこにいる娘が持っていました」
 全員の目が私に向けられた。私は傍観者から話の渦中に、その中心に引きずり出されたのだ。伯爵の老いた視線がねっとりとまとわりついてきた。
 「その娘が・・・・?」
 「ええ。あなたが先日、牝猫と呼んだこの娘があなたの唯一、血を分けた娘、柚子香」
 風がぴたりと押し黙った。
 音を立てることが罪悪ででもあるように一同が石像と化して、しばらくたった時、不意に伯爵のくぐもった笑いが起こった。
 「騙されんぞ、この詐欺師め。どこにその小娘がわしの実の娘だという証拠があるのだ」
 「証拠は―――――」
 いきなり楡彦の手が伸びてきたと思うと、腕をつかまれ伯爵の前に押し出され、そして抵抗する間もなく胸元のレースを激しく切り下げられた。三連の真珠の首飾りがはじけて、ばらばらとてんでに床を跳ね飛んでいく。私の喉は声を出すことを忘れたかのようで、眼だけがその様を見つめた。
 「ここに!」
 私の胸の痣が伯爵の眼前にさらけ出された。衝撃のあまり、羞恥などどこかへ飛散してしまった。
 伯爵の、痣を凝視する眼が驚愕の色を濃くしていく。
 「お父さんには見覚えがあるはずだ。赤ん坊の胸にもこのサクラの花びらの刻印があったはず。あなたはそれを手がかりに八方手を尽くしてわが子の行方を捜した・・・」
 「・・・・・・・・」
 「捜しましたよ、私もこの数年・・・・」
 楡彦は夢見るようにしみじみと呟いた。
 私は胸元の裂けたレースを握りしめ、彼の面から視線を外せない。
 「胸にサクラの痣を焼きつけた娘・・・・。名は―――――柚子香・・・・」
 詩を暗誦するかのように彼は言い、ゆっくりと私の方へ視線を戻した。いつか見たことがある色だ。そう―――――それは牛島家の庭の小川で初めて接した時の妖しい光だ。あの時も彼は尋いた。「ゆずか―――――?」と。秋の虫が狂ったように鳴きすだいていた。
 「私が―――――私が伯爵様の娘・・・?」
 伯爵に眼を移すと彼からも濃い視線を返ってきた。彼も信じがたい様子だ。
 「この娘があの時のわが子・・・・」そして憎い息子に、「何故、お前がわしの知らぬこの娘の名を知っていたのだ・・・・」
 楡彦は応えず、私の顎を捉えて近々と自分の顔に引き寄せた。そして遠い眼をして語り始めた。

* **************************

柚子ちゃん・・・生まれたばかりの君はまるで天使のようだった。ちょうどこの季節、この屋敷の離れで産声を上げて間もない君に、僕は一度、逢っているんだよ。
 今日のように桜が咲き誇り、蜂どもの飛翔が聞こえてきそうな日だった。東京の中学入学を控えて寄宿舎に入る前の数日をこの屋敷で過ごしていた僕は、使用人から離れに住むひとが赤ん坊を産んだことを聞かされた。
 好奇心のおもむくまま、庭を散歩するふりをして離れに近づくと、明るい笑い声が聞こえてきた。植え込みの陰からそっと覗いた僕の眼に映ったのは、父と、まだとても若く美しいひとが陽だまりの縁側で驚くほど小さな赤ん坊を囲んでいる情景だった。父の未だかつて見たこともない笑顔が僕の胸に妬きついた。
 やがて、ほどなく父は退座し、女性は女中に手伝われて赤ん坊の沐浴の準備にかかった。その時ふと彼女の視線が外の僕を捉えた。逃げようとしたが、白くなよやかな手がおいでおいでをし、僕は少し躊躇ってから恐る恐る縁側に歩いていった。
 僕は見惚れた。
 赤ん坊はあまりにも汚れなく、砂糖菓子のように純白で頼りなげで、それでいてその輝きに魂が浄化されそうな。女性は―――――姫橘さんは僕の小指に赤ん坊の手を握らせ、
 「若様の妹でございます」
 鈴のような声でそう言ってにっこり微笑んだ。
 産着を脱がされると赤ん坊は小さな欠伸をし、その白い胸に一点、薄紅の痣があるのを僕は見た。
 「桜の精が悪戯をしたようですわ」
姫橘さんは言い、女中が用意した盥で赤ん坊を洗い始めた。吸いつけられるように見つめながら僕の口をついて、その言葉は極自然に滑り出た。 
「ゆず小姫みたいだ――――」
   姫橘さんの手が止まった。
   「鵙ヶ沼伝説の?そう、この子はゆず小姫。若様だけにお教えしましょうね、私は柚子香と名付けます。伯爵様にも鵙ヶ沼の奥方さまにも内緒ですよ」
    母はともかく、何故父親にも赤ん坊の名を隠すのか判らなかった。姫橘さんの白い指が僕の小指に巻きついた。彼女はやっと二十歳ほどだったろう。優しそうな眼をしていて、とても幸せそうだった。その夜、赤ん坊ごと忽然と消えるとはとても考えられなかった・・・・。   

* ***********************************

「この数年捜して、捜して・・・・諦めかけた頃、たまたま立ち寄った牛島家で君の名を十数年ぶりに耳にした時、僕は狂喜した。小躍りしたいほどに。千年も待ち焦がれた恋人に再会した気分だったんだよ、ゆず小姫」
 「あなたは私の母も出生も全て知って・・・・」私の唇がわななきながら動いた。「そうして今になってどうして私を捜していたの・・・・」
 「君を今日、幸福の頂点から地獄へ突き落とすためにだ」
 膝がなえ、私は冷たい床に純白のレースの裾を広げて座り込んだ。さっきから頭の中で前触れを告げていたあのざわめきが一気に吠え狂い始めた。
 楡彦の視線がはるか頭上から私のうなじにまとわりついていたが、そっとかたわらにしゃがみこみ、胸のジャスミンを手にとると、私の裂けたレースに差し込んだ。
 「綺麗だよ、ゆずちゃん。今日という日のために僕が全身全霊を賭けて磨き上げただけのことはある。やはり樹之宮の血だな。君を手に入れて以来、ひたすらその幸せだけを追求してきた。口さがない者たちから君が余計なことを知ってしまい何度か僕の元から去ろうとした時にはひやりとした。大切な持ち駒だったからね。そういう番狂わせはあったがまず順調に、君は幸福の絶頂に上り着いたはずだ。―――――奈落のそこへ墜とされるためだけの絶頂へ―――――」彼の瞳が邪険な色に満たされた。「そのためだけに僕のこの半年はあったのだから」
 「楡彦さ・・・ん・・・」
 彼の言葉が私の胸に深い孔を穿った。
 「柚子ちゃん、君は知らなかったろうね。君を腕の中にするたび僕がどんなに勝利感に浸っていたか。あの男の娘を征服し、踏みにじってやっている・・・・・そう思うだけで頭の芯が痺れるようだった。いよいよ明日はと思うと昨夜は特に―――――」
 昨夜の熱を持った唇がまざまざと思い出された。私を愛したその唇からよもやこんな残酷な言葉を聞かされようとは・・・・・!
 「に、楡彦、貴様・・・・」
 沈黙を守っていた伯爵が呻いた。
 楡彦は勢いよく振り返り、
 「これがあなたに味合わせられる最大の痛手だ。恐慌よりも、財閥の危機よりも!」
 「わしを、そこまで憎悪するか・・・・」
 「生まれたばかりの柚子香の聖らかささえ僕のこの炎を煽りたてるばかりでした」
 再び私に向かうと、彼は肩を?んで立ち上がらせた。考えることさえできずなすがまま彼の面から眼を放すことができない。
 「さて、君の一番望むものforeverと正反対のものをプレゼントしなくてはね。―――――――今を限りのさようならを。君にはこれまで結構贅沢をさせてきたからその費用を返してもらう。痛くも無い額だが下賎の女郎の生んだ娘にくれてやる金は一銭もないのでね。じき、吉原から迎えが来る手はずになっている。何の取り得もない娘が借金を返そうとすればそれしか方法はあるまい。ましてや母親がその出身なら君もその水に合っているだろう。郭でもきっと売れっ妓になるに違いない。ほら、牛島の息子だって君を手放すのをあんなに嫌がっていたじゃないか。まったく君の肌は絶品だ。僕もこの半年、心ゆくまで愉しませてもらったよ。今夜から独り寝かと思うとやりきれないくらいだ」
 言葉の終わりの方は私だけにしか聞こえないように、耳元で囁かれた。
 「そうそう、その役立たずのウエディングドレスだけは餞別代わりに持っていくがいい。借金返済の足しにするもよし、思い出にすがって残しておくもよし、好きにするさ。ああ、ちょうど迎えが来たようだ」
 大広間に男がふたり入ってきた。ひとめでその世界の者と判る、和服姿の中年男だ。私は総毛だった。
 「楡彦、後生だ、それだけはやめてくれ!その娘を遊郭に売り飛ばすのだけは・・・・!」
 突然伯爵は身を乗り出し、車椅子から転げ落ちた。助け起こそうとする成瀬の手を振り払い、
 「何でも望みのものをやる!爵位はもちろん、総帥の座も、わしの資産も総てだ!わしが謝罪すれば気がすむのなら、これ、この通りだ・・・・・」
 ごましお頭を振り乱し、息子の足元にひれ伏した。血管だらけの手が床の上で震えた。
 不意に哄笑が響き渡った。
 楡彦がこんなに大声で笑うことができるとは想像もできなかった。
 「長い間夢見てきましたよ。こうしてあなたが屈服するのを。・・・・ひと目この様を百舌絵さんに見せてあげたいものだ」
 百舌絵さま――――――――!
   その名が頭の中のざわめきと交錯し、交じり合い、ひとつになった時、私は知った。
   百舌絵さま――――――百舌絵さま―――――――
  そうなのだ。楡彦をここまで追い詰め復讐の鬼にしたのは他の誰でもない―――――百舌絵さまなのだ。彼女のために楡彦は・・・・!
 「別れのくちづけをあげよう」
 最後の接吻は干からびた思い出の香りがした。
 「嘘・・・うそよ」
 我知らず彼の胸ぐらを握りしめていた。
 「嫌よ、楡彦さん!嘘だと言って!今のは皆、冗談だと!私たち今日、教会で式を挙げるのよ。夫婦になるのよ。そして明日には欧州行きの船に乗るのよ。さあ帰りましょう、そんな恐い顔は置き去りにして。あなた、昨夜も言ったわ、幾星霜も君の瞳を見つめて生きるって!そうじゃなかったの?優しい眼差しも心づかいも、何もかも演技だったの?最初はミラノでしょう、それから巴里、そして最後にロンドンへ・・・・・もう予定は組まれているはずよ。楡彦さん!あなた、私が去ったら死ぬって・・・・何もかも嘘だったの?あなたは柚子香を愛してくださっていたのじゃなかったの?楡彦さん!楡彦さん―――――――」
 喉も、身体も、心も、避けてしまいそうだ。悲痛な叫びの尾が消えていき、楡彦の冷たい手が襟をつかむ私の指を一本ずつ引き剥がした。その手は昨夜の熱さなど微塵も残してはいなかった。
 「君の役目は終わった」
 秀麗な眼元にはひとすじの乱れもない。
 男たちがやってきて楡彦の合図に従い私をがっしりと両側から押さえ込んだ。そして有無を言わさず引きずっていく。
 「・・・・・・・・!」
 刹那、伯爵の手が空をつかみ、顔面が激しく歪んだ。成瀬が狼狽し、上ずった声で助けを呼ぶのが聞こえたが、私の視界にはたったひとりの人しか映ってはいない。
 やおら煙草を取り出しライターを鳴らす、眼に馴染んだ仕草が遠くなっていく。
 「楡彦さん!楡彦さ・・・ん!」
 自分の絶叫が夢の中のように反響していった。


   その二   姫橘への手紙

     第 一 章


 八月の末ともなれば、誰もが夏の盛りより確かに日没の早くなったことを感じ始めてはいたのだが、それにしても黄昏時には少しは涼風が立ってもよさそうなものを、このまとわりつくような暑さはどうだろう。日中の残暑がそのまま衰えず狭い小路に澱のように淀んでいる。
 朱い格子を照らす灯火はよけい眼に暑苦しく、どこかで微かにちろちろと鳴っている風鈴の音も耳障りになりこそすれ、全く涼しさを運んではこない。そろそろ客がやってくる時間だというのに今宵もこの吉原の大通りや小路には人影はまばらだった。その年の三月に襲った大恐慌の余波であることはわかっていても、こうも茶をひく花魁が連日続出しては諦めの悪い遊郭の者たちは愚痴をこぼさずにはいられない。
 ここ水蜜楼でも、客を待つ娼妓たちが暇を持て余していた。いや、彼女らよりも、この道四十年の仲居頭が虚ろな眼をして煙草盆を前にべったりと座り込んでいるので話しにならない。この太夫をあの客へ、あの花魁をこの部屋へとめまぐるしく采配をふるっていてこそ彼女は水を得た魚のようにいきいきとするのだが、こうも閑古鳥が鳴いては魂が抜けたかのようだ。
 今、暖簾を分けて仲居頭のところへやってきた丸顔の娼妓もまた、塗りたくった白粉が無駄になりそうな気配を感じてか、至極不機嫌だ。
 「ああ、蒸すったらありゃしない」
 襦袢の裾をまくりあげて団扇の風を送る。
 「これ、こんなとこへ油売りに来る暇があったら客を待っときな」
 仲居頭が顔をしかめるのへ、
 「ふん、自分の皮さえ引っぺがしたくなるような熱さなのに、女郎とべたつきたがる男がいるもんかね。もっとも、東部屋だけはひきもきらずお盛んなようだけど」
 「あめんぼ、あんたも姫橘さんの爪のアカでも煎じて飲んだらどうだい」
 「ああ、新造と変らない妓に負けるようじゃ、あめんぼ姐さんもお終いか」
 彼女が白い喉をのけぞらせて下品に笑った時、玄関で番頭の威勢のよい「いらっしゃいませ!」が響き、ふたりは揃って暖簾から顔を突き出した。
 客の男は早くも上がりこみ、そのまま案内を無視して仲居頭の控えの間の鴨居をくぐった。上着を鷲づかみにし、銀縁眼鏡の下の浅黒い肌に汗を吹き出させている。
 「これは海藤様!ようこそお越し」
 「長のご無沙汰だったじゃありませんか、海藤の旦那」
 丸顔のあめんぼが媚びた声を出して肩にすがりつくのを男は気がなさそうに眺めた。
 「ががんぼか。今日は生憎、お前には用は無い」
 「あめんぼですよぉ。名前まで忘れるなんてひどぉい」
 仲居頭が満面に愛想笑いを作って、
 「今夜はどの妓になさいます?」
 いそいそと立ちかけたが、海藤はどっかとその場へあぐらをかき、苛々とネクタイを緩めた。
 「その前に尋きたいことがある。この妓楼に姫橘という娼妓はいるか」
 「また、姫橘!」あめんぼは口を尖らせた。「来る客、来る客、姫橘、姫橘!いったい、あの娘のどこがそんなに・・・・」
 「いるのか?」海藤の眼鏡の奥の眼が光った。「ここの娼妓なら馴染みだから源氏名はみな知っているがまるで聞き覚えがない」
 「おや、この吉原に旦那のお馴染みでない楼なんぞありましたかねえ」
 仲居頭がちくりと言ったが相手はまるで意にかいさぬ風で、いつもとは少し様子が違う。
 「いるんだな、姫橘という娼妓は。知っているんだな」
 「知ってるも何も・・・・」あめんぼは耳に突っ込んでいた小指にふっと息を吹きつけ、気だるそうに言った。「ハナから吉原の有名人ですよ。なんせ、ウエディングドレス姿でここへ売られてきた娘なんざ前代未聞でしょ」
 その後を仲居頭が続けた。
 「着くなり納戸へ閉じこもっちまって怒鳴りつけようが切々と口説こうがぴたりと閉め切って出てきやしない。こりゃとんだ火種がやってきたもんだ、使い物になるまいって噂したんですよ。ところが三日目の朝、自分から出てくるやあの娘はドレスを脱ぎ捨てて言ったね。(捨ててください)と。娼妓たちが一斉に群がって引っ張り合うやら真珠をむしりとるやら。で、新造(見習い)はどうしても嫌だ、その夜から初店に出るってきかないもんだから客を取り始め、あれよあれよというまに今じゃ古株の姐さん方を足元にも寄せ付けぬうちの稼ぎ頭ですよ。今だって朝まで客の予約が入ってるんですから。それで、姫橘の噂を海藤様もお聞きになっていらしたので?」
 「いや、手紙をもらったのだ、その姫橘から。この大恐慌のど真ん中、寝る間も無いくらい労働争議と借金取りの猛攻にさらされている俺に、五通も、だ!逢いに来いとな!」
 「手紙ですって?」仲居頭は小さな眼を丸くしてあめんぼと顔を見合わせた。「いやだ、あの娘ったら海藤様にまで・・・・」
 「ずうずうしいいったらありゃしない、あの金の亡者!」
 「じゃ、手紙をもらったのは俺だけじゃないのか?」
 「えーえ。ほら、あのタヌキみたいな高利貸しもだよね、あめんぼ?牛島ていう・・・姫橘さん、客を取り始めて早速あの父親と息子に手紙を書いて、それ以来ふたりとも三日に上げず通ってくるじゃないか」
 「ほんとによく親父と息子が鉢合わせせずにすんでること」
 「そこはそれ、このお八重さんの腕の見せ所さね」
 仲居頭はお歯黒を見せてカカカと笑った。そして奥に向かってビールを持ってくるよう言いつけてから、
 「なんでも姫橘は以前あの牛島の家で女中をしていたって話だよ」
 「ははん、じゃ、もう手づるは整ってたんだ。それにしてもあの父子、すっかりあの妓に骨抜きにされちまって。だいぶん搾り取られたろうよ。それでもまだ貢ぎたがってるんだから呆れちまうねえ。奥方が知ったらどんな顔するだろう、旦那と息子、両方手玉に取られてるなんてさ」
 「あのお腹の子だってお客のうちの誰の子だか判ったもんじゃないのにそれぞれ自分の子だって信じてるときてる」
 「な―――――――?」
 海藤が運ばれてきたビールのグラスをとり落としそうになった。お腹の前に手をやり、
 「その姫橘ってのはこれなのか?」
 「そうなんですよ。妓楼の面汚しと言われても仕方ございませんが、いくら言っても堕ろそうとしませんので・・・・」
 海藤は立ち上がった。
 「帰る。ハラボテの娼妓を相手にせねばならんほど女に不自由してないんでな」
 「ちょっと、海藤の旦那!」
 部屋を出て行こうとする海藤を追って、仲居頭とあめんぼがあたふたと立ち上がった時、廊下に人声がした。
 帰る客をひとりの娼妓が見送って出ていたのだ。
 「ありがとうございましたッ」
 威勢のよい番頭の声と共に、宵の客は暖簾の向こうへ消え、娼妓はゆらりと引き返そうとした。艶やかな紅色の着物に包まれた身体の、胸の下から下腹にかけてツンと張り出した膨らみがまず、眼に飛び込んできた。明らかに児を宿しているものだ。髪は娼妓特有のしやごまに結い上げて、白粉を塗りたくった折れそうなうなじにほつれ髪が乱れかかり、えも言われぬ風情の、その面は―――――。
 「あんた―――――――」
 娼妓は瞼に朱を掃いた艶めかしい目で笑いかけた。
 「来てくださると思ってました、海藤様」
 「あんただったのか、姫橘ってのは・・・・」
 訳がわからず眼をぎょろつかせている仲居頭の手元にいきなり、黒い皮財布が投げ込まれた。
 「明かし花だ。朝まで他の客は断れ。それでは足りないか」
  「い、いえとんでもない」
 海藤は自分から娼妓の手をひっぱって、二階へ上がってゆく。あめんぼが襦袢の袖口を噛んでその姿を睨みつけた。ハラボテの女を相手にするほど不自由してないってたった今言ったばかりじゃないのよぉ」

* **************************************

蚊取り線香の灰が屈託なく落ちた。
大引けの時間(午前二時)になっても粘りつくような暑さは一向に衰えない。開け放たれた窓から郭の夏の夜の景色を眺めながら、娼妓は語りつかれて押し黙った。琥珀色のランプの灯が小作りな横顔を照らし、白い手はゆらゆらと団扇を動かしている。首も肩も華奢なだけに大きいお腹が痛々しく見える。花魁の派手な化粧もまた、この撫子のような弱弱しい姿には不釣合いだが、それがまた一種の艶めかしさをつくり出しているのだ。
 海藤はじっとりと汗で湿ってしまった浴衣のまま、また一杯飲み飽きた酒を惰性で注ぎ、あおった。空になった銚子の数ほどには酔いが感じられないのは彼女の語ったやりきれない話のせいかもしれない。
 それにしてもこの娘の変貌ぶりはどうだ。
 初めて見た時の、フランス人形さながらのダンスパーティーでの彼女も、雪の夜マントルピースの前で話し込んだ時の、すっかり若奥様ぶりが板についていた彼女もそれぞれに可憐で魅力的ではあったが、海藤の気を引く種のものではなかった。ところが今夜、女郎に身を堕とした突然、現れた彼女が今までで最も彩り鮮やかに眼に映るのはどういうわけだろうか。あれほど一途に想っていた男に欺かれ、捨てられ、今は誰の子とも知れぬ子を宿してそうしながらも尚、毎夜客を取らねば生きていくことを許されぬ、凄絶な生き様が彼女にこんなにも禍々しくも妖しい美をまとわり着かせているのか――――――。いや、そればかりではない何かが海藤には感じられた。
 「あんたが樹之宮幹吾の娘だったとはな」
 海藤はもう一杯ぐっと飲み干すと膳を横へ押しやった。隣の間には遊郭特有の艶めかしい調度に囲まれて朱い夜具がひとながれのべられている。
頭の隅でそれを意識しながら、銀縁眼鏡を外して目頭を押さえ、大きなため息をついた。
 「よほど腸わたが煮えくり返っていたんだな、楡彦のやつ。裏からストライキは扇動する、親父の汚職をでっち上げて家名にドロを塗りたくる、・・・・・ま、欧州航路の件じゃ俺も片棒担いだわけだしでかい口はきけんが・・・・。いくらなんでも罪も無いあんたをこんなところへ売り飛ばすとは」
 「変だとは思っていたんだ。結婚式だって聞いたから祝いを贈ったのに返送されてくるし、楡彦はさっさと欧州へ旅立っちまったし。あんたとは破談になっただけだと思ってたんだ。ま、恐慌からこっち、そんなこと考える暇もなかったのが正直なとこだ」
 姫橘――――――柚子香はゆっくり振り返った。
 「何度も手紙を書いてこうして来ていただいたのは・・・・・」
 「常連になれってか?牛島とやらいう高利貸しの父子みたいに」
 柚子香は首を振った。濃い影を落とす睫毛がぱっちりと上げられた。お願いがあって。
一生のお願い。ひとつは私を身請けしてくださること」
 浴衣の懐にパタパタと扇子で風を送っていた海藤の手が止まった。
 「身請けだって―――――――?」
 「自由になりたいんです。どんなに客をとってもここの年季は十年以上っかってしまいそう。そんなに待てない、急ぐんです」
 「気持ちはわかるがしかし、身請けとなると・・・・」
 狼狽する男の様子を見て、娼妓はクスリと笑った。その表情にはとても十代の娘とは思われぬ男を喰ったような色が浮かんでいた。
 「隠岐真宝子さまとのご婚約が整われたこと、存じています。ご迷惑はお掛けしませんわ。名目上でよろしいのです。借金さえ肩代わりしてくださればその分は後ほどきっとお返しします。
 「どうやって」
 「もうひとつのお願いを聞いてくだされば」
 姫橘の瞳が底知れぬ妖しい光を放った。この娘にこんな眼ができようとは海藤は思ってもみなかった。彼女の語るもうひとつの願いを聞いて、海藤の背筋は冷たくなった。もはや酔いは完全に消し飛んでいた。
 「お、俺に楡彦を裏切れというのか」
 「そうなってしまいますわね。でも私にはあなたにおすがりするしかありません。ましてやあなたもこの不景気で色々とご苦労が多いはず。私の願いが叶った暁には充分なご援助をしてさしあげられるでしょう。私を身請けするという醜聞がもし隠岐様のお耳に入ってご縁談が流れたとしても、あちらからの利益を補って余りあるほどの――――――。ドロを被ったとはいえ樹之宮の莫大な資産と土地は無傷のままなんですから」
 「・・・・・・」
 海藤の額の汗が冷たいものに変った。
 「でも急がなければ露と消えてしまう話です。樹之宮伯爵は汚職事件で逮捕された後、釈放されたものの相当弱っているらしいし」
 病身の父親を気づかっての言葉ではない。そう長くはなさそうな伯爵の寿命によって事態が左右されることを恐れているのだ。
 「しかし、伯爵は御殿の奥深く、楡彦の配下の者によって厳重に外界と途絶されていると聞く。とても接触するのは・・・・・」
 「ではこのまま郭の片隅で朽ち果てろとおっしゃるの、海藤様。私は樹之宮幹吾のこの世でたった一人の子ですのよ」
 「たった一人の?」
 柚子香の口から楡彦の出生にまつわる事実が語られた。海藤はしばらく汗をかくことも忘れたかのようだった。
 「そうだったのか・・・。それであの父子はあんなにも・・・。でも、だからといってやはり楡彦のしたことは許されることじゃない。父親にアワを吹かせるために、あんたの人生をめちゃめちゃにするとは」
 「私―――――――」姫橘は突然優しい目に立ち戻った。「それで、あのひとの役にたてるなら喜んでここへきたと思います。あのひとがそうしろと言ってくれさえすれば・・・・」
 そしてその眼に一点、炎が灯る。
 「私が許せないのは愛されて裏切られたのならまだしも、最初から愛されていなかったということ!そして――――――そして――――――」
 炎が燃え上がったかと思うと、瞼はぎゅっと閉じられ、妓はその先を喋ろうとはしなかった。その、憎しみに蒼ざめた月のような面を目の当たりにしていると、海藤は気の遠くなるほど欲情する自分を感じた。胸がじんと焼け火箸を飲んだようになり、下腹部がねじくれるほど鈍い重みを持ってくる。
 そして、その瞬間唐突に閃いたことがある。
 「柚子香さん、そのお腹の児は楡彦の・・・・そうなんだろう」
 妓の眼が蒼白い視線を発した。
 「それほど憎んでいるのに何故堕胎しない」
 「憎んでいるからこそ、です」
 「え――――――?」
 「この子が日増しに重くなって厄介に思うたび、お腹の中で蠢いてぞっとするたび、私はあのひとに地獄に墜とされたことを思い出す。あのひとへの憎しみを決して忘れないためにこの子を生かしておくのですわ」
「・・・・・」
あまりにも激しい思いに海藤は唖然とした。
 この、少し触れただけで折れてしまいそうな肩の、まだ少女というべき年齢でしかない娼妓の執念に薄ら寒いものを覚えずにはいられない。
 「同じ―――――眼をしている」彼は呻いた。「その眼、父親を憎む楡彦と同じ眼だ。やはり、血だな」
 姫橘は無言で物思いに沈んでいたが、やがてゆらりと立ち上がり、次の間へと入っていった。夜具の枕元にたたずみ、かんざしを抜きながら男を振り返る。その様子は生まれながらに男という男をひとり残らず惹きつけてしまう魔力のような何かを持った女にしか出せぬ風情だ。
 「隠岐様をとられるか、樹之宮の娘に賭けてみるか―――――――一晩よくお考えになってみては?暑いといってももう秋。夜明けまでずいぶん長くなりましてよ。さ。難しい話はやめにしましょう。まさかこんな話をするためだけに明かし花をお払いになってくださったわけではないでしょう?」
 言い終わると真っ赤な襦袢を肩から脱ぎすべらせた。眼を射るほどの蝋のような乳房の胸元に、樹之宮の娘の刻印があるのを、海藤はしばし電撃を受けたように見惚れた。

* *********************************

それは凱旋と呼べるような華々しい帰国だった。
洋行帰りの若き実業家、樹之宮楡彦は故国の地を踏むなり新会社設立へ向けてラストスパートを開始した。新しい事業は貿易が主であったが恐慌にさらされても依然、強みを見せる重工業や綿繊維工業にも、父伯爵の張り巡らせた財閥の組織を基盤に、徐々に進出していくだろうと言われていた。
 欧州滞在中での英国外交官とのいさかいや、仏女優との恋の噂など派手な醜聞にも事欠かず、労働争議の頻発する世相の真っ只中で創業記念のパーティーや催しが東京市内の一流ホテルで連日のように開かれ、マスコミに披露された。
 実業界はもちろん政界のお偉方も度肝を抜かれるやら、さすが名門の樹之宮、父親の汚職事件をものともせぬと感心するやら、また逆に軽蔑の眼を向けられるやら、楡彦の周囲は実に賑わい甚だしかった。
 今日も帝都ホテルでは取引先となる企業主を招いての晩餐が予定されており、ボーイが忙しく立ち働くホールには注目の的の若き主賓が指図する姿があった。
 ふと、彼が気配に振り向くと久しく逢わなかった旧友が純白のリネンのテーブルの間を縫って近づいてくるところだった。楡彦はにこやかに友を迎えた。
 「海藤、元気そうだな。どうした、創業記念のパーティーに顔を見せてくれなかったが」
 海藤はむっつりとしたまま側へ来ると、前置き無しに切り出した。
 「吉原に、女郎だった母親の源氏名を使っている妓がいるぞ。姫橘ってんだ」
 蝋燭の火が吹き消されるように、楡彦の面から笑みが消えた。握手に差し伸べた手を引っ込め友を見据える。
 「ほう?で、どうだった、味の方は」
 「馬鹿を言え。指一本触れとらん」
 「それはまた何故!浴衣より花魁の襦袢の方が寝心地がいいと常々、のたまっている優馬氏の言葉とも思えないな。客と女郎だ、誰にも遠慮はいらんじゃないか、無論、僕にも」
 不敵な表情の中に嘲笑が入り混じっていた。
 「誰がお前になど」海藤の声も刺々しい。「お腹の児のことを思ってやればそんなことできるわけがないだろうが」
 テーブル・セッティングをしていた給仕たちが手を止めてこちらを向く。
 楡彦はなんでもない、と言い渡すかのように手でちょっと合図をしてから、改めて海藤の顔を食い入るように見つめた。
 「お腹の児だって・・・・?」
 「ああ。彼女は身ごもっている。晩秋には生まれるだろう。お前の子だぞ」
 「馬鹿馬鹿しい」楡彦は鼻にもかけぬ様子で視線を外した。「身ごもっていると聞けば僕がほとけ心を見せてもう一度引き取るとでも思ったのか?あいにく彼女にはまだまだ底辺を這いずり回ってもらわなくては困る。第一、僕の子だっていう証拠でもあるのかね。あれは娼妓だ。毎夜何人もの男に抱かれる女郎なんだよ」
 海藤の顔面に朱がのぼった。
 「お前がその世界に投げ込んだんじゃないか、むごい奴だ。あの娘は、柚子香さんは俺が落籍させたからな」
 重い沈黙が置かれた。
 「君は僕を敵にまわすつもりか」
 「彼女は充分苦しんだ!あんな気立てのいい娘が・・・・」
 「いい歳をしてあんな小娘にのぼせ上がったのか」
 「カン違いするな。俺は郭から自由の身にしてやっただけだ。これから彼女は誰の庇護も受けずひとりで生きていくつもりだ。
 「健気だが不可能な話だ。女ひとり子どもを抱えて生きていけるものか」
 「お前、彼女が唾きしたいほど憎んでいるお前の子を育てるとでも思ってるのか?
 「な・・・・に?」
 楡彦が眼元に険しい色を浮かべた時、部下らしき男がやってきて彼の耳元にふたことみこと、何か囁いた。
 一瞬、楡彦の顔に毛筋ほどの反応があり、男が去ってから、給仕にブランデーを持ってくるよう命じた。給仕は速やかに用意するとふたりに大きなグラスを持たせて琥珀色の液体を注いだ。
 「乾杯!楡彦はグラスをかかげて上機嫌な声で言った。「樹之宮家の新しい伯爵の誕生を祝ってくれたまえ、海藤社長」

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沼は今日も悠久の色を湛えて山の懐深く眠っている。
樹之宮家の女当主は永い間毎日のように見慣れた遠い瑠璃色の水面を眺めやった。秋草模様の紫苑の色目の小紋と、そろいの半襟が彼女の象牙のような肌をより輝かせている。両手には小菊や秋咲きの薔薇、そして桔梗などがたっぷり抱えられている。若いメイドに指図しながら、屋敷に飾る材料を中庭の花壇から選んでいるのだった。
 「このくらいでよろしいわ、ありがと」
 女主人の許しが出たので、メイドは自分の持ち場へと帰っていった。百舌絵は再び木立の向こうの沼に目をやった。今日も――――――いつもと同じ、単調な一日が始まり、過ぎてゆくのだ・・・・。そう思った時、陽を受けてきらめく水面が突然、人影によって遮られた。
 「御前・・・・」
 百舌絵はそこに最愛の人を認めた。
 「何故・・・・?ここへはもう二度と帰らないと・・・」
 楡彦はかれこれ十ヶ月ぶりに会う彼女を満足げに見つめた。少女のような澄んだ瞳、気品と知性の融合した完璧な姿・・・。これが自分の母であって母ではないひとなのだ
――――――。
 「帰って来るべき日がやってきたのですよ――――――伯爵が身まかられました」
 楡彦の口調はこれ以上は不可能なほど落ち着いていたが百舌絵の顔はみるみる蒼ざめた。
 「お義父さま―――――が?」
 「地位も社会的信用も失い失意のうちに」
 「私の、私の恨みを晴らしてくださったのね」
 「当然の報いだ。長年あなたを裏切り苦しめてきたんだから」
 「御前・・・・」濃い睫毛が涙にまみれた。「この日を、どんなに待ちわびていたことか。もうこれで、いつお帰りかとびくびくして暮らさなくてもよろしいのね」
 「そうですよ、百舌絵さん」
 夫、幹吾の死を、義父葉之助の死と思い込む母親と、それを夫として告げる息子だった。
 奇妙なことだと楡彦は思う。
 父親、幹吾に辛酸をなめさせ、復讐は遂げた。不義の生まれの自分に数々の仕打ちをし、母の罪を責め、面当てのように何人もの愛人を囲った、憎むべき父親はこの世から去った。
 楡彦は長い長い呪縛から開放されたのだ。復讐の道具に使った娘と暮らすため、昨年の秋この母に別れを告げたのはもちろん偽りだ。この素晴らしい女性を見捨てるわけがない。だからこそ総てが終わった今、こうして彼女の元に帰って来た。それが、何を意味するのか――――――またしても禁忌を犯し続けるつもりなのか。ふと楡彦の心が翳りを帯びた。
 百舌絵が汚れの無い瞳で見上げ、問う。
 「御前、姫橘さんは?あの方とお暮らしだったのでは」
 彼女の内部では昔、噂から知ったらしい夫の愛人の名、姫橘――――――柚子香、そして幹吾―――――――楡彦が複雑に絡み合い、錯綜し、判然としないようなのだ。
 「彼女は色里へ戻りました。やはりその水の女でしかなかった。
 「それで、私のところへ戻ってくださったのですね」
 二度と放さないとばかりに彼女は楡彦の胸にすがりついた。
 (それで、いつまで夫の役を?)
 楡彦は自分に問いかけ、深い苛立ちを覚えた。そしてそれを振り払うかのように、百舌絵の艶やかな唇を荒々しく貪り始めた。
 美しい人の手から花々が落ちた。
 「御前・・・嬉しゅうございますわ・・・嬉しゅう・・・」
 途切れ途切れにあまい声が洩れた。


    第 二 章

 気だるいまどろみが楡彦を捉えて放さなかった。
 まどろみというには病的な睡魔である。身体はおき火がくすぶるかのように熱く、鼓動が早い。もうずいぶん前―――――――この鵙ヶ沼の屋敷を出る前から、彼はこの不調を感じていた。それをおしてここ半年、欧州行きを決行し、新事業のためにひた走ってきたのだが、久しぶりに帰郷して気が緩んだせいか一段と疲労感を増したようなのだ。もっとも、年末になれば新年からいよいよ業務の始まる社の、本格的な準備のため再び上京しなければならない。そうすればこんな不調くらい消し飛んでしまうに違いない。
 だが、もうひとつ精神的な不調が彼を物憂くさせていた。鵙ヶ沼に帰ってみて初めて感じた虚脱感。これは何なのだろう。今まで父への憎しみと母への憐憫とで微妙なバランスを保っていた心の秤が片方を失ったことで崩れたのだろうか。
 折りしも季節は一年前、少女がこの屋敷に住まっていた頃へと巡ってきていた。
 じゃれつく二頭の洋犬をあしらうたび、少女の部屋だった扉の前を通るたびその面影は微風となって彼の耳元をすり抜ける。今にも扉を開けて、一途な瞳の少女が髪にりぼん、びろうどのワンピース姿でバイエルの楽譜を抱え、現れそうな気さえするのだ。
 少女は疑いを知らず、まるで果実を獲るように呆気なさすぎるほどのたやすさで、腕の中に落ちてきた。
 (楡彦さん・・・・楡彦さん・・・・)
 まるきり処女同然だった。肌を重ねていくごとに、まだ青臭い酒が徐々に芳醇な味わいを持つかのように少女は掌中で熟していった―――――――。
 (馬鹿な・・・・)
 いつのまにかあの娘のことに思いを馳せている自分に呆れる。おそらく激務から離れているせいで感傷的になっているのだ。
 彼女の残像はすでに過去の亡霊でしかない。あの娘は今や一年前とは変わり果てている・・・・。居間の長椅子に横になってまどろみながら、楡彦の思いは取りとめが無かった。
 やがて百舌絵が入ってきた。楡彦が眠っていることに気づくと、毛布を持ってきてそっと着せ掛けようとした。そのとき――――――、
 「ん・・・柚子ちゃんか・・・・」
 楡彦が洩らしたと同時に百舌絵の手元が凍りつき、――――――しばし静寂が訪れた。 
 ほどなく楡彦は眠りから覚め、百舌絵に気づくと決まり悪げに軽く伸びをした。
 「ああ、つい眠ってしまった。暖炉が心地よくて」
 今しがた寝言を洩らしたことに覚えはなさそうだ。
 「こんなところでうたた寝あそばすとお風邪を召しましてよ」百舌絵の表情は慈愛に満ちていた。「今夜はいっそう冷え込むとか。あのお薬湯をお持ちしましょう」
 メイドに命じて持って来させた薬湯を、ゆるりとかき混ぜながら、
 「姫橘さんは忘れず飲ませて下さっていまして?」
 「ええ、欠かさず」
 百舌絵が手づから湯飲みを持って飲ませる薬湯をゆっくり飲み下してから、楡彦はお寝みなさいを告げて居間を引き上げようとした。その背中を百舌絵の小さいが鋭い声が引きとめた。
 「今夜もお書斎の部屋で休まれますの?」
 「―――――ええ。東京へ送る資料を作らねばならないものですから」
 「そうですの・・・・」萎れた百舌絵は雨露に濡れた白百合の風情だ。「お帰りあそばしたあの日だけですのね、私の部屋でお寝みになったのは・・・・」
 「子どもみたいですよ、百舌絵さん」
 軽く退けて廊下に出た。
 (いつまで?)楡彦はまたしても問う。(いつまで夫の役を・・・・?)

* *************************************


小春日和である。
いよいよ秋は深まり、山々はその頂から順に鮮やかな化粧を色濃く施し麓へと絵の具の刷毛を伸ばそうとしている。
 くねくねと登り行くつづら折の山道を、小豆色の小花柄の袷を着たひとりの少女が歩いていた。髪は可憐な洋髪に結い、地味なりぼんをやや下目に結んでいる。じっとしていても汗ばんでくる今日の陽気に、里から長い山道を登ってきたのだろう、額には玉のような汗が浮かび、しかも少女のせりあがった帯のすぐ下は傍目にも臨月と判るほど大きく張り出していた。
 まだあどけなささえ残る眼には、しかし、鋭い光があり、前方を睨みすえ重い身体を一歩一歩進ませる足取りには執念のようなものが宿っている。
 稜線の向こうには雲ひとつない吸い込まれそうな青空が続く。その山影を越えれば鵙ヶ沼が視界に広がるはずだ。

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 その日、楡彦は久しぶりに気分の良い時間を過ごしていた。
 この二ヶ月、在宅で仕事をする日が続き、身体の不調も手伝ってめったに外出することはなく、否が応にも、使用人たちが用を聞くのさえ機嫌を窺ってびくびくせねばならぬほどに気分を滅入らせ、言動が粗くなることもあったのだが、今日は上天気のせいもあってか自分でも不思議なほどゆったりとした気持ちになっていた。
 紬に袖を通し、鵙ヶ沼の周囲を愛犬二頭と共に午前中いっぱいかけて散策し、秋の豊穣な色彩に目も心も浄化されたようだった。
 「まあ、お珍しいですのね。紬などお召しになって」
 昼食の席で顔色の良い彼を見て、百舌絵もほっとしたようだ。
 「ええ。今日の午後はとても静かに読書などできそうですよ」
 「ご本もよろしいけれど、一服お立てしましょうか、仰樹庵で」
 「いいですね。筧の音が聞きたい気分だ」
 「では、後ほど・・・・」
 百舌絵はいそいそと席を立っていった。
 楡彦はダイニングテーブルでしばらく新聞や書簡に眼を通していたが、やがて立ち上がると開け放たれたテラスを経て庭の芝生地に下り、陽だまりの中にうずくまっていた陶のテーブルと椅子に着いた。メイドに命じて筆記用具を持って越させた頃には食堂の片づけの物音も遠のき、木々の枝を渡る風だけが澄んだ音を響かせた。二頭の愛犬が彼の足元で伏せ、前足に顎を乗せて居眠りを始める。
 楡彦はおもむろに真っ白なレターペーパーを取り出し、昏いほどの青空を見上げ、やがて冬に向かう陽を惜しんで身体いっぱいに浴びながら何か考えに耽っているようだったがついにペンを握るとその先をインク壷に浸し、静かに動かし始めた。
 時折、百舌鳥が今は秋なのだと思い出させようばかりに鋭くさえずって滑空していく。
 ――――――どれほどの時が過ぎたろうか。
 犬のアイザックがぴくりと耳を動かし、瞬時に顔を上げた。次いでパウエルも身を起こす。二頭は次の瞬間、ちぎれるほど尻尾を振りながら駆け出した。
 はるか彼方の門のところで犬たちの出迎えを受けた柚子香は、彼らにはまったくかまわずに力強く歩いてきた。
 いくつもの植え込みと花壇を越えて芝生地に辿りついた時、彼女は肩を波打たせていた。
 「去年と変らないのね、咲いている花も、たたずまいも」
 楡彦は顔を向こうに向け、頬杖をついてまだペンを動かしているらしい。柚子香に気づいているのかいないのか、こちらを向こうともしない。
 娘は目をらんらんと燃え立たせ、男の背を睨んだ。
 「相変わらず優雅なお暮らしぶりですこと。下界では庶民達が職もなく、高い物価に苦しんでいるというのに」
 柚子香は懐から白い封筒を取り出した。
 「でも、それも今日限りです。これが何だかご存知?これは、樹之宮幹吾伯爵の遺言状ですのよ」
 柚子香は細い手で封筒から中の書状を取り出して開け、前に突き出してみせた。書面には墨で黒々とした文字がしたためられている。それでも楡彦の動く気配は無く、ただ茶色い前髪が風になぶられているだけだ。
 柚子香の声が甲高くなった。
 「無視なさるおつもりですか?いつまで知らんふりがおできになるかしら。さあ、ごらんになって!伯爵が私に遺された遺言です。この屋敷はもちろん、樹之宮家の広大な領地、鵙ヶ沼も、東京の御殿も、そして樹之宮財閥も総て!総てを私ひとりに相続させると言い遺して亡くなりました。海藤さんと成瀬さんが尽力して伯爵が息を引き取られる前に書きのこさせて下さったのです。迂闊でしたわね、楡彦さん。遺言書を受け取っておかなかっただなんて。私はあなたに突き落とされた地獄から這い上がってきたわ・・・・!今度はあなたを幸福の絶頂から突き落としてあげる。もはやあなたには、あなたたち母子にはここに住む権利は無いのよ。この鵙ヶ沼屋敷の主人は今日から私!美術品から庭土のひとかけらに至るまで総て私のものよ!あなたたちは身ひとつで出て行っていただくわ。あなたの新しい会社も旧財閥の地盤と資金を失って果たして始められるかしら?」
 柚子香の眼から怨念の涙があふれた。
 「さあ出て行って!今すぐよ!」
 楡彦は尚もひそ、とも動かない。
 「あまりのことに、お声も出せないの?」
 彼の肩をにらみつけたまま、柚子香が近寄ろうとした時、それまで周囲で戯れていた犬がにわかに尾を垂れ、主人の足元に戻った。そしてえも言われぬもの哀しげな声を出して主人の膝に鼻をしきりとすりつける。
 途端、頬杖をついていた楡彦の左手がずれ、こうべが机の上に落ちた。右手もだらりと垂れ下がり、ペン軸が芝生の上に転がる。
 「・・・・・・・!」
 柚子香は異常に気がついた。
 急激に高鳴り始めた胸を押さえ、ゆるゆると近づきそっと楡彦の顔を覗き込み――――――、
 「ひっ――――――」
 思わず退いた。
 便箋の上に横に伏せた楡彦の顔半分の陰の蒼い色はすでに生きている者のそれではなかった。
 「今しがた逝ったようですわね」
 背後からの声に、柚子香はびくりとして振り向いた。鼈甲の櫛をゆるやかな結い髪に刺した百舌絵が湯飲みをひとつ、盆の上に乗せて立っていた。
 「この一杯は必要なかったわね」
 彼女は言うと、湯飲みの中身をざっと芝生に捨てた。あの、甘苦い独特の匂いが辺りに立ち込めた。
 「逝った・・・って」
 柚子香は硬直した唇をやっとの思いで動かした。百舌絵はゆっくり近づいてくると眉ひとつ動かさず楡彦の顔を見下ろし、
 「大丈夫、苦しんではいませんわ。徐々に徐々に身体の機能を弱めさせ、停止させていく秘薬ですから最期は眠るように――――――」
 (先代の時もそうでしたもの・・・・)
 百舌絵は心の中で後を続けた。
 「じゃ・・・あの、滋養のための漢方薬というのは・・・・」
 「ええ、あなたにも手伝っていただきましたわ」
 柚子香は総毛だった。
 「何故!何故っ・・・?貴女にとってこの人は最愛の・・・」
 「息子です」
 もっとも予期せぬ答えが返ってきた。柚子香をまっすぐ射抜くすずやかな瞳はもはや狂人などではなかった。
 「この子の不幸は自分が復讐する側の人間でしかないと思い込んでいたことでしょうね。夢にも復讐される側の人間だとは思っていなかったのだわ、可哀想に。そして愚かなこと。自分も、いえ自分こそが先代葉之助の最も濃い血を受け継ぐ者だったというのに。私が怨んであまりある者の子だったというのに」
 「いつからわかっておいでだったのです」
 柚子香は茫然と尋ねた。
 「さあ・・・・いつごろからかしら。私にも定かではないの。でもこの子の人生を狂わせて破滅させるため、夫と思い込んでると見せかけたのは確かなことよ」
 百舌絵は何事もなかったかのように陶のテーブルの上に盆を置き、息子の足元に転がるペン軸を拾い上げてペン皿に戻した。そして死者の額に乱れかかる前髪をそっと撫でた。
 「それでも致死量を過ぎるまで飲ませ続ける決心は着かなかったのよ。少なくても先日、この子が帰ってしばらくの頃までは・・・・。それを、私の心を決めさせたのは――――――これほど私が執着させようと身も心も縛ってきたというのに、この子の心があなたに向いていることがわかったから・・・・・」
 「嘘です!」
 柚子香はちぎれんばかりに首を振った。
 「このひとがあんなに周到に深い策謀を巡らせ伯爵を失墜させたのも、私を泥まみれにしたのも総ては貴女のためだったのよ!私、それが、どうしても赦せなかった。だから、こうして・・・」
 少女は遺言状を握りしめた。思いがせめぎあって後を続けることができない。その苦悶を眺めていた百舌絵は柔らかく微笑んだ。
 「あなた、そっくりね、お母様に」
 「え・・・?」
 「私が一度お遭いした時の姫橘さんも今のあなたのように大きなお腹をしてらしたわ。その赤さんがあなたよ」
 「私の母と百舌絵さまが・・・・」
 柚子香は新たな驚愕に立ち向かわなければならなかった。眼前の麗人はうなじの後れ毛そっとなで上げ、
 「ええ、とても美しい方だったわ。幹吾様が身請けなさっただけあって・・・。忠告してさしあげましたの。私を差し置いて幹吾様のお子を産んだりなさったら決して赦さない、と」
 「・・・・・・!」
 「けれど、生まれてくる子にもず姫ゆかりの名をつけさえすれば、それで赦してさしあげると。何故ならその名を持った樹之宮家の血筋の者は才と財に恵まれるものの、一方で大きく人生を狂わせてしまう――――――とも言い伝えられているから・・・・この私のように」
 百舌絵の瞳の中に暗い火が灯った。
 「でも気丈な姫橘さんは私の申し出を聞き入れず、身ふたつになった途端、失踪してしまった。そればかりかこともあろうに、もず姫の永遠の敵、ゆず姫ゆかりの名をつけるだなんて・・・ねえ柚子香さん?」
 それは母の無言の抵抗であったのか。
 恐ろしい報復の手を逃れ、流浪の果てに牛島家で倒れ、若くして亡くなった母にできたたったひとつの――――――。
 「姫橘さんは逃げ、あなたは戻ってきた。だからこそこの子の気持ちをつかむことができたのではないかしら。ごらんなさい、楡彦が書きかけていた手紙を」
 百舌絵の言うがまま柚子香は震える手で楡彦の腕の下に敷かれた便箋をそっと手にとった。文面を見つめる彼女の眼はたちまち見開かれ―――――――涙があふれた。
 楡彦のもう二度と開かぬ睫毛が陽の光に黄金色に輝いて風を受けている。
 柚子香のか細い腕が伸び、亡骸のこうべを抱きしめて泣き崩れた。
 「楡彦さん・・・!もう一度眼を開けて・・・!もう一度柚子香を見て・・・・」
 少女の懐から、光るものがこぼれ落ちた。蒼い石の嵌めこまれたネクタイピンだった。少女の涙はしきりに亡きひとの頬を濡らした。
 「帰ってきたわ、ほんとはそうよ、あなたに見てほしかったの。これが僕の赤さんかって言って欲しかった・・・・だから帰ってきたのよ。なのに、なのに・・・・」
 髪の香りはそのままなのに、少女の腕の中で楡彦の身体は急速に温もりを失っていった。
 「楡彦さん―――――!」
 百舌絵は水仙のような立ち姿を乱すことなく、少女の号泣するのを見つめていた。やがて、それが少し鎮まるのを待って、おもむろに金糸の帯の下辺りに掌を当て、
 「今朝気づいたのですけれど、私のお腹にも楡彦の命が宿ったようなの」
 柚子香の嗚咽が止んだ。
 「先代、葉之助の血筋を根絶やしにする―――――――それが、私の宿願だった。けれど、その楡彦の手紙に免じてあなたのお腹の児は赦してさしあげましょう。・・・・その代わり」
 百舌絵は眼を固く閉じた。
 「私はこのお腹の児を道連れに沼へ行くことに致します」
 「百舌絵さま・・・・」
 柚子香は決然と唇を引き結んだ百舌絵を見た。復讐を貫くために、我とわが子を滅ぼす壮絶な決心をした女性の貌だった。しかし、悲壮感は微塵も無く、むしろほっとした色さえ漂っている。
 「ねえ柚子香さん、いつぞやあなたに沼の伝説を話してさしあげたわね。哀しいお話ではなく、愛し合うふたりが愛を貫いたお話だ、と。でも、あれは嘘。ほんとはそんな風には思っていませんの。もず姫は遺児である若君を、黄泉の国から操って、ゆず姫の娘とそして自分を裏切った憎い殿の愛息を死に追いやったのよ。少なくとも、私はそう解釈しているわ・・・」
 言い終えると彼女は背筋を美しく伸ばして庭を突っ切って進んでゆく。その遥かかなたには今を盛りの紅葉に縁どられた沼が、きらめいて待っている。
 足取り確かな彼女の後姿が門を出て、森陰に消えてゆくのを見送りながら、柚子香は凍りついていた。
 いつのまにか芳野がかたわらにたたずんでいた。
 「なんてお気の毒な百舌絵お嬢様・・・・。傾きかけた分家のご実家を再興するためのご縁談とも知らず、お若くしてお輿入れになり、あの残忍な先代様のために幹吾様との間を裂かれ、あげくこのような道をお辿りになるなんて・・・・。せめて、ご実家のご両親様が生きておいでになれば、こんなことには・・・・・・」
 言うなり大きく泣き崩れた。
 あれほど晴れていた陽が陰った。
 柚子香は抱きしめていた楡彦の上半身を元通りテーブルにもたせかけると、一歩一歩退いていった。そのままきびすを返し、しゃにむに林の中へ分け入っていく。
 銀杏やブナ、柏、楢の木々が太い幹を並べ頭上にも足元にも絢爛たる秋の文様を織り広げている。そこは、一年前幸せだった頃の彼女が楡彦に連れられてよく散策した小高い丘だ。
 ひとしきり強い風が吹き渡り、辺り一面を落ち葉の雨が降りそそいだ。柚子香はふと顔を上げ、わが目を疑った。
 落ち葉のとばりの向こうに、深い藍の紬の袖に腕を入れてたたずむ楡彦の姿が浮かび上がったのだ。紬は過ぎし日に柚子香がひと針ひと針心をこめて縫い上げたものだ。
 柔らかい前髪が風になびき、青年の眼は柚子香を捉えると穏やかな笑みを浮かべた。
 愛憎の桎梏から解き放たれた死者の顔はこの上なく満ちたり、静謐だ。
 柚子香は思わず息を止め、声をかけようと一歩前に踏み出した。途端に幻はたちまち消え失せ、そこには落ち葉の乱舞だけが残った。
 お腹の胎児が激しくうごめき、柚子香は我に返った。木枯らしの底で丘に取り残されている自分に気づく。
 そうだった・・・・。もう楡彦はいないのだ。自分の手を見やり、くしゃくしゃに握り締めているものが彼の手紙であることを思い出す。まだ震えの止まらぬ指を、無理にこじ開け、やっとのことで便箋を広げた。
 宛名が、「姫橘様」
 と、いったん書いた後、斜線で消して書き直されていた。
 「樹之宮柚子香様」
 それは幹吾の娘という意味ではなく、あの桜の下で叶えられなかった名に違いない、と柚子香は思った。

 「鵙ヶ沼屋敷の庭先でこれを書いている。咲き遅れたショウキ欄がいつぞやのデコルテを着た君のようだ。
 君は決して僕を赦しはしないだろうし、僕もまた赦しを乞うつもりはない。
 だが、どんなに痛罵されようとペンを取らずにいられなかった。

 生まれてくる児には今度こそ、
 もず姫ゆかりでもなく、
 ゆず姫ゆかりでもない、
 自由な名前をつけてやり、僕も君も得られなかった母親の愛情をできうる限り注いで育ててやってください。
 海藤を通じて伊豆の別荘のことを聞いてくれたことと思う。一蹴されるかもしれないが、いつまでも好きなだけ、住まってください。

 君と暮らした日々によって、僕の膿みただれた魂がいかに癒され、慰められたか、今になってようやく胸にしみている。

 とても穏やかな陽射しだというのに、黄金色の光が蕩けては僕の胸にせめぎ寄せる。僕は今、熱烈に君のお腹の子を羨望している。
 やみくもに君が恋しい。
 君の子宮に還りたい。
 今、かたわらに君がいたなら――――――」


                     ゆず姫もず姫    完


    *  あとがき  *

 この作品は夢と現実のはざまで思いついたものです。
 その時はこれは洋物でした。イギリス辺りの地方貴族の家に、アメリカ辺りからの女学生がそこの息子に夏休みに避暑に招待されて城へやってくる。そしてあの異常な家族関係に驚く、という――――――。
 その何ヶ月か後に、もっと話にふくらみを持たせたくて、せっかく息子の母親と、来訪者の娘という対比があるのだから、十数年前に思いついて放っておいた、「ゆず姫、もず姫」という対比物にうってつけのタイトルを使って、舞台を日本に持って来ようなどとかんがえたのであります。とすれば、必然的に貴族(華族)の存在した時代になるわけで、今までほとんど興味の無かった大正時代を選ぶことになり、この話か、もうひとつドンパチのSFか、どちらを先に書こうと悩んでいた私には到底この話が好きになれる自信はありませんでした。結局ラストまでストーリーが決まっているという強みを持っていたこの話を優先して書き始めたのですが、いったん書き始めるといのしし年の私は没頭してしまいました。
 ただ単に年齢も顧みず、楡彦どんにぞっこんになっていただけかも知れませんが、彼に限らず、私にとって執筆中の作品の中のヒーローはそれぞれその時その時の恋人でもあります。
 それにしても今回は、最初から結末が決まっていたので、ラストゆえの巧妙な伏線を綿密に張り巡らすという楽しみを存分に味わうことができました。
 本来、創作というのはそうあるべきだと思うのですが、行き当たりばったりに書き進めていくうちに、作者も予期していなかった事実が浮かび上がったり、偶然につじつまが合ってしまったり、という楽しみもあることはあるのです。しかし!このやり方は非常に危険で無謀で読者の方に誠意を欠いたやり方だと思うし、作者自身、中毒患者になってしまいます。無論心地よい酔い方ではありますが。話が横にそれました。
 そういう意味で、「ゆず姫、もず姫」は私にしてみると割合、計算された構造を持っていました。
 高校時代、「海王星哀歌」でサドと異名をとった、実証をしてしまったような作品になってしまいました。でも、ヘーゼンと登場人物を苛めていたわけではありません。現に、ラストの手紙のところは涙、涙で考えましたとも。

* えぴそーど あ・ら・かると *

伯爵の鬼のしごきの中に、屋敷内の私設道場で剣道によるめったたきなんぞもかんがえたのですが、星一徹でもあるまいに、ちょっと優雅さに欠けるので、却下。
多芸な楡彦どんでしたが、ピアノよりヴァイオリンのほうがイメージに合ってると思います。ま、茶道はするわ、語学は達者だわ、それに大学はきっと経済か何かをやっていただろうし、生け花は披露してはもらえなかったけど、これ以上やらせると(このままでも充分?)あまりに嫌味なので却下。
 当時の娼妓は十八歳以上と、お上の取締りが厳しかったそうで、んじゃ、十七歳の柚子ちゃんは?ってことになるんですが、そこはそれ、欲の皮のつっぱった遊郭の主人と、楡彦どんの袖の下で取引があっただろうことは想像にかたくないのですが、ちょっと弁解がましいので、却下。
 海藤さん、あんたは偉い!登場人物の中で、作者からたったひとり、拍手を送って進ぜましょう。柚子ちゃんの色香に、歯を食いしばって耐え、あまつさえ足長おじさんになってあげるとは・・・・・。あの後、真宝子さんとの縁談はどうなったのでしょう。考えるのが恐いので触れずにおきませう。
 後、忘れてはならないのが楡彦どんのクラシックパンツ伝説!
・ ・・・というふうに多分に遊ばせていただいた数ヶ月間です。
ラストで出てくるショウキ蘭は、レモン色の彼岸花を、イメージしてください。一度、作者も本物を見てみたい。
付記としまして、実在人物でのイメージを。

楡彦・・・・・辰巳琢郎と橋爪淳をたして二で割り、二十代後半に若返らせる。
       しかし、今は藤木直人さーん!彼をおいて他にない。
柚子香・・・・葉月里緒菜or宮沢りえ(共に十代の頃)
       もちろん母の姫橘との二役
樹之宮伯爵・・・岡田真澄
海藤優馬・・・・佐藤浩市
真宝子・・・・・樋口可南子or黒木瞳
先代葉之助・・・三国連太郎(親子で競演を願ってしまった)
芳野・・・・・・岸田今日子
仲居頭・・・・・石井富子
百舌絵・・・・・黒田福美or吉永小百合
                          (敬称略)

柚子香のお腹の子こそが、foreverと言えるのでは?と今になって気がつきました。楡彦は約束を守ったわけです。

                        海道 遠

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